10 あなたは、誰
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――ぐん、と引っ張られた。
身体はもう、自分の意思の下になかった。
全身が細かく痙攣し、手足はまるで他人のものみたいに言うことをきかなかった。
びくん、びくん。皮膚の下を熱いものが駆け巡り、内側から身体を焼き切ろうとするような痛みが走った。
「あ……ガ、アッ、ぅく、……みっ、みず、水……!」
喉がひどく渇いていた。口の中には唾液ひとつ残っておらず、息をするだけで喉の内側が裂けそうだった。
「ハッ、はっ、ぅ、ハ――」
水。水がほしい。水。
朦朧とする意識のまま立ち上がる。視界は幾重にも歪み、床も壁も大きく傾いていた。自分がどこにいるのかも分からない。ただ、身体だけが水を求めている。
「ぁああああっ!」
ふらついた身体が、何かへ激しくぶつかった。
――死んでしまう。違う、死んだ――死んだのに、どうして。――痛い、痛い、痛い。――助けて。――誰か。おばあちゃん。朝陽。だれか、助けて。
ガン――と、大きな音が頭上で爆ぜた。
「うぐっ……!」
直後、生温かいものが頭から流れ落ちた。鋭い痛みが背骨を走り、視界が赤く染まる。
こめかみを伝った血が瞼を濡らし、耳の裏へ流れていく。立っていることさえできず、凛の身体はゆっくりと傾いた。
そして、また視界が黒く閉ざされた。
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凛は、はっと身体を起こした。
眠りから目覚めたというより、意識だけを突然、水底から引き上げられたようだった。微睡みも眠気もなく、凛は座り込んだまま周囲を見渡す。
閉じられたカーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差していた。外は明るいが、室内は薄暗く、物音一つしない。
床には物が散乱し、椅子と机は倒れ、本棚も横向きに転がっていた。本来なら整っていたはずの部屋を、誰かが内側からひっくり返したような有様だった。
その中に、赤い点が落ちている。
割れた陶器のそばまで続く血の跡へ、凛はそっと指を触れた。まだ乾ききっておらず、白い指先に細い赤が付着する。
――誰の血?
頭にも身体にも、痛みはなかった。部屋の中に、ほかの誰かがいる気配もない。
「……ここは、どこ」
口からこぼれた声を聞き、凛は息を止めた。
今の声は、誰のものだ。
柔らかく、鈴の音に似た声だった。聞き覚えはある。けれど、凛自身の声ではない。
「え……声が」
喉へ触れると、指先の下で確かに振動している。それでも、そこから出てくるのは知らない女の声だった。
立ち上がろうとした視界を、長い黒髪が掠めた。
凛の髪ではない。
その事実に気づいた瞬間、凛は鏡を探した。
床へ手をつき、よろめきながら立ち上がる。どこに洗面所があるのか考えるより先に、足が迷わず廊下へ向かった。
――どうして、場所を知っているの。
疑問をいただいたまま、洗面台の前へたどり着く。頭上のダウンライトが自動で灯り、鏡の中の顔を照らした。
「……だ、れ」
そこには、白い部屋で出会ったあの女がいた。
艶やかな黒髪。青紫の瞳。黒いスーツに包まれた、見覚えのある姿。
鏡の中の女も、凛と同じように目を見開いている。
凛は頬へ触れた。引っ張り、口を開き、髪を持ち上げる。そのたび、鏡の女も同じ動きをした。
「なんで……っ!?」
叫ぶと、鏡の中の女も同じ言葉を口の形にした。凛はぞっとして、よろけながら洗面台から距離を取っていた。
「あの人……? 待って。私、助けてって言われて、それで……」
何を選び、何が起きたのか。その先だけが、白く欠けていた。
凛は洗面台から離れ、その場へ座り込んだ。視線を落とせば、黒いスーツに包まれた長い手足が目に入る。見慣れた自分の身体とは、どこも似ていなかった。
洗面台に置かれていた手鏡を取り、もう一度顔を映す。
結果は変わらない。
これは悪い夢だ。そう思いたかった。
「ゆ、夢……?」
そのとき、外で扉の開く音がした。
続いて、足音が近づいてくる。
「燐さん、いますか? 一時間前に招集がかかって……うわ、なんだこれ。空き巣でも入ったんですか?」
若い男の声だった。
燐、と呼ばれた名前が、自分へ向けられたように響く。白い部屋で女が名乗った名だった。
凛が顔を上げると、廊下を黒髪の青年が横切った。黒いスーツ姿で、周囲を警戒しながら室内を見回している。
「燐さん?」
凛は反射的に後ずさった。背中が洗面台の扉へぶつかり、棚の上から白いボトルが落ちて、ごとりと床を転がる。
「ああ、そこにいたんですね」
青年が洗面所を覗き込み、凛の姿を見つけた。
「どうしたんです。座り込んで。それに、ひどい汗だ」
柔らかく笑いながら近づいてきた青年の視線が、床の一点で止まった。
白い錠剤が、壁際にいくつも散らばっている。
青年は短く息を吐き、凛の前へしゃがみ込んだ。
「もしかして、またやったんですか。薬は一度に一錠までだと、言われていたでしょう」
「……わ、私は」
何を答えればよいのか分からず、凛は口を閉ざした。
「まずは立って、着替えましょう。帰ってから、ずっとその格好だったんですか?」
青年は片膝をつき、凛へ手を差し出した。
燐と呼ばれているのは、間違いなく自分だった。
凛が差し出された手と青年の顔を交互に見つめていると、彼の眉がわずかに寄る。
「具合が悪いんですか。困ったな。佐伯さんにも連絡を――」
「えっと、あの」
「はい。どうしました?」
「……あなたは、誰?」
凛が言葉を遮ると、青年は大きく目を見開いた。
「え?」




