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月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第三話「混乱 / The Confusion」
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17 人間と魔法使いのためのルール

 透き通ったガラス玉のような青い瞳が、ぼんやりと空を見つめていた。


 精巧な人形はベンチの背にもたれ、両腕を力なく投げ出している。子どもの忘れ物だろうかと思い、燐は拾い上げようと手を伸ばした。


 けれど、人形は持ち上がらなかった。


 片手ではびくともしない。腕を掴んで引いてみても、人形とは思えないほど重かった。まるで、中に鉛でも詰まっているみたいだ。


 燐は虚ろな青い瞳を訝しんだ。華やかなドレスに、肩口で緩く巻かれた艶やかな赤毛。整いすぎた顔立ちはあまりに人間めいていて、作り物だと分かっているのに落ち着かなかった。


 距離を取ろうと後ずさった、そのときだった。肩が何かへぶつかる。


「――人形は、お好きですか?」


 耳元へ落ちた甘ったるい男の声に、背筋がぞわりと粟立った。


 反射的に振り返ると、黒いハンチング帽をかぶり、深緑色のトレンチコートをまとった若い男が立っていた。右手には、角張った革製のトランクを提げている。


「またお会いできて光栄です、氷月捜査官」


 芝居がかった口調で、男は笑った。


 燐は言葉を失った。全身が、この男は危険だと警鐘を鳴らしている。


「今日は、あなたのために一つ用意したんですよ」


 男はベンチの人形へ視線を流した。


 どうですか、と言われても、何のことか分からない。この男は氷月燐を知っているらしいが、東雲のような仲間には見えなかった。


「……私に?」


「ええ。喜んでいただければと思ったのですが」


 男はベンチへ近づき、人形を見下ろした。


「お気に召さなかったのなら、この子も必要ありませんね。残念だ」


 人形へ向かって、男が何かを囁く。葉擦れに紛れてしまいそうな、小さな声だった。


 次の瞬間、人形の身体がぐにゃりと歪んだ。


 輪郭が膨らみ、手足が伸び、燐と同じほどの背丈へ変わっていく。その形はやがて、人間そのものになった。


 蒼白な顔。虚ろな瞳。魂が抜け落ちたような女が、がらんどうの目で燐を見つめている。


 燐は恐怖で口の中が乾き、思わず飛び退いた。


 男は笑みを崩さない。


「以前ここでお会いしたとき、あなたも私と同じで、人形がお好きなのかと思ったのです。お気に召しませんでしたか?」


 ベンチへ座る女は、若い人間を模した蝋細工のようだった。青白い唇は半ば開き、恐怖と苦痛を塗り込めたような顔が、重力に従ってかくりと俯く。


 袖から覗く腕は小枝のように細く、指先も力なく垂れていた。


 その指に嵌められた小さな指輪を見た瞬間、燐の背中を冷たいものが這い上がった。


 精巧に人間へ似せたのではない。


 人間を、そのまま人形に作り替えたように見えた。


 男は女から目を離し、燐へにこりと微笑んだ。


「では、あなたを人形にしましょう」


「は……私を?」


「ええ。よいと思ったんです、氷月捜査官。特に、その美しいタンザナイトの瞳。初めて見たときから、気に入っていました。あまりにも珍しい色だ」


 逃げたい。今すぐ、この場から走って逃げ出したい。


 そう思っているのに、身体のどこか別の場所が叫んでいた。


 ――目の前の男から逃げるな。


 ――この男は、罪を犯した者。


 ――この男は、燐の敵。


 ――魔法を紡げ。声を上げろ。


 恐怖は胃の底からせり上がってくるのに、頭だけが妙に冴えている。その噛み合わなさが、ひどく気持ち悪かった。


 この感情は誰のものなのか。この感覚は、本当に自分のものなのだろうか。


「燐さん!」


 背後から東雲の叫び声が飛んだ。


 同時に、白い閃光が男へ叩きつけられる。光が弾けて視界が真白に潰れ、その一瞬の隙に、燐は腕を掴まれて後方へ引き寄せられた。


「何をしているんですか!」


 怒鳴られ、燐は呆然と東雲を見上げた。


「魔法の使い方まで忘れたんですか!?」


「あ――ご、ごめんなさ……」


 東雲の鋭い視線が突き刺さり、燐は途中で口を噤んだ。


「怪我は?」


「な、ない」


「魔法は一秒が命だと、そう言ったのはあなたでしょう」


「さっきの、燃えていたものは……」


「あちらは大丈夫です。ほかの仲間も来ています。残るは、あれだけです」


 東雲の視線が男へ向けられる。


「『人形師』」


「……あの人は」


 燐はベンチでうなだれている女へ、恐る恐る目を向けた。


「残念ですが、もう助けることはできません」


 東雲は淡々と告げた。


 その淡々とした声が、かえって燐の喉をひりつかせた。


「……よくも、邪魔を」


 地の底を這うような声が響いた。


