14 気が触れていることで有名なので
たしかに、と燐は思った。
今の自分は何も理解できないまま東雲を待たせ、本を開き、黒いスーツに袖を通している。深く考える余裕もないうちに周囲の流れへ巻き込まれ、次にすべきことが次々と決まっていった。
アンバーに問われるまで、この身体の持ち主の人生を、そのまま引き継いでいくことを疑いもしなかった。
けれど、ただ流されているわけでもない。少なくとも、一つだけは自分で選んだ。
――まだ、死にたくない。
どんな形であれ、あの女はその願いを叶えてくれた。そして代わりに、青い炎を探してほしいと頼んだのだ。
「できることだけでも、やってみるよ。せっかく助けてくれたんだから。それに、お願いされたの。それは私にとっても、大事なことだと思う」
『お願いされた?』
「うん。『青い炎』っていう魔法を、探すこと」
アンバーは、ふっと口を閉ざした。さっきまで軽快に動いていた耳も尾も、ぴたりと止まる。
「私も、私の妹も……その青い炎のせいで死んだらしいの。たしかに火事のとき、炎が青く見えた。ア、アンバーは何か知ってる?」
『青い炎の魔法については、御主人から聞いていました。ずっと追いかけていたことも知っています。でも、そうですか。あなたも、あの魔法に巻き込まれたのですね』
アンバーは目を伏せ、綿毛のような尾をゆっくりと下ろした。
『そして御主人は、青い炎からあなたを助けた。御主人らしいと言えば、そうですが……身勝手なところは、最後まで変わりませんでしたね』
「アンバー……」
ふざけた調子を収めたまま、アンバーは静かに続けた。
『そうですか。燐が……。御主人、分からないことは、これからもたくさんあるでしょう。与えられた人生を、すぐにでも終わらせたいと思う日が来るかもしれません』
黄金色の瞳が、鏡越しに燐を見つめた。
『それでも、あなたが氷月燐として生きると決めたのなら、ボクはその選択に従います』
「あ……ありがとう、アンバー」
『ええ! ボクは御主人想いの、良い有翼クレイスティパノルス犬ですからね! 御主人を助けるのが、ボクの仕事です。それでは、あまり彼を待たせると、また怒られますよ』
「う、うん……」
燐は玄関に置かれていたヒールへ足を入れた。履いたこともない高さの靴なのに、不思議なくらい足に馴染む。立ち上がって扉へ手をかけたところで、アンバーがふいに呼び止めた。
『でも、いいですか。これだけは頭の中へ入れておいてください。御主人は、「う、うん……」なんて頷き方は絶対にしません!』
「え?」
アンバーの黄金色の瞳が、鋭く光った。
『絶対に、ぜーったいに、以前の御主人ではないと知られてはなりません! 話してもいけません! 玄関の外にいる、あの生意気なこわっぱにも、あなたの仲間にも。特に、同じ魔法使いにはですよ!』
「で、でも、アンバーは分かったじゃない」
『ボクには契約がありますから。大抵の人間や魔法使いには分かりませんが、ボロを出したらおしまいです』
「え、ええっ。なんで?」
『いいですか。ボクは言いましたよ。きちんと警告しましたからね。正体が知られたら、捕まるんですよ!』
「捕まるって――捕まる!? 逮捕ってこと!?」
『そのとおりです!』
――逮捕。警察に捕まるということ? 手錠をかけられて、きつい取り調べを受けて、裁判にかけられて。
燐は目覚めてから今までの言動を一気に思い返し、さっと血の気が引いた。
「無理じゃない!? 絶対、もう気づかれてるって! いや、むしろ仕事には行かないほうがいいじゃない! そもそも仕事って何? 行かなくてもいい? 私、今日から引きこもりになる!」
『何を言ってるんですか!』
アンバーは即答した。
『仕事中毒の御主人が行かないほうが、よほど怪しまれます。それに、御主人は気が触れていることで有名ですから、少しくらい様子がおかしくても疑われません! さあ、御主人!』
「ちょっと待って。今、聞き捨てならないことを二つ聞いた」
つまり、新しい人生をもらったその日に、お縄になる可能性があるということだろうか。
なんて人生をくれたんだろう。助けてもらったばかりで悪いが、元の燐には一言言いたくなった。
