18 過ぎた力は身を亡ぼす
男は涼しい顔のまま、杖を振るった。
「【ロディエク】」
その言葉を合図に、開いたままのトランクケースから黒い煙が噴き上がる。膨れ上がった煙はうねりながら形を変え、やがて二頭目の死霊となって地面へ降り立った。
「そんなあ!」
晴野が絶望したように叫ぶ。
「二頭目ぇ!?」
死霊は五つの首を長く伸ばし、剥き出しの牙をぎらつかせた。巨体が地面を抉り、周囲の木々を薙ぎ倒しながら襲いかかってくる。
東雲は獣の牙をかわし、その隙を縫って人形師へ魔法を放った。けれど、男は余裕の笑みを浮かべたまま、飛来した光をあっさりと弾き返す。
頭数が足りない。
白峰と晴野が死霊の首を引き受け、次々と切り落としていく。しかし、切断面からは新しい頭がぬるりと生え、瞬く間に元の数へ戻ってしまった。
「氷月捜査官、あなたも随分と腑抜けましたね。死神と恐れられたあなたが、これほど手間取るとは。弱っているという噂は、本当だったらしい」
言葉の裏に、隠しきれない嘲りが滲んでいる。
けれど、それは今ここにいる燐に対しては、ひどく妥当な評価でもあった。
燐はずっと、自分にできることを探していた。抉れた石畳から瓦礫が飛び、巨大な獣が牙を剥いて迫ってくる。噛まれれば終わりだということだけは分かっている。
身体は驚くほど自由に動いた。けれど、考えれば考えるほど、手足は震えた。
逃げたい。怖い。
耳の奥では悲鳴のような音が鳴り続けている。それでも、目の前へ迫った牙を見た瞬間、口が勝手に動いた。
「【セーレハルニア】」
放たれた光が空を走り、死霊の首を一つ切り落とした。
どうすればいい。あの男を、どう崩せばいい。
いつの間にか、そのことだけが頭の中を占めていた。
――あの魔力量で、これだけの契約を維持できるはずがない。
――魔法を支える媒介がある。
燐は頭を振った。
耳の奥で、自分ではない思考が響いている。
「ケースだ!」
白峰の声が飛ぶのと、燐がトランクケースへ目を向けるのは、ほとんど同時だった。
あれだ。
そう確信した瞬間、燐は身を翻し、《《いつの間にか》》手の中にあった杖を振るった。
地面へ置かれていたトランクケースが浮き上がり、蓋を開いたまま、石畳の上を滑るように燐の前へ引き寄せられてくる。
中は真っ黒だった。
底のない闇が、そのまま詰め込まれているように見える。
「燐さん!」
東雲の叫び声が飛んだ。
「やめろ! それに触るな!」
人形師は初めて焦りを露わにし、燐へ向けて杖を振った。
雷のような光が周囲を青白く染め、幾重もの光線が乱れ飛ぶ。東雲たちは男の魔法を防ぐため、意識をそちらへ向けた。
その一瞬だった。
燐は、死霊への警戒を外してしまった。
右腕に、鋭い痛みが走る。
振り向くと、太い牙が腕へ深く食い込んでいた。
燐は反射的に杖を振り、獣の首を切り落とした。黒い袖に開いた二つの穴から血が溢れ、布をみるみる赤黒く染めていく。
けれど、不思議なほど痛みはなかった。
だからだろうか。燐は傷へ意識を向けることなく、目の前のケースを見つめ続けた。
開いた蓋の裏には、黒い円形の紋様が描かれている。複雑な線が幾重にも絡み合い、一つの魔法陣を形作っていた。
燐は迷わず、杖先をその線へ走らせた。
整然と繋がっていた一本が、ぶつりと断ち切れる。
途端に、紋様の隙間から真っ黒な液体がどろりと溶け出した。墨のような液体が蓋の溝へ溜まり、魔法陣の形を崩していく。
その瞬間、十の頭が一斉に人形師を振り返った。
男が短い悲鳴を上げ、後ろへ下がる。
次の瞬間、標的を変えた二頭の死霊が、一斉に男へ襲いかかった。
「ぎゃあああっ!」
抵抗する間もなく、牙が男の身体へ食い込んだ。
噛まれた箇所から黒い痣が広がり、皮膚がぼろぼろと崩れ始める。
塵みたいに。紙屑みたいに。
男の身体は少しずつ剥がれ落ち、風に巻き上げられていった。
「そんな……」
燐は、思わず声に出していた。
このままでは死んでしまう。
「や、やめ……助け……」
男が、そう口を動かしたように見えた。
恐怖に見開かれた目と、燐の視線が重なる。
助けを求めている。
崩れ落ちる身体を引きずられながら、男は残された腕をこちらへ伸ばしかけた。
燐も、反射的に一歩を踏み出した。
そのとき、ばちん、と落雷のような音が響いた。
続けて、もう一度。
燐は反射的に目を閉じた。
次に目を開いたとき、死霊も、人形師も、その場から消えていた。
男の金切り声だけが耳の奥へ残っている。悲鳴は木々を震わせながら細く遠ざかり、それきり途絶えた。
「あーあ……」
東雲は消えた場所を見つめたまま、ゆっくり身体を起こした。
「過ぎた力は身を滅ぼす。魔法の基本なのに」
「連れていかれたな」
「後味の悪い終わり方っすね」
白峰が肩をすくめ、晴野が乾いた笑みを浮かべる。
状況を理解しきれていないのは、燐だけだった。
「『怒れる幻想生物種に触れるべからず』。自業自得だ」
白峰は倒れていたトランクケースへ近づき、杖先で蓋を押し上げた。
「俺たちの最優先は、事件の解決と魔法の調査だ。その過程がどうなろうとな。身柄を確保して、法で裁けるなら理想だが、それは理想の、そのまた理想だ」
「……本来なら、法で裁かれるべきでした」
東雲の声は低かった。
白峰は大きく息を吐き、ケースの内部を覗き込む。
そのとき、燐の足元で何かが小さく光った。
反射的に膝を折り、それを拾い上げる。
指輪だった。
ベンチへ目を向ける。
人形へ変えられた女性の指から、抜け落ちたのだろう。光を失った青い瞳と、恐怖と苦痛を貼りつけた白い顔が、座ったまま燐を見つめている。
燐は、もう一度トランクケースへ視線を移した。
目の前で消えていった男の最後の顔が、瞼の裏へこびりついて離れなかった。