 白い光に目を眩ませていた人形師が、片手で目元を押さえながら、もう一方の手を持ち上げる。


 次の瞬間、東雲に引かれた燐の身体が右へ倒れ込んだ。


 直前まで二人が立っていた地面が抉れ、石礫と砂埃が一気に舞い上がる。東雲は跳ね起きると同時に杖を振ったが、人形師は飛来した魔法を弾き返した。


 胸元で白い光が散ったと思った次の瞬間には、男の杖が燐へ向けられている。


「うっ!」


 腹部へ衝撃が走り、燐の意識は一瞬、痛みに塗り潰された。


 何が起きたのかも分からないまま後方へ吹き飛ばされ、木の幹へ身体を打ちつける。


「【レヴィス・アステ】! 燐さん、しっかりしてください! 燐さん!」


 東雲と男の攻防は、燐の目では追えないほど速かった。


 杖が振られるたびに光が放たれ、互いの魔法が空中で衝突して消える。石畳を砕きながら迫る攻撃を、東雲は杖を翳して受け止めた。


 燐には、何もできなかった。


 腹を押さえ、蹲ることしかできない。身体の痛みなのか、内側で何かが暴れているのかも分からなかった。


 それでも、燐は歯を食いしばり、足へ力を込めた。スーツの腹部を握りしめたまま、無理やり身体を起こす。


 人形師は東雲の攻撃を防ぎながら数歩退き、にやりと笑った。


 ベンチへ座る女の躯へ近づくと、手にしていたトランクを地面へ落とす。


 ぱかり、とケースが口を開いた。


 轟音とともに、石礫を含んだ黒煙が奥底から噴き出す。砂塵は生き物のように口を広げ、ベンチの女を呑み込むと、そのままトランクの中へ吸い込まれていった。


 一瞬だけ、辺りが静まり返る。


 直後、火山の噴出口から溶岩が吹き上がるように、黒いものが一気に湧き上がった。


 それは巨大な獣の形を取り、東雲へ牙を剥く。


「【セディエルア】! 東雲、そいつは『ホルトゥ』だ! 噛まれるな!」


「『ホルトゥの死霊』か!?」


 鋭い声とともに、一閃が空気を裂いた。


 先ほど燐の前を走り抜けていった、サングラスの男が駆け込んでくる。その後ろには、燐よりも青白い顔をした茶髪の青年が続いていた。


 二人とも、夜へ溶け込むような黒い服を身につけている。


 サングラスの男は白峰。茶髪の青年は晴野。どちらも燐の同僚だと、頭のどこかにある知識が告げた。


「くそっ! あの番犬より質が悪いな!」


 白峰が苦々しく吐き捨てる。顔には、濃い疲労の影が浮かんでいた。


「分裂していないだけ、まだましか……」


「ははっ、ですね。死霊も、さっきみたいに骨を投げれば食いついてくれるかな」


 晴野は冷や汗を流しながら笑い、それから燐へ顔を向けた。


「燐さん、大丈夫ですか?」


「え、あ、ええ……。大丈夫。動ける」


「本当か?」


 白峰が怪訝そうに眉を寄せた。燐が頷くと、彼はわずかに目を細めた。


「ならいいが、今日は妙に気が抜けてるぞ……っ!」


 白峰が杖を振ると、魔法の刃が五つある獣の首を一つ切り落とした。


 残る四つの首が悲鳴を上げる。しかし、落ちた断面から新しい頭がぬめるように生え、元の数へ戻っていく。


 東雲が表情を強張らせたまま、白峰の隣へ並んだ。


「さすが梟。よく知っていますね。『ホルトゥの死霊』は、噛まれた箇所から呪いに侵され、最後には死に至る」


「よくもまあ、こんな大層な幻想生物種(レヴェリー)と契約を結べたものだ。ディゼバの炎に、アウセンディーヤの番犬、それに死霊。そろそろ魔力も限界なんじゃないか?」


「私は、そこらにいる軟弱な魔法使いとは違う」


 白峰へ向けて、人形師は薄暗い笑みを深めた。


「贄なら、掃いて捨てるほどそこら中にいる。死霊は、死んだ人間を好むのでね」


「……作った人形を、人間を、贄にしていたのか」


 東雲が低く問いかけた。


「人間も本望でしょう。私の人形になれば、いつまでも美しいままでいられる。我々とは違い、人間は百年も生きられない。短命で、すぐに老いる。哀れな生き物なのですから」


「まったく、歪んでる」


 東雲は短く息を吐き、深い紺青の瞳を細めた。


 その目に宿る光は、群青の波間へ差し込む陽光のように、冷たく鋭く、それでいて真っすぐだった。


「魔法による大量殺人。人間の魂の変形。そして、登録禁止魔法の使用」


 東雲は男を見据えたまま、一つずつ罪を告げる。


「お前の行為も、その魔法も、我々は見逃さない。魔法法第一章第一項、『魔法使用に関わる基本的規定』への明確な違反だ。理解しているのか?」


「あはは。ええ、分かっていますとも」


 人形師は愉快そうに笑った。


「ですが、私たちは魔法使いだ。人間が決めた、()()()()()()ルールへ従う義理などない。そうでしょう?」


「いいや」


 東雲は、力強く言い切った。


「これは、()()()()()使()()()()()()ルールだ」


 その言葉に、燐は息を呑んだ。


 東雲は杖を構え、人形師へ宣告する。


「我々は『梟の魔法使い』。魔法法執行者の権限に基づき、お前の身柄を拘束する」

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