07 あの青い炎で、あなたは死んだ
第二話【救い / The Salvation】
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「目が覚めた?」
低い声がすぐ近くで響き、凛は閉じていた瞼を震わせた。
初めはゆっくりと、二度目、三度目は少し早く瞬きを繰り返す。そのたび、薄く紗のかかっていた視界が少しずつ輪郭を取り戻していった。
目の前にいる女は、幻ではなかった。
黒い服に身を包み、仰向けに倒れている凛の顔を覗き込んでいる。
「ねえ、起きている?」
鈴の余韻に似た静かな声。それは低く落ち着いているのに、不思議と耳の奥へ残った。
凛は答えるより先に、女の瞳へ目を奪われた。
青紫色の虹彩は角度によって群青にも見え、宝石を嵌め込んだような冷たい光を湛えている。
そこから視線を逸らせないまま、凛は呆然と頷いた。
「そう。それならよかった」
女が身体を起こすと、濡れ羽色の髪が肩からさらりと落ちた。
屈んでいたときには分からなかったが、かなり背が高い。凛はひりつく喉を押さえながら、ようやく声を絞り出した。
「あ……こ、ここは……」
息を吐くたび、胸の奥がきゅっと軋む。
眩しさに目を細めながら周囲を見渡すと、そこは雪景色よりもなお色彩に乏しい、白一色の空間だった。壁と床の境目さえ曖昧で、どこまで続いているのかも分からない。凛と目の前の女だけが何もない白の中へ置かれた異物のように見える。
凛は起き上がろうとして床へ手をついた。
身体が鉛のように重い。腕が震え、肘ががくりと折れて、そのまま床へ崩れ落ちてしまう。
「ひ、あ……火、が……あっ!」
頭の奥を鋭い針で貫かれたような痛みが走り、凛は反射的に頭を抱え込んだ。遅れて、焼けつく熱の記憶が一気に押し寄せる。
喉へ刺さった黒煙。耳の奥まで揺らした轟音。焦げた匂い。熱に歪んだ空気。
息を吸っているはずなのに、肺へ空気が入ってこない。身体の内側は熱いままなのに、指先だけが急速に冷えていく。
「あ――っ、いや、火……! 私、火に……っ!」
「――あなたは、死んだの」
女の声は、ひどく落ち着いていた。
冷たいほど静かな一言が、空気を凍らせた。
「え……?」
「あの青い炎に呑まれて、あなたは死んだの」
そこには、同情も哀れみも感じられなかった。
ただ風のない湖面のような静けさだけで、女は、凛を正面から見つめている。
その視線にさらされているうちに、乱れていた呼吸が少しずつ整っていった。
落ち着いたというより、熱を持った感情がその静けさに触れて勝手に冷やされていくようだった。強張っていた肩から、わずかに力が抜けていった。
「あ……」
「落ち着いた?」
凛は小さく頷いた。
「火事があって……」
朝陽の顔が浮かび、涼の声が遠くで揺れる。残してきたものを思った瞬間、鼻の奥がつんと痛み、目頭が熱くなる。
そう心の中で言葉にした途端、理解が遅れて追いついてきた。
死んだのだ。
「私、はは……」
悲しいのか、悔しいのか。それとも、あの二人を助けられたことに安堵しているのか。幾つもの感情が絡まり合い、どれが自分の本心なのか分からなかった。
「なぜ、笑うの?」
女は困惑した様子で首を傾げた。
声には、ほとんど感情の起伏がなかった。
「人を助けて死んだことが、馬鹿らしいと思った? それとも、生きたかった?」
「え……」
生きたかったと答えるのは、簡単なはずだ。
けれど、その言葉を口にしようとすると、火事の光景がそのまま蘇る。
倒れた箪笥。血に染まった足。子どもの泣き声。「助けて」と呼ぶ声。考えるより早く、自分の身体が動いた感覚。
あれは自分で選んだのだろうか。
それとも、過去の記憶に選ばされたのだろうか。
答えへ辿り着けないまま、凛はそこで初めて、目の前の女の姿をきちんと見た。
皺一つない黒いスーツ。金糸の刺繍が施されたローブ。華奢な肩から垂れた黒い布が、やわく床に垂れている。
今まで見たことがないほど、美しい女性だった。
長い手足は均整が取れ、肌は雪のように白い。淡く赤みを帯びた唇と感情の揺れを映さない瞳。緩やかに波打つ黒髪が胸元へ流れ、その姿には近寄りがたいほどの気高さがある。
何より目を引くのは、光の加減によって色を変える青紫の瞳だった。
