↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月夜の霞に梟鳴きて――青炎に囚われた者たち――  作者: 藤橋峰妙
第二話「救い / The Salvation」
PR
16/40

13 若返りましたか、御主人

「わっ、な、なに! えっ、なにっ!? なんなの!?」

『新鮮な反応をありがとうございます。だけど……おやおや? 若返りましたか、御主人』

「めちゃくちゃ良い声……じゃなくて! ま、前が見えない!」

『これは失礼いたしました。ボク、久しぶりの外につい気が(はや)ってしまいまして』


 どこからともなく響く、低く落ち着いた声。その声に合わせるように、まばゆい光がようやく弱まり始めた。


 燐は恐る恐る目を開いた。視界の奥ではまだ光がちかちかと瞬いていて、何度か瞬きを繰り返さなければ輪郭が定まらない。


 やがて、視界の端で、丸くふわふわとした小麦色のものが揺れた。


 燐は真っ白になった頭のまま、まず手元の本へ視線を落とした。先ほどまで表紙にあった奇妙な題名も、擦れた絵も跡形なく消えている。真新しいほど白くなった本は、何事もなかったように沈黙していた。


 その代わり、目の前には、小麦色をした丸い生き物がふよふよと浮かんでいる。


 身体つきは犬に似ていた。


 けれど、耳は兎のように長く、ぴんと上へ立っている。全身を覆う毛は、犬よりもずっと柔らかそうで、空気ごと綿を抱え込んだようにふっくらとしていた。


 もう少し細身なら、狼か狐の仲間に見えて、それなりに格好がついたかもしれない。だが、現実には全体的に丸い。餌を与えられすぎ、見事に育った犬みたいだと、燐は思った。


 ただし、その綿毛のような尻尾は身体の倍ほども長く、背中には小さな羽が二つ、当たり前のように生えている。しかも宙に浮かび、人の言葉を話していた。


 それはもう、燐の知っている犬ではなかった。


「――へんなせいぶつ」


 思わずこぼれた一言に、生き物は目を見開き、勢いよく顔を近づけてきた。


「ひぃっ!」

『へんな生物!? いくら御主人であっても、ヘンと言われる筋合いはありませんとも! ボクにはきちんとアンバーという名がありますし、れっきとした幻想生物種(レヴェリー)有翼(ゆうよく)クレイスティパノルス犬です。名前もない、その辺のヘンな生物と一緒にされては困ります!』

「れべ……ゆうよ、くれ……へ、へんなせいぶつが、しゃべってる……」

『喋りますし、喋れますとも! あなたが喋れるようにしてくれたじゃないですか!』


 絶句する燐をよそに、アンバーと名乗った小麦色の生き物は、頬を膨らませて憤慨していた。やがて白い鼻先をすんすんと動かし、燐の匂いを嗅ぎ始める。


 大きな金色のどんぐり眼が忙しなく瞬き、それから身体ごと、こてんと右へ傾いた。


『もしや、あなたは御主人ではない?』


 傾いた首はそのままに、つぶらな瞳だけが、まっすぐ燐を射抜いている。


「そ、そうなの! もしかして分かる? 私はこの人じゃなくて……」

『この人じゃなくて? それでは、あなたはいったい誰です?』

「私は――……わたし……あれ」


 燐は頭を抱えた。


 思い出そうとすれば、確かに何かがそこにある。けれど、あと少しで手が届くところまで近づくと、記憶の塊ごと、つるりと向こうへ滑っていった。


 頭へ当てた両手の隙間から、知っていたはずのものが、ぽろぽろと零れ落ちていくような気がした。そして、これからはきっと、零したことさえ忘れてしまうのだと、理由もなく分かってしまう。


「わ、わたしは誰だっけ……。私は燐っていう名前で、ここに来る前の名前は……」

『燐。御主人。あなたが、元の御主人ではないことは分かりました。きっと、魂が器へ定着し始めているのですね』

「え……?」


 目の前の奇妙な獣は、なぜか愉快そうに口角を上げた。


『改めまして、新しい御主人、こんにちは。ボクはアンバー。幻想生物種(レヴェリー)の有翼クレイスティパノルス犬です』

「アンバー?」


 恐る恐る名前を口にすると、アンバーは嬉しそうにはにかんだ、ように見えた。


 契約した相手の中身が別人になっているというのに、戸惑いも警戒も見せない。むしろ、初めからこうなると知っていたような落ち着きさえあった。


 幻想生物種(レヴェリー)も、有翼クレイスティパノルス犬も、本来なら燐にとって意味のない音の並びでしかないはずだった。それなのに、脳のどこかでは、すでに意味を理解し始めている。


