09 言いようのない不安
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『あー、あー。ふわあああ……おはようございまーす。八月六日、月曜日の朝……四時。四時? まあいいや。今日はリーデンベスの日です。出勤しようとジャケットを羽織ったそこのあなた。お子さんの学校の準備に追われているそこのあなた。昨晩からゲーム漬けのそこのあなた。……って、この時間じゃ、まだ大半は夢の中か。祝日の今日は、そのままゆっくりお休みくださーい』
第二中心街の大通りを、黄緑色の小さな車が霧雨を掻き分けるように走っていた。
車内には、朝から耳を疑うほど騒がしい音楽と、それに反してやる気の欠片もないラジオパーソナリティの声が流れている。
この黄緑車の周波数は、半年前から固定されたままだった。もちろん、持ち主である東雲碧惟の趣味ではない。悪徳業者に改造されたオンボロ魔法車が、ほかの周波数を選ばせてくれないのだ。
いつもの東雲なら、ため息一つで聞き流していただろう。
しかし、今日ばかりは無理だった。金槌を振り下ろすような音楽が、三徹した頭を容赦なく殴りつけてくる。ギターは悲鳴を上げ、ドラムは忙しなく鳴り続ける。その合間に聞こえる話し声だけが、欠伸交じりにだらけきっていた。
――いい加減にしてくれ。
東雲はすでに三度そう念じていたが、当然ながらラジオにも、聞くべき車にも届いていなかった。
『いやぁ、眠い。眠すぎる。実は昨日からずぅっと寝てなくて……ふぁあ。あれ、なんか星が回ってるぞ。んえ、何だって? 先を急げって?』
「こっちは三徹なんだけど……ふぁっ!」
欠伸を噛み殺した直後、白く煙った視界の向こうに赤信号が飛び込んできた。東雲は慌ててブレーキを踏み、横断歩道を渡っていた魔ガモの親子の手前で車を止める。
「危な……」
『えーっと、どこまで読んだっけ。あ、ここか。早朝の天気は霧雨。今日はいつも以上にじめっとしているので、ボゥタン川の蛙が降ってくる確率は六十パーセント。これは最悪。お出かけの際は、杖と飴玉をお忘れなくー』
東雲は出がけに買ったデカフェを一口飲み、助手席の鞄へ目をやった。
飴玉は入っていない。
『今夜は綺麗な星空が見えるそうです。ただし、星を取ろうと飛翔するお馬鹿なドラゴンたちの翼風にはご注意を。あいつら、光り物が大好きですからねぇ』
ドラゴンという言葉に、東雲は遠い目をした。
忙しくなる予感しかしない。
やがて信号が青へ変わり、東雲はアクセルを踏み込んだ。ところが、黄緑車は、ぼ、ぼる、ぼるるる、と気の抜けた音を鳴らし、妙にためらいがちに停止線を越えただけだった。
東雲は小さく息を吐き、目覚まし代わりにもう一度珈琲を流し込んだ。
ここ三日で何杯飲んだか分からない苦味が、舌に痺れだけを残していく。それでも足りず、慣れた手つきで煙草を取り出し、火をつけた。細い煙が開けた窓から流れ出し、街を覆う霧へ溶けていく。
『さて、今日最初にお贈りする曲は、毎年恒例の一品です。ふぁあ……この曲の間に、僕は一度寝ます。それでは今日という日を祝ってお聴きください。ポーク・ド・ポークで、「リーデンベスが落っこちた日」』
ようやく騒がしい曲が終わるらしい。東雲は片手でハンドルを回しながら、窓枠へ肘を預けた。
陽気な音楽がゆっくりと遠のき、代わりに、妙に陰気な短調のイントロが流れ始める。東雲の肘が窓枠から滑り落ちた。
リーリー、リーデンベース
あんたはなーんで落っこちた
リーリー、リーデンベース
あんたはなーんで落っこちた
「暗……」
東雲は停止ボタンを押した。しかし、奥へ沈んだボタンは、そのまま二度と戻ってこなかった。
あんたはひとり崖の上
小岩に手をかけ我慢した
あんたの友達やってきて
あんたの手の甲踏みにじる
音量調節のダイヤルを回すと、今度はダイヤルそのものが取れた。東雲は無言で元の場所へ押し込んだ。
リーデンベース、落っこちた
リーデンベース、落っこちた
あんたはひとり空の上
黒いドラゴン飛んできた
大きな翼にあおられて
ぴょんと遠くへ海の果て
「はあ……」
長く息を吐き、東雲は懐から杖を取り出した。
視線を前方へ向けたまま、杖先だけをラジオへ向ける。もちろん狙っているのは前の車でも、通行人でもない。
この車だ。
黄緑車は、ぼるん、ぼるるる、と抗議するように排気音を鳴らした。
「……ついに潮時かな」
東雲は、隈の濃い目でダイヤルを見据えた。
「半年も一緒にやってきたから、できれば円満に済ませたかったんだけどね。残念ながら、今の僕は職務中だ。規定上、君にかけられた改造魔法を消しても、公務執行妨害として処理できる」
リーデンベース、飛ばされた
あっちへこっちへ飛ばされた
お次はどっちへ飛んでくか
お前は不幸なリーデンベース
「一生、ラジオが聞けなくなってもいいなら、続けて」
リーデンベース、飛ば――
ラジオは静かになった。
東雲は煙草の端を噛みながら、最初からこうすればよかったと心の中で悪態をついた。
すると今度は、ハンドルが細かく震え始める。
「そんなに聞きたかったの?」
東雲はハンドルを握る手へ力を込めた。
「明日でも、明後日でも好きに聞けばいい。でも今はやめてくれ。三徹目の頭には響きすぎる。君は三徹したことがあるかい?」
揺れが収まり、カチリと小さな音がした。代わりに、朝の目覚めを促す穏やかな自然音が流れ始める。
東雲は端正な顔へにっこりと笑みを浮かべ、音量調節のダイヤルへ向けた。
「うん、ありがとう。分かってくれればいいんだ。ついでに言っておくけど、燐さんの前では大人しくしてくれよ。あの人が朝に弱いのは、君も知ってるだろう?」
車内が、不気味なほど静かになった。
「僕より先に杖を振るからね。しかも問答無用で」
以前、燐にかけられた魔法が、今も車体のどこかへ染みついているのかもしれない。『氷の女帝』と呼ばれる東雲の上司兼相棒は、人間だけでなく、車に対しても容赦がなかった。
黄緑車は第二中心街でもっとも広い道を抜け、細い脇道へ曲がった。
大通りとは打って変わり、古い煉瓦造りの建物が両側から影を落としている。濃い霧だけは晴れず、街の輪郭をどこまでも白くぼかしていた。
第二中心街は、巷で『霧の街』と呼ばれている。それでも、街全体を覆い尽くすほどの霧が出ることは滅多にない。
不意に走った寒気に、東雲は肩を竦めた。
「……朝から嫌な感じだな」
漏れた声は、そのまま霧の中へ沈んでいく。
東雲は小さく首を振り、煙草の煙と一緒に白い息を吐いた。今日は急いでいた。呼び出しを受けていたからだ。
「まだ寝てるのかな……」
だから連絡がつかない。そう思いたかった。
数時間前に別れたばかりの上司は、何度電話をかけても出なかった。
形のない不安が、街に染み込んだ霧のように、少しずつ東雲の胸へ広がっていった。
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