11 もう一つの世界
「いったい、どうされたんですか。……らしくない」
青年は、呆れと心配の入り混じった顔で言った。
「まあ、あなたは興味のあることと魔法に関すること以外、大抵覚えていられない人ですけど。それでも、俺の名前まで忘れるなんてひどいな。東雲ですよ。東雲碧惟。一か月と十五日前から、あなたの相棒兼部下をやっています」
「や、うん。うん……うん」
凛は押し流されるまま頷いた。
「思い出しましたか、燐さん」
「私は……燐。氷月燐。それで、あなたは東雲」
口の中で確かめるように呟くと、東雲はますます心配そうに顔を覗き込んできた。
「本当に大丈夫ですか?」
東雲は手のひらを凛の目の前でひらりと動かし、指を四本立てた。
「何本に見えます?」
「よ、四本」
「では、これは」
「三本……」
「これで?」
「……な、七本?」
「うん。正常ですね。錯乱薬ではなさそうだ。ほかに、具合の悪いところは?」
凛は目を閉じて呻いた。夢だ。きっとこれは夢だ。頭の中で何度そう唱えても、現実の手触りだけが消えてくれない。
「頭が、痛い。ちょっと、ぼーっとして」
「頭」
東雲は怪訝そうにすると、凛の手を引いて立たせた。
そのまま勝手知ったる様子でキッチンへ向かい、迷いなく戸棚を開けていく。凛は廊下に取り残された。この部屋の住人であるはずなのに、自分が招かれた客みたいだ。
「少し待っていてください。コーヒー、淹れてきます」
「こ、こーひー?」
「ええ。コーヒーですよ。俺はやめた方がいいと思いますけどね。頭が痛い時、いつも飲んでいたじゃないですか」
「えっ、頭が痛い時にコーヒーって飲むっけ……」
「何か言いました?」
「い、いや、えっと! じゃあそれで、お願い……」
がしゃん、と硬い音が響き、凛は肩を跳ね上げた。
東雲の手にあったカップがフローリングへ落ち、陶器特有の高く乾いた音を立てて砕け散っている。破片は白く細かく散り、足元にまで飛んだ。
「だ、大丈夫ですか!? 今、なにかを……ちょっと待って、あれ、どこにあるんだろ」
慌てて辺りを見回しかけて、凛ははっと動きを止めた。東雲が固まっていたからだ。
「だい、じょぶ、ですか……って?」
彼は目を見開いたまま凛を凝視している。まるで今の言葉が人生で初めて聞いた言語だったみたいに呆然として。
「お願い……?」
「あっ、いや、お願い」
「お願い……」
「う、うん」
曖昧に頷くと、東雲はさらに眉間の皺を深くした。その顔のまま、彼の手がくるりと宙で円を描く。
「レヴィス・アステ」
次の瞬間、床に散らばっていた破片が浮かび上がった。
見えない糸に引かれるように集まり、瞬きする間に元の形へ戻って、東雲の手の中へ収まる。
凛は息を呑み、叫びそうになった口元を手で覆った。
床には、欠片一つ残っていない。
「ええと、インスタントでもいいですか。……ああ、そうか。インスタントしかないんでしたね」
東雲は凛の返事を待たず、棚から瓶を取り出した。もう一度、リビングへ向けて手を払う。
床に散らばっていた本がふわりと浮き、本棚へ戻っていく。砕けた陶器は欠片同士をつなぎ合わせ、大きな花瓶へ戻った。倒れていた机や椅子も、何事もなかったように起き上がる。
荒れていた部屋が、みるみる元の姿を取り戻していった。
まるで、さっきまでの惨状そのものが、なかったことにされていくようだった。
凛は、その様子をただ見つめていた。
――いったい、何が起きてるの。
東雲は小さなポットへ水を注ぎ、掌をかざした。底から柔らかな青い光が灯り、水が静かに沸騰し始める。
火もない。電気もない。
それでも、白い湯気だけが確かに立ち昇っていた。