 知らない言葉と知識が、雨垂れのように一滴ずつ落ちてきて、自分の中へ新しい水溜まりを作っていく。


 幻想生物種(レヴェリー)。古くから伝承や幻想の中に生き、超自然的な力を持つ種族。精霊や神獣と呼ばれるものも含まれ、遥かな昔から人々を魅了してきた存在だ。


 有翼クレイスティパノルス犬もまた、その一種として比較的よく知られた生物で――。


『ボクたちは血の契約によって結ばれていますので、たとえ御主人の中身が別人でも、契約は有効なのです』


 アンバーは、綿飴のような尻尾をぱたりと揺らした。


『新しい御主人には、いろいろと言いたいことがありますが……まずは、準備をしなければならないのでは?』

「じゅんび?」


 燐はすっとんきょうな声を上げた。


 そうだった。外で、東雲という青年が待っている。


「燐さん! まだですかーっ!」


 ちょうどよく声が飛んできて、燐は玄関へ向かって慌てて叫んだ。


「ちょっ、ちょっと待って!」

『あいつ、ずいぶんと生意気になりましたね。ああ、御主人の服はこちらですよ! 毎日同じような服ばかり着ていますから、迷うことはありません』

「え、あ……うん」


 アンバーは空中を歩くように足を動かしながら、部屋の中を自在に飛んでいった。やがて、クローゼットらしき扉の前で、ぴたりと足を揃える。


 燐が扉を開くと、待っていましたとでも言いたげに、黒いスーツが何着も並んでいた。


 ほかの服もないわけではないが、どれも暗い色ばかりで、クローゼットの中は見事なくらい喪中じみている。


 燐は眉をひそめ、端から端まで似たようなスーツを指で押し分けた。その中から一着を適当に引き抜き、着ていたよれよれのジャケットを脱ぐ。


 シャツのボタンへ手をかけたところで、じっとこちらを窺っているアンバーの視線に気づいた。


「……あ、アンバー。見られてると、ちょっと恥ずかしいんだけど」

『どうして?』

「あなたは……その、性別は何?」

『性別ですか。ボクに性別はありません! ああ、もしかして見られていると気まずいのですか? 恥ずかしいのですか? あはは! 新しい御主人は変わったお方ですね。ボクは御主人の着替えなんて、もう数え切れないほど見ていますよ!』

「そ、それは、この……氷月さんの話でしょ」

『ウハハッ! あの燐にも、恥じらいの感情があったとは! ウアハハハハ!』

「恥ずかしいことだってあるよ!」


 空中でくるくると回り、腹を抱えるようにして笑うアンバーへ、燐は小さく息を吐いた。


 相手は人の言葉を話しているけれど、犬だ。たぶん。たぶん、犬なのだ。


 そう思うことにして、燐は仕方なく着替えを続けた。背中には、相変わらず遠慮のない視線を感じていた。


 やがてスーツへ着替え終え、燐は立て鏡の前へ立った。


 自分ではない女が、決まりすぎるほど決まった黒いスーツをまとい、こちらを見返している。


 葬式へでも向かうような装いなのに、この身体には妙なほど似合っていた。それだけで、特別に仕立てられた衣装のように見える。


 けれど、記憶に残るあの人とは、何かが違った。


 中身が違うからだろうか。


「なんか……足りない?」


 もう一度クローゼットを見直し、燐はすぐに気づいた。足りないのは、ネクタイとローブだった。


 扉の裏には皺一つないネクタイが掛けられていた。慣れない指先で何とか結び、最後にソファへ置いていたローブを肩へ羽織る。


『お仕事へ行くのですから、きっちりとね』


 見計らったようにアンバーが縦へ一回転した。


 次の瞬間、燐の顔には薄い化粧が施されていた。幽鬼のようだった顔色が人並み以上に整えられ、鏡の中には、白い空間で出会ったあの美しい女が立っている。


『今日だけ特別です。明日からは自分で』


 燐は鏡の向こうへ、そっと手を伸ばした。


 硝子一枚を隔てた先に、自分であるはずなのに、自分ではない人間が立っている。触れられそうで触れられないその違和感は、小骨のように喉の奥へ刺さったまま、取れずにいた。


『それが、御主人です』


 片方の長い耳を折り畳んだアンバーが、燐の肩へ軽やかに飛び乗り、隣から鏡を見上げた。


『御主人。あなたは本当に、氷月燐になるのですか?』


 その問いは、思っていたよりも静かだった。先ほどまでのふざけた調子も、茶化すような響きもない。


『なぜ、突然与えられた別人の人生を、歩もうとしているのですか?』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。