16 私には、無理だ
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冷たさの残る空気を切って降りていくと、眼下には、鬱蒼と木々の茂る広大な敷地が広がっていた。
街灯が遊歩道を点々と照らし、その脇には手入れの行き届いた花壇が列をなしている。霧雨を吸った花弁は、重たげに首を垂れていた。
広い公園だった。
燐は木々の間を抜け、遊歩道の一角で箒を止めた。石畳のきわへ降り立ち、周囲を見渡す。先ほどまで響いていた爆発音はすっかり途絶え、雷のように鋭かった光も、いつの間にか消えていた。
不気味なほど静かだった。遊歩道にも、芝生や木々の向こうにも、人の気配がない。先に降りたはずの東雲の姿さえ、どこにも見当たらなかった。
「し……東雲?」
返事はない。
あるのは暗い木立と、どこか怪しげな街灯の光ばかりだった。
燐は一歩、二歩と石畳の上を進んだ。ぶわりと冷たい風が全身へまとわりつき、思わず目を閉じる。
そうして、もう一度目を開いた瞬間だった。
視界を塗り潰すほどの閃光が、幾つも同時に迸った。
さっきまでの静かな公園は跡形もなく消え、代わりに地獄のような喧騒が広がっている。
「燐! ぼうっとするな、退け!」
怒鳴り声と同時に、サングラスをかけた髭面の男が雑木林から飛び出してきた。
男は黒い影に追われながら燐の横を走り抜け、重たそうなローブを翻して杖を振るう。追ってくる影は犬の形をしていた。目だけが赤く、身体からは黒い泥がだらだらと滴り落ちている。その雫が地面へ触れるたび、そこから新しい影が次々に湧き上がった。
「あんの野郎っ! ディゼバの炎とアウセンディーヤの番犬を出しやがった! 晴野のやつ、俺に……覚えてろよ!」
悪役の捨て台詞のような言葉を吐き捨て、男は走っていく。
放たれた魔法が影を貫いても、犬たちは怯まなかった。散るどころか、その数を増やしていく。男は悪態を吐き続けながら左手の雑木林へ駆け込み、最後に苦虫を噛み潰したような顔だけを残して消えた。
――取り残された。
燐は、その場に立ち尽くした。
頭上では、極彩色の光が幾つも空を切り裂いている。遊歩道へ視線を戻せば、整っていたはずの石畳は剥がれ、花壇の植物はことごとく茶色く枯れ、木々は根元から遊歩道へ倒れ込んでいた。
濃紺だったはずの空まで赤く染まっている。煙の中を数人の魔法使いが箒で飛び回り、その中には東雲らしき姿も見えた。
火事だ。
そう思ったが、燃えているものは普通の炎ではなかった。
炎は巨大な人の手の形をしていた。
――『ディゼバの炎』。炎の悪魔の化身。
知らないはずの言葉が、意味まで伴って頭の中へ落ちてくる。
燐は全身を強張らせ、反射的に後ずさった。燃え盛る手が飛び回る人影を追い、木々の上を横切り、空を薙ぎ払う。そのたびに赤い炎が膨れ上がり、雑木林の奥からは、のっそりと巨大な炎の怪物が姿を現した。
「ひっ……」
喉の奥から、短い悲鳴が漏れた。
足がもつれ、燐はよろめきながら数歩後ろへ下がる。
熱風が頬を撫でた、その次の瞬間だった。
目の前には、人気のない静かな公園が戻っていた。
「……え?」
鮮烈な光も、黒い影の犬も、炎の怪物も、そこには何一つ存在しない。薄い乳白色の霧の向こうに星が瞬き、静かな木立と、街灯に照らされた遊歩道が奥へ続いているだけだった。
「ど、どう……ど、……え」
先ほどまでの焼けつく熱は消え、代わりに冷え切った風が身体へ染み込んでくる。
燐は言葉を失ったまま、恐る恐る、もう一度前へ足を踏み出した。
途端に、喧騒が戻った。
遠くで白い閃光が走り、上空でも、別の場所でも、色とりどりの光が闇の中で弾ける。燃え盛る手が大きく振り下ろされ、火柱が上がった。直後、灼熱の暴風が吹き荒れ、その衝撃に身体を押された燐は、また一歩後ろへ下がった。
世界は、再び静寂へ反転した。
――私には、無理だ。
梟の鳴き声が、どこか近くで一度だけ響いた。
燐は綺麗なままの石畳へ視線を落とし、その場に立ち尽くした。足を前へ出す勇気がない。心が拒んでいるというより、身体そのものが、燐の意思に逆らって後ろへ引き戻されていた。
静かな公園と戦場が、同じ場所に重なっている。
何らかの魔法によって境界が作られ、その内側だけが別の状態になっているのだろう。そこまでは、頭の中へ流れ込んでくる知識から理解できた。
けれど、分かったところで、心も身体も追いつかなかった。
ふと背後を振り返ると、街灯の下に、一つのベンチが置かれていた。
その中央には、可愛らしいドレスをまとった小さな人形が、ひっそりと腰掛けていた。




