13 若返りましたか、御主人
「わっ、な、なに! えっ、なにっ!? なんなの!?」
『新鮮な反応をありがとうございます。だけど……おやおや? 若返りましたか、御主人』
「めちゃくちゃ良い声……じゃなくて! ま、前が見えない!」
『これは失礼いたしました。ボク、久しぶりの外につい気が逸ってしまいまして』
どこからともなく響く、低く落ち着いた声。その声に合わせるように、まばゆい光がようやく弱まり始めた。
燐は恐る恐る目を開いた。視界の奥ではまだ光がちかちかと瞬いていて、何度か瞬きを繰り返さなければ輪郭が定まらない。
やがて、視界の端で、丸くふわふわとした小麦色のものが揺れた。
燐は真っ白になった頭のまま、まず手元の本へ視線を落とした。先ほどまで表紙にあった奇妙な題名も、擦れた絵も跡形なく消えている。真新しいほど白くなった本は、何事もなかったように沈黙していた。
その代わり、目の前には、小麦色をした丸い生き物がふよふよと浮かんでいる。
身体つきは犬に似ていた。
けれど、耳は兎のように長く、ぴんと上へ立っている。全身を覆う毛は、犬よりもずっと柔らかそうで、空気ごと綿を抱え込んだようにふっくらとしていた。
もう少し細身なら、狼か狐の仲間に見えて、それなりに格好がついたかもしれない。だが、現実には全体的に丸い。餌を与えられすぎ、見事に育った犬みたいだと、燐は思った。
ただし、その綿毛のような尻尾は身体の倍ほども長く、背中には小さな羽が二つ、当たり前のように生えている。しかも宙に浮かび、人の言葉を話していた。
それはもう、燐の知っている犬ではなかった。
「――へんなせいぶつ」
思わずこぼれた一言に、生き物は目を見開き、勢いよく顔を近づけてきた。
「ひぃっ!」
『へんな生物!? いくら御主人であっても、ヘンと言われる筋合いはありませんとも! ボクにはきちんとアンバーという名がありますし、れっきとした幻想生物種の有翼クレイスティパノルス犬です。名前もない、その辺のヘンな生物と一緒にされては困ります!』
「れべ……ゆうよ、くれ……へ、へんなせいぶつが、しゃべってる……」
『喋りますし、喋れますとも! あなたが喋れるようにしてくれたじゃないですか!』
絶句する燐をよそに、アンバーと名乗った小麦色の生き物は、頬を膨らませて憤慨していた。やがて白い鼻先をすんすんと動かし、燐の匂いを嗅ぎ始める。
大きな金色のどんぐり眼が忙しなく瞬き、それから身体ごと、こてんと右へ傾いた。
『もしや、あなたは御主人ではない?』
傾いた首はそのままに、つぶらな瞳だけが、まっすぐ燐を射抜いている。
「そ、そうなの! もしかして分かる? 私はこの人じゃなくて……」
『この人じゃなくて? それでは、あなたはいったい誰です?』
「私は――……わたし……あれ」
燐は頭を抱えた。
思い出そうとすれば、確かに何かがそこにある。けれど、あと少しで手が届くところまで近づくと、記憶の塊ごと、つるりと向こうへ滑っていった。
頭へ当てた両手の隙間から、知っていたはずのものが、ぽろぽろと零れ落ちていくような気がした。そして、これからはきっと、零したことさえ忘れてしまうのだと、理由もなく分かってしまう。
「わ、わたしは誰だっけ……。私は燐っていう名前で、ここに来る前の名前は……」
『燐。御主人。あなたが、元の御主人ではないことは分かりました。きっと、魂が器へ定着し始めているのですね』
「え……?」
目の前の奇妙な獣は、なぜか愉快そうに口角を上げた。
『改めまして、新しい御主人、こんにちは。ボクはアンバー。幻想生物種の有翼クレイスティパノルス犬です』
「アンバー?」
恐る恐る名前を口にすると、アンバーは嬉しそうにはにかんだ、ように見えた。
契約した相手の中身が別人になっているというのに、戸惑いも警戒も見せない。むしろ、初めからこうなると知っていたような落ち着きさえあった。
幻想生物種も、有翼クレイスティパノルス犬も、本来なら燐にとって意味のない音の並びでしかないはずだった。それなのに、脳のどこかでは、すでに意味を理解し始めている。
知らない言葉と知識が、雨垂れのように一滴ずつ落ちてきて、自分の中へ新しい水溜まりを作っていく。