凛は息を呑み、床へ手をつきながら、どうにか身体を起こした。
「あの……あなたは、神様ですか? それとも、ここは……あの世、とか」
もし死後の世界があるのなら、涼に会いたかった。
会って、ごめんと伝えたかった。
だが、女はどこか困ったように首を揺らした。氷のようだった顔に、初めて微かな感情が差した。
「うまく説明できないけれど、少なくとも、あなたが考えている死後の世界ではないわ」
「あの世じゃない? じゃあ、天国とか地獄とか……」
「そういう場所でもない」
女は一歩近づき、凛の前へ屈む。
「ここは私たちの世界。正確に言えば、私たちの魂が重なっている場所よ」
「た、魂……?」
意味が分からない。
女の瞳と視線が重なり、凛はごくりと喉を鳴らした。
近くで見るその瞳は美しかった。だが、底が見えないほど冷たくて、凛は逃げるように身体を仰け反らせた。
「あなたは後悔している?」
「後悔……?」
「誰かを助け、その代わりに自分が死んだことを」
女は淡々と続けた。
「あのとき、あなたがすぐに逃げていれば、死なずに済んだ。部屋を出たとき。助けを呼ぶ声を聞いたとき。箪笥を動かそうとしたとき。天井が崩れたとき。あなたが自分の命を選べる分岐点は、幾つもあった」
女の声には、責めるような響きも、慰めるような優しさもない。
「違う道を選んでいれば、あなたは生きていた。もちろん、その場合、あの子どもと女性は死んでいたかもしれないけれど」
凛は口を閉ざした。
女の言葉は、胸の奥へ閉じ込めていた後悔を暴くのではなく、その蓋の輪郭を静かになぞっている。
「もし、その分岐点へ戻れるとしたら」
女は凛の目を見つめた。
「今度は自分が生きるために、やり直したい?」
「……それ、は」
凛はしばらく答えられなかった。やがて胸元へ手を当て、震える息を吐く。
「後悔は……してる」
声は、思っていた以上に小さかった。
「私は、妹の分まで生きなきゃいけなかったから」
一度息を吸う。喉を焼いた感覚が蘇り、凛は込み上げた咳を堪えた。
「妹の涼は、四年前の火事で、逃げ遅れた子どもと私を助けてくれた」
言葉にするたび、胸の奥が鈍く痛んだ。
青い炎の向こうにいた涼の姿が、途切れ途切れに浮かんでくる。
「あの子は、そういう子だった」
「死んだ妹の代わりに、妹と同じことをしたの?」
「ちがう」
言い切って、凛は下を向いた。胸のざらつきは消えない。涼が死んだあの日から、自分の中へ沈んだ感情を凛はまだ何一つ整理できていなかったからだ。
「……私は、あの子を助けられなかった」
声が掠れて出てくる。
「助けられていたのは、いつも私のほうだった」
涼を守る側になりたかった。
けれど現実では、凛はいつも妹に守られていた。
だからこそ。誰かが助けを求めていたとき、背を向けたくなかった。涼の代わりになりたかったわけではない。ただ、涼が自分にしてくれたように、今度は自分が誰かのそばへ立ちたかった。
「また同じことが起きても、私は助けに行くと思う」
凛は胸元を握りしめた。
「誰も見捨てないって、それだけは決めてる」
顔を上げると、女の目元がわずかに緩んだ。氷のようだった表情が和らぎ、その唇に小さな笑みが浮かぶ。
「つよいのね」
凛は目を伏せた。
「……強くなんて、ないよ」
「いいえ。あなたはつよい」
女は静かに言った。
「あなたなら、青い炎にも打ち勝てる」
「青い、炎……?」
その言葉に、凛は火事の光景を思い出した。
忘れたくても忘れられないあの色が、浮かび上がってくる。禍々しく、美しく、この世のものとは思えないほど恐ろしい色。――炎の色は、青かった。
妹が死んだときも。そして、凛が死んだときも。
炎が青く見えること自体は珍しい現象ではない。
十分な酸素のもとで気体が完全燃焼すれば火は青くなる。けれど、一般の住宅火災で、建物の内部を埋め尽くす炎のすべてが、あれほど鮮やかな青へ染まることなどあるのだろうか。
四年前には涼を呑み込み、今度は凛を呑み込んだ。
どうして自分は、あの火事の炎が青かったことを忘れていたのだろう。
なぜ、今回の火事に、あれほど強い既視感を覚えたのだろう。
「もし、私があなたに助けてほしいとお願いしたら」
混乱する凛を見つめ、女は静かに目を細めた。
「あなたは私を、助けてくれる?」