『気づかれなければ、きっと……たぶん……大体、まあ六割くらいは大丈夫です! では、いってらっしゃい!』
「それは大丈夫じゃない――うわっ!」
もふもふの肉球で肩を押され、燐は勢いのまま玄関の外へ飛び出した。
ちょうど扉を開けようとしていたのか、その先には東雲がぽかんと立っている。燐はその顔を見つめ、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
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「招集って、何の?」
「徹夜とコーヒーの飲みすぎで、さらにおかしくなったんですか……? 『人形師』の件ですよ」
燐と東雲は、箒に乗って空を飛んでいた。
箒は玄関の外の廊下へ立てかけられていて、その扱いについては、東雲から随分と小言を言われた。おそるおそる柄へ手をかけた瞬間、身体は乗り方を心得ていると言わんばかりに自然と箒へ吸い寄せられ、そのまま気づけば上空へ舞い上がっていた。
魔法使いだ、と燐は思う。魔法が使える。夢みたいだけど、夢じゃない。
感動している場合ではないはずなのに、胸の奥が少しだけ浮き立った。
部屋の外には、本当に別の世界が広がっていた。凛が暮らしていたコンクリートの街とは違い、白や茶、灰色を基調とした石造りの建物が、隙間なく並んでいる。
一つとして同じ形の建物はなく、壁の模様も、屋根の色も異なっていた。幼い頃に読んだ物語に出てくるような、可愛らしい街並みだ。無機質な住宅街と比べれば緑も多く、軒先には植木鉢や花壇が飾られている。
ただし、それらは濃い霧に覆われ、輪郭の半分ほどしか見えなかった。
燐の中にある、知らない記憶が告げる。
この世界は、ファル・カタル。自分が生きていた世界の裏側に存在する、魔法の世界。そして、この地はその中心部に位置する〈霧に隠された地〉。深夜から朝にかけて、乳白色の霧に覆われる街だった。
今の時刻は、朝の七時。
「『人形師』、ね」
「見張りをしていた白峰さんと晴野から連絡があったそうです。中央公園の近くで、魔力が検知されました」
斜め前を飛ぶ東雲が、振り返らずに答えた。
細かな雨粒を含んだ霧が、冷たく顔へ当たる。一定の速度で進んでいるせいか、霧雨は細い針のように肌を刺した。燐が濡れた目元を手の甲で拭った瞬間、頭の中へ一つの言葉が浮かぶ。
「【セーレハルニア】――」
顔へ当たる水滴をどうにかしたかった。せめて、目の前に立ち込めている霧だけでも薄くなればいい。そう思っただけだった。
けれど、口から零れた言葉に応えるように、街を覆っていた霧が綺麗さっぱり消えて無くなっていた。
視界が一気に開けた。
街の向こうには山脈が連なり、そのさらに奥には、まだ夜の名残を抱えた星空が広がっている。沈みかけた月が、二つも浮かんでいた。
呆然とする燐の隣で、東雲が感嘆したように声を上げる。
「わあ……さすがですね」
「……まじ?」
「え? はい。連絡が来たのは一時間ほど前です。燐さんにも何度か連絡したのですが、出なかったので、俺が迎えに」
東雲は、霧が消えたことにも、燐が魔法を使ったことにも、特に驚いていなかった。
「あ――わ、そ、そう。それは、ごめんなさい。気分が……悪くて」
「仕方ありません。俺も今日は、三日ぶりに少し眠ろうと思っていたんですが、この状態ですからね。参っちゃいますよ」
東雲は肩をすくめた。
「でも、あなたは今日で五徹するところだったんです。いくら大魔導師と呼ばれるあなたでも、眠らずにいれば体調くらい悪くなります。これを機に、生活習慣を見直してください」
「待って。誰が、何だって?」
「俺が、三日ぶりに仮眠を」
「それじゃなくて!」
「あなたが、生活習慣を見直して」
「その前! 私が、だい、だい……何?」
「大魔導師ですよ」
東雲は飛びながら振り返った。
「魔法使いの中の魔法使い。抑止力を担う者。魔法使いたちから恐れられる、最も崇高な称号の一つを持つ魔法使いです。今さら、何を言ってるんですか」
その鋭い視線を向けられ、驚きを通り越して思考停止しかけていた燐の心臓が、どん、と大きく跳ねた。
「燐さん、もしかしてあなた……」