幻想生物種。古くから伝承や幻想の中に生き、超自然的な力を持つ種族。精霊や神獣と呼ばれるものも含まれ、遥かな昔から人々を魅了してきた存在だ。
有翼クレイスティパノルス犬もまた、その一種として比較的よく知られた生物で――。
『ボクたちは血の契約によって結ばれていますので、たとえ御主人の中身が別人でも、契約は有効なのです』
アンバーは、綿飴のような尻尾をぱたりと揺らした。
『新しい御主人には、いろいろと言いたいことがありますが……まずは、準備をしなければならないのでは?』
「じゅんび?」
燐はすっとんきょうな声を上げた。
そうだった。外で、東雲という青年が待っている。
「燐さん! まだですかーっ!」
ちょうどよく声が飛んできて、燐は玄関へ向かって慌てて叫んだ。
「ちょっ、ちょっと待って!」
『あいつ、ずいぶんと生意気になりましたね。ああ、御主人の服はこちらですよ! 毎日同じような服ばかり着ていますから、迷うことはありません』
「え、あ……うん」
アンバーは空中を歩くように足を動かしながら、部屋の中を自在に飛んでいった。やがて、クローゼットらしき扉の前で、ぴたりと足を揃える。
燐が扉を開くと、待っていましたとでも言いたげに、黒いスーツが何着も並んでいた。
ほかの服もないわけではないが、どれも暗い色ばかりで、クローゼットの中は見事なくらい喪中じみている。
燐は眉をひそめ、端から端まで似たようなスーツを指で押し分けた。その中から一着を適当に引き抜き、着ていたよれよれのジャケットを脱ぐ。
シャツのボタンへ手をかけたところで、じっとこちらを窺っているアンバーの視線に気づいた。
「……あ、アンバー。見られてると、ちょっと恥ずかしいんだけど」
『どうして?』
「あなたは……その、性別は何?」
『性別ですか。ボクに性別はありません! ああ、もしかして見られていると気まずいのですか? 恥ずかしいのですか? あはは! 新しい御主人は変わったお方ですね。ボクは御主人の着替えなんて、もう数え切れないほど見ていますよ!』
「そ、それは、この……氷月さんの話でしょ」
『ウハハッ! あの燐にも、恥じらいの感情があったとは! ウアハハハハ!』
「恥ずかしいことだってあるよ!」
空中でくるくると回り、腹を抱えるようにして笑うアンバーへ、燐は小さく息を吐いた。
相手は人の言葉を話しているけれど、犬だ。たぶん。たぶん、犬なのだ。
そう思うことにして、燐は仕方なく着替えを続けた。背中には、相変わらず遠慮のない視線を感じていた。
やがてスーツへ着替え終え、燐は立て鏡の前へ立った。
自分ではない女が、決まりすぎるほど決まった黒いスーツをまとい、こちらを見返している。
葬式へでも向かうような装いなのに、この身体には妙なほど似合っていた。それだけで、特別に仕立てられた衣装のように見える。
けれど、記憶に残るあの人とは、何かが違った。
中身が違うからだろうか。
「なんか……足りない?」
もう一度クローゼットを見直し、燐はすぐに気づいた。足りないのは、ネクタイとローブだった。
扉の裏には皺一つないネクタイが掛けられていた。慣れない指先で何とか結び、最後にソファへ置いていたローブを肩へ羽織る。
『お仕事へ行くのですから、きっちりとね』
見計らったようにアンバーが縦へ一回転した。
次の瞬間、燐の顔には薄い化粧が施されていた。幽鬼のようだった顔色が人並み以上に整えられ、鏡の中には、白い空間で出会ったあの美しい女が立っている。
『今日だけ特別です。明日からは自分で』
燐は鏡の向こうへ、そっと手を伸ばした。
硝子一枚を隔てた先に、自分であるはずなのに、自分ではない人間が立っている。触れられそうで触れられないその違和感は、小骨のように喉の奥へ刺さったまま、取れずにいた。
『それが、御主人です』
片方の長い耳を折り畳んだアンバーが、燐の肩へ軽やかに飛び乗り、隣から鏡を見上げた。
『御主人。あなたは本当に、氷月燐になるのですか?』
その問いは、思っていたよりも静かだった。先ほどまでのふざけた調子も、茶化すような響きもない。
『なぜ、突然与えられた別人の人生を、歩もうとしているのですか?』




