15 そうそう記憶喪失
第三話【混乱 / The Confusion】
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――ドォンッ!
東雲が怪訝そうに燐を覗き込んだ、その瞬間だった。
地響きのような衝撃が周囲を揺らし、斜め前方で強烈な赤い閃光が迸った。炎が炸裂し、直後に何かが鋭い音を立てて飛来する。太い木の枝が、並んで飛んでいた二人の箒の間を勢いよく通り抜けていった。
燐は呆然と東雲を見た。けれど東雲は、これが日常茶飯事だとでも言いたげに肩をすくめ、「あそこか」と呟く。
「い……今、爆発しなかった?」
「しましたね。きっと晴野でしょう。あいつ、何かにつけて、何でも爆発させるのが得意ですから。行きましょう、燐さん」
「何かにつけて……そ、そっか」
「……そうです」
色とりどりの閃光が遠くの空を照らしていた。東雲はそちらへ目を細めたあと、じれったそうに唸る。
燐の返事があまりに曖昧だったからだろう。やがて彼は箒を急停止させ、燐のほうへ向き直った。
「今日は、いったいどうしたんです?」
「え」
「少し、いえ、かなり、今日のあなたは変です! いや、いつだって変でしたけど、今日は一段と、変じゃないところがおかしくて……あれ? おかしくないからおかしいというのも変だし、おかしいことがかえっておかし……うん?」
「ん……?」
『おかしい』のゲシュタルト崩壊に、二人そろって首を傾げた。
「おかし?」
「お菓子じゃなくて!」
東雲は語気を強め、それから大きく息を吸って呼吸を整えた。
「ともかく、今日のあなたは、いつもと違って――」
「あ、あー」
燐は目を泳がせた。それも氷月燐にしてみれば、きっと十分におかしな挙動なのだろう。
「私がおかしいって話ね。確かに、私はおかしいみたい」
「それ、自分で言うんですか……」
「ただ、ちょっとさっき、本当にちょっと、その、頭を打って。たぶん、それで」
「頭を打った? だから、あんなに部屋が散らかっていたんですか?」
「そ、そうなの。いろいろ、こう……ぶつかっちゃって? なんだか頭がぼんやりしているし、その前のことが、どうにも思い出せないの」
「思い出せないって……」
東雲の顔から、少しずつ表情が消えていく。
「もしかして、記憶がないんですか?」
「そ、そう!」
燐は素早く頷いた。
――これは使える。
「記憶がないの。そう、私、いろいろと記憶が……」
「記憶喪失に」
「なっちゃった……みたい。あはは、はは。そうそう、記憶喪失」
無理に笑う燐を、東雲は形のよい眉を歪めたまま見つめていた。
その顔を見た途端、燐の胸にも鈍い痛みが走る。
氷月燐と東雲が、どんな関係だったのかは分からない。けれど、今ここにいるのは、彼の知っている燐ではない。その事実だけは、どう取り繕っても変わらなかった。
「えっと、その……ごめんなさい」
「ごめんなさいって、そんな……」
東雲は言葉を失った。
氷月燐という女は、おそらく「ごめんなさい」をこんなふうに口にする人ではない。困ったように笑うことも、きっとしなかった。
『死神』や『氷の女帝』と呼ばれ、世界中の魔法使いから畏怖と畏敬を向けられる存在。誰にも手が届かないほど強く、有能で、冷静で、罪人を前にしても微笑み一つ崩さない女。
そのはずの人間が、目の前で弱々しく謝っている。
東雲の顔が青ざめた。唇がわずかに震え、瞬きさえ忘れた目が燐を見つめている。
その背後を、また何かが高速で通り抜けた。巻き起こった風に黒髪が舞ったが、東雲は反応もしなかった。
燐は、彼のこんな顔を、初めて見たような気がした。
「記憶喪失……」
「信じられない、よね」
「いえ……むしろ、信じられます。そんな、まさか……」
呆然と頭を抱える東雲を見ながら、燐は内心で息をついた。
よし、記憶喪失でいこう。
こんなにあっさり信じてもらえるとは思っていなかった。
「と、とりあえず行かない? なんか、すごいことになってそう」
燐が、いまだ光線の飛び交っている方向を指すと、東雲は愕然としたまま、ゆるく頷いた。二人は再び箒の先を前へ向ける。
「どこまで覚えているんですか。いや、何を覚えているんです? 俺のことは?」
東雲の声は、先ほどよりもわずかに震えていた。
「覚えて……うん、いるというか、いないというか」
「ものすごく微妙な返事ですね。俺は東雲です。東雲碧惟。燐さん」
その名を聞いた瞬間、燐の頭の奥で何かが閃いた。
音にするなら、ぴきん、という感じだった。
咄嗟に片手で頭を押さえる。すると、洪水のように言葉が口から溢れ出した。
「あなたは東雲。東雲碧惟。一か月と十五日前から私の部下兼相棒で、準一等魔法捜査官。東雲家の次男。魔法種の〈ギリア〉で、スピルはホワイトタイガー。魔法全般において天才と称されるほどの知識を持ち、魔法学、魔法薬学、術式学の『慧眼者』の資格を――」
――なんで、こんなことがすらすら出てくるの。
自分で口にしながら、燐は驚いていた。意味を理解するよりも先に、知識だけが整然と並んで出てくる。
対する東雲の顔は、みるみる明るくなった。
「よかった。全部が抜け落ちているわけではないんですね。その調子なら、いずれ戻るかもしれない」
突然、頭を突き破って飛び出したような情報だった。燐には、その半分も理解できていない。
どうやら目の前の青年は、魔法使いたちの中でも天才と呼ばれる存在らしい。少なくとも、氷月燐はそう評価していたようだ。
「……いろいろなことが抜け落ちてる。何があったとか、どんな話をしたとか、そういう細かいことは」
「この一か月と十五日のことも?」
燐は頷いた。東雲は「そうですか」と答え、そのまま前を向いた。
「ちなみに私は、あなたのことを、なんて呼んで――」
いましたか、と聞きかけて、燐は寸前で口を閉ざした。
危ない。気をつけなければ。
会って間もない相手へ馴れ馴れしい口調で話すことには、まだ抵抗があった。けれど、自分はこの青年の上司なのだ。敬語で話していなかったはずだと、頭のどこかに浮かんだ知識が告げている。
実際、東雲はこれまで、燐の歯切れの悪さには反応しても、口調そのものを指摘してはいない。ここで急に敬語へ変えたら、それこそ箒から落ちかねなかった。
呼びかけるまでに、ほんの一瞬の間が空いた。
その一瞬に、自分は何か大事な線を踏み越えるのだと分かってしまい、燐は息を詰める。
「――東雲、と」
東雲は、ゆるく微笑んだ。
けれど、何も言わないまま箒の先を地面へ向ける。その姿は、どこか逃げるようにも見えた。
「え――」
呼び止める声は、風にさらわれた。
高度を保ったままの燐を置き去りにし、東雲の背中は一気に遠ざかっていく。
「……ところで、だい……大魔導師って、何?」
その問いに答えてくれる影は、もう濃い闇の中へ消えていた。