「どうぞ。ここへ置いておきますね」
いつの間にか、東雲が目の前に立っていた。
凛は反射的に半歩後ずさる。東雲は気にした様子もなく、湯気の立つカップをテーブルへ置いた。
あまりに自然だった。
魔法を使ったのではなく、ただ散らかった部屋を片づけ、湯を沸かしただけだと言わんばかりの所作だった。その自然さが、かえって恐ろしかった。
凛は逃げるように窓へ近づき、カーテンを開いた。
「――っ」
その先に広がっていたのは、見覚えのない街だった。
白く濁った霧が街を覆い、冷たい風が吹くたび、波のように揺れている。その向こうに、異形の都市がぼんやりと姿を現した。
まず目へ飛び込んできたのは、巨大な石造りの城壁だった。視界を遮るほど高く、霧の中で淡い金色を帯びている。表面に刻まれた紋章や碑文が、霧の流れに合わせて現れては消えた。
城壁の向こうには瓦屋根が連なり、その上を広告のようなネオンが走っている。すぐ隣にはガラスと金属で造られたドームがあり、木造の建物の柱には、ホログラムに似た紋様が揺れていた。
様式が揃っていない。
時代も国も、何もかもが混ざり合っている。
空を見上げると、霧を裂くように巨大な光の輪が浮かんでいた。その向こうには、二つの月が重なっている。
赤い月と、青い月。
一つは血を薄く溶いたように赤く、もう一つは死にかけた蛍のように青かった。
この霧の奥には、まだ知らない景色が続いている。
目に映るものすべてが、凛の知る現実から遠かった。
「……どこ、ここ。日本じゃ……ない?」
「日本?」
背後から、東雲の声が返ってきた。
「確かに表の任務で一度行きましたけど、戻ってきて一週間になりますよ。まさか、その頃から記憶が飛んでいるんですか?」
凛は振り返った。
東雲は日本を知っている。そこへ行ったこともある。それなのに、ここが日本ではないことを、あまりにも当然のように受け入れている。
ここは、どこなのか。なぜ、自分はここにいるのか。
頭の奥で、何かが軋んだ。
すると、脳の底に沈んでいた知識が、ゆっくりと水面へ浮かび上がってくる。
もう一つの世界。【裏側の世界】。
二つの月が浮かぶ、魔法の世界。ここは第二中心街。そして、この部屋は自分の家。
知っている。――確かに、知っている。けれど、それを知った記憶がどこにもなかった。だんだんと心の奥が凍りついていく。
持っているはずのない知識が、堰を切ったように次々と浮かび上がってきた。
「とりあえず、コーヒーを飲んでください」
東雲が隣へ立ち、先ほどのカップを差し出した。
凛はそれを見つめた。
夢と現の狭間に立っているような感覚が、足元を揺らしている。このカップを受け取った途端、中身が零れ、何もかもが崩れてしまうのではないか。そんな考えまで浮かんだ。
それでも、震える指先でカップを受け取る。カップは割れなかった。きちんと熱く、きちんと重たかった。
「このカップ……」
「ああ。さっき落としましたけど、もう元どおりですよ」
東雲は何でもないことのように答えた。
「そ、そうみたいね。ありがとう」
また、東雲の表情が固まった。目の前に幽霊が立っていると、たった今気づいたような顔だった。
「い、いえ……どういたしまして」
妙な沈黙が流れる。
訝しげな視線から逃れるように、凛は両手でカップを持ち上げた。茶色い水面には、ぼんやりと別人の顔が映っている。
ひと口含んだコーヒーが、舌をじりっと焼いた。その熱だけが、これが夢ではないことを、はっきりと突きつけてくる。
東雲はその様子を見つめて、口を開いた。
「そうだ。燐さん、招集がかかっているんです」
「……しょ、え、招集?」




