銀翼の渡来人7
広場の喧騒を離れた本部の天幕内は、獣脂のランプが落とす、揺れる橙色の光に満たされていた。
泥と煤に汚れた大きな作戦机。その上に広げられた羊皮紙の地図を囲み、タロとセゼ王女、そして数人の近衛将校たちが向かい合っている。言葉の通じない沈黙の中、衣服のポケットから這い出たガラスの精霊ギギが、机の端にちょこんと腰掛けていた。彼女の身体は、どこか厳かな、澄んだ藍色の光を微かに放っている。
タロは張り詰めた空気を紛らわすように、無意識に飛行服の胸ポケットへ手を伸ばした。
指先に触れたのは、少しくたびれた硬い紙箱。配給された紙巻き煙草『誉』だ。それを一本引き抜き、無造作に唇に咥える。
続いて取り出したのは、小さな紙箱――マッチだった。
机の周囲の視線がタロの手元に集まる。タロは気にも留めず、軸木を一本抜き取ると、箱の側面に宛がって、シュッと短く擦った。
闇を裂いて、小さな火花が爆ぜる。
ツンと鼻を突く硫黄の匂い。灯った細い炎を咥え煙草の先端へと近づけ、深く息を吸い込んだ。紫煙がふわりと天幕の天井へ向かって立ち上り、芳醇でいて、どこか辛味のある独特の香りが空間を満たしていく。
「――っ!?」
その瞬間、机を囲んでいた将校たちから、一斉に鋭い吸気音が漏れた。
誰もが目を剥き、タロの手の中にある小さな木箱と、その唇から吐き出される煙を、信じられないものを見る目で凝視している。
セゼ王女さえもが、翡翠色の瞳を大きく見開いて、その場に固まっていた。
「……なんだ。煙草がそんなに珍しいか」
タロが怪訝そうに眉をひそめて煙を吐き出すと、机の端のギギが、体内の光をカチリと白く明滅させて言った。
『違うよタロ! ほら、この子たち、あんたのその「火を起こす紙箱」と「白い煙を吸う葉」を見て驚いてるの。……叙事詩の通りなんだよ。30年前、この世界に大きな変革をもたらして消えた最初の『渡来人』も、まったく同じものを持っていたんだから』
「最初の、渡来人……?」
タロは指に挟んだ『誉』の吸い殻を見つめた。
ただの官給品だ。しかし、それがこの世界の人間にとっては、時空を越えて現れる「異邦の戦士」の絶対的な証だという。
セゼ王女が、畏怖を湛えた目でタロを見つめながら、静かに、しかし流暢な響きで語りかけてきた。その言葉を、ギギが波打つ藍色の光とともにタロの脳内へ翻訳していく。
『……タロ、この子が言うにはね。あんたが乗ってきたあの鉄の怪鳥(零戦)もそうだけど、この世界にあるあの骨と鉄の怪物――『鋼骨騎』の技術が生まれたのも、ちょうど30年前なんだよ。それまでは、ただの剣と弓の戦いだったのに、ある日突然、神話の生物の遺骸(骨)と、人間の作る鉄を融合させる技術が爆発的に広まったの』
30年前。タロの脳裏に、地球の歴史が瞬時に浮かび上がる。
西暦で言えば、1910年代から20年代にかけて。それは地球において、航空機や戦車、潜水艦といった「鋼鉄の怪物」が戦場を支配し、人類の戦争の有り様を根底から変えた、あの第一次世界大戦の時期だ。
地球で「科学と鉄の大量殺戮」が始まったその瞬間、このガランドという世界でも、呼応するように「鋼骨騎」という禁忌の兵器が産声を上げた。
「地球とこのガランドは、表裏一体の双子……か」
タロは低く呟き、深く煙を吸い込んだ。
セゼが指し示す地図の各所には、赤いバツ印や、何らかの資源の発掘現場らしき印がいくつも書き込まれていた。
『この世界じゃね、その鋼骨騎の材料であり、動力の触媒でもある「神話生物の骨」の奪い合いで、ずっと戦乱が絶えないんだよ』
ギギの言葉を聞きながら、タロの唇が自嘲気味に歪んだ。
どこの世界へ行っても、人間が殺し合う理由は変わらない。あの大東亜の海で、ABCD包囲網によって石油を止められ、追い詰められて真珠湾へと飛び立った自分たちの戦いと、何一つ変わりはしなかった。鉄と、それを動かす油の奪い合い。ただ、この世界ではそれが「骨」という名に変わっただけだ。
セゼ王女は、再びタロの黒い瞳を真っ直ぐに見据えた。
『……そしてね、鋼骨騎は「血の昂り」で動くの。ガランドの人間が動かすと、文字通り血が沸騰して、戦った後は立ち上がれないほどの猛烈な倦怠感と肉体の崩壊に襲われる。なのに、あなたはどうしてあんなに平気な顔をしているの?……って、不思議でたまらないみたい』
タロは首を振った。
「平気な顔、ね……。昂らせ方が違うだけ、なのかな?怒りや狂気でエンジンをオーバーヒートさせて回せば、機体も肉体も壊れるのは当たり前だろう。ただ余計な力を抜き、冷徹に機体と同調する。明鏡止水というか……ただの戦いの理論だ。まぁ、言っても伝わらんか」
『ううん、伝わらなくてもいいの。あんたがバケモノみたいに強いのは事実だからね』
ギギはそう言って、誇らしげに深い藍色の光を天幕の中に満たした。
セゼ王女が、泥に汚れた地図の上に、自らの白い手をそっと置く。
言葉は通じずとも、その翡翠色の瞳には、この絶望的な資源戦争を終わらせるため、伝説の『渡来人』であるタロの力を借りたいという、痛いほどの覚悟が宿っていた。
タロは短くなった煙草を足元に落とし、飛行靴の裏で静かに揉み消した。そして、天幕の入り口の隙間から、遥か広場の方角を見やる。
そこには、あの骨の怪物に踏み潰され、無惨に引き裂かれた愛機――零戦の残骸が、雨に濡れたまま横たわっているはずだった。
還るべき空も、ともに戦った翼も、もう元には戻らない。
だが、先ほど自分が乗った未完成機ガラダインの、あのひどく大雑把で粗削りな「鉄と骨」の構造が、タロの整備兵としての、そしてパイロットとしての直感を刺激していた。
「……ギギ。王女様に伝えてくれ」
タロは腕を組み、セゼ王女を真っ直ぐに見据えた。
「あの広場に転がっている俺の飛行機の残骸と、さっきの未完成機を、まとめて奴らの工房へ運べ、と。……あの鉄の怪鳥の骨組みと外板を継ぎ接ぎ(レストア)すれば、あの木偶の坊は一応の完成を見る。俺の戦い方に合わせた機体にな」
ギギの体内のガラスが、タロの静かな闘志に呼応するように、パッと鮮やかな藍色の輝きを放った。
『了解! 任せときなさいって!』
ギギがセゼ王女に向けて熱っぽく言葉を紡ぎ出すと、王女の翡翠色の瞳に、驚きと、それを上回る猛烈な希望の光が宿った。




