銀翼の渡来人8
天幕の隙間から流れ込んでくる風には、未だに肉の焦げ付いた不快な臭いが混じっていた。
ゴバの国の最前線を担っていたこの城塞都市は、文字通り終わったのだ。タロが打ち倒したあの骨の怪物は、この都市を、そして防衛線を文字通り蹂躙し尽くした後だった。
薄暗いランプの光の下、セゼ王女の翡翠色の瞳には、絶望と、それを必死にねじ伏せようとする強固な意志の光がせめぎ合っていた。
泥に汚れた羊皮紙の地図。その端を小さな指で強く押さえつけながら、彼女はタロを見上げ、異国の精緻な言葉を絞り出すように紡いだ。その響きは震えていたが、決して折れてはいなかった。
机の端に座るガラスの精霊ギギが、体内の光をピキピキと細かく尖らせ、その厳粛な内容をタロの脳内へと伝えていく。
『……タロ。この子が、あんたに頭を下げてる。……ここ、この最前線の城塞都市はもう守れない。壁は崩され、兵の過半は傷つき、何より、この街にはまだ戦う術を持たない何千人もの避難民が取り残されているんだよ』
セゼ王女が、豪奢な、しかし戦火でボロボロに引き裂かれたドレスの裾を握り締め、タロの前で静かに膝を折った。
一国の王女が、素性も知れぬ異邦の男に対して行うには、あまりにも重すぎる臣礼。周囲の近衛将校たちが、屈辱と悲痛の入り混じった表情で一斉に歯噛みするが、王女の行動を止める者が誰もいなかった。彼らとて、眼前の黒髪の男の圧倒的な武威にすがる他ないことを、誰よりも理解していた。
『お願い、私たちの盾になって。……この焼け落ちた焦土から、本丸である首都『城ゴバ』へと向かう行軍を守ってほしい。鈍足な民を連れての撤退戦だよ。後ろからは、間違いなくあの骨の化合物の追撃が来る。あなたがいてくれなければ、私たちは首都に辿り着く前に、背中からすべて喰い殺される……だって』
頭を垂れる銀髪の少女を見下ろしながら、タロは唇に挟んだ煙草の煙を、細く長く吐き出した。
紫煙が獣脂のランプの光に揺れる。
撤退戦。その響きは、タロにとってあまりにも生々しい既視感を伴うものだった。
ジリジリと物資を絞り込まれ、包囲網を敷かれ、まともな燃料も弾薬もないまま、ただ精神力と練度だけで戦線を支え続け、最後は真珠湾の空へと散っていった自分たちの姿。眼前の少女が背負わされている絶望は、あの頃の、あるいはあの瞬間の自分たちが抱えていた歪みと、酷いほどによく似ていた。
「……いいだろう」
タロは煙草の灰を床に落とし、低く、しかし天幕の空気をピりりと引き締める声で言った。
「その撤退戦、俺のガラダインで防波堤になってやる。だが――条件がある」
タロはセゼ王女を真っ直ぐに見据えた。
「あの広場に転がっている、俺の乗ってきた鉄の怪鳥……あの残骸を、ネジ一本、外板の一枚、ちぎれた主翼の端切れに至るまで、完全に回収して運べ。ゴミとしてここに捨てていくことは、絶対に許さん。あれは、俺とともに死んだ戦友だ。連れて行く」
ギギがその言葉を、かつてないほど熱を帯びた、そしてどこか誇らしげな藍色の光を放ちながらセゼへと翻訳した。
王女は一瞬、驚いたように顔を上げたが、すぐにその意図を汲み取った。タロが、あの鉄の怪鳥の残骸をただの遺品としてではなく、これからの戦いに必要な「何か」として見つめていることを、その聡明な頭脳で察したのだ。
「――っ、……!」
セゼ王女は深く首を縦に振り、周囲の将校たちに向けて矢記早に鋭い命令を下した。将校たちが弾かれたように天幕を飛び出していく。言葉は通じずとも、男の提示した条件が「行軍の絶対の規律」になった瞬間だった。
一時間後。
夜の帳が降りた焼け跡の広場は、松明の赤黒い炎と、激しい泥の撥ねる音に満たされていた。
降りしきる細かな雨の中、タロは自ら泥に塗れ、近衛兵たちに指示を出していた。
骨の怪物の巨体に踏み潰され、くの字にひしゃげた零式艦上戦闘機二一型の胴体。引き裂かれ、ジュラルミンの地肌が剥き出しになった主翼。タロは自らの手で、その冷たい金属の肌を撫でた。超々ジュラルミンの硬質な感触が、手のひらを通じて彼の魂に馴染んだ感覚を呼び覚ます。
真珠湾の地獄をともに飛び、還るべき母艦を失ってもなお、敵艦へ突入するその瞬間までタロの指先に応え続けた、白銀の翼。
「すまん。無惨な姿にしちまったな」
呟きながら、スパナや現地の工具を使い、慎重にカウリングや計器盤を取り外していく。
ちぎれたプロペラ、風防のガラス片。それらは頑丈な木製の馬車数台へと、まるで聖遺物でも運ぶかのように恭しく積み込まれていった。現地の兵たちは、この未知の軽い金属――鉄よりも遥かに軽く、それでいて鈍い光沢を放つジュラルミンの破片を、驚きの目で見つめながら運んでいる。
その横には、タロが先ほどまで駆っていた未完成機ガラダインが、暗闇の中で静かに佇んでいた。
重く、垢抜けない、いかにも粗削りで無駄の多い鉄と神話の骨の混ざり物。
タロはその無骨な機体を睨みつけた。
(重すぎる……。強度のためにただ肉厚にするしか能がない。だが、俺の戦友は違った。極限まで贅肉を削ぎ落とし、洗練の極みをもって空を支配したんだ)
タロの胸の奥で、帝国海軍軍人としての闘志が、静かに火花を散らした。
(待っていろ。この部品をすべて使って、この不格好な木偶の坊を徹底的に洗練させてやる。俺の、本物の機体にな……)
「おい、お前。その翼の破片はもっと慎重に扱え。傷をつけるなよ」
タロのぶっきらぼうな日本語を、肩の上のギギが、深い藍色のドヤ顔の光を放ちながら、現地兵に向けて鋭く通訳する。
やがて、数千人の避難民のすすり泣きと、数百頭の馬の足音が、泥濘の闇へと響き始めた。
焼け落ちた最前線都市の城門が開き、首都『城ゴバ』へと向かう、果てしなき撤退行軍の列が動き出す。
数台の荷車に分乗させた「零戦の残骸」を中央に抱き抱え、その最後尾を、未だぎこちなく歩く未完成機ガラダインが固める。
還るべき空を失った男と、散った銀翼の魂を乗せた、泥まみれの撤退戦が、今ここに幕を開けた。




