異界の騎士達22
深い闇から意識が浮上したとき、タロの視界に最初に映ったのは、豪奢な部屋の天井と、見下ろしてくるセゼ王女の端麗な顔だった。
また、彼女の膝の上にいる。
(あぁ、俺は……城は……)
混濁する意識の向こう、遠くからは一万の帝国地上軍が発する地鳴りのような行軍の音と、それに対抗するジギ城兵たちの絶望的な合戦の音が、微かに響いていた。
タロは辛うじて動く眼球だけで室内を見回したが、自分たち以外には誰もいない。ジギ王の昏倒という未曾有の危機に対し、王女が敢えて人払いをしてくれたのだろうか。
セゼはタロの乱れた髪を白い手筋で優しくときながら、絶え間なく言葉を紡いでいた。相変わらず、この異界の言葉の細かいニュアンスまでは聞き取れない。だが、彼女の指先の震えと、慈しむような眼差しから、命がけの戦いを終えた自分への深い労いの気持ちだけは痛いほどに伝わってきた。
傍らのサイドテーブルの上では、役目を終えたガラスの精霊ギギが、光を完全に消し去って、疲れ果てたように横たわっている。
「今は近衛兵も、皆前線に出払っています。侍女たちも、裏手の森へ避難させました」
セゼは動けないタロの耳元に顔を寄せ、今度は聞き取りやすいよう、一語一語をゆっくりと言葉に紡いだ。
「ジギ王がお休みの間は……私が、この城の指揮を執ります」
タロはその言葉の重さに息を詰まらせた。一国の王女が、陥落寸前の城の全責任を背負おうとしている。
「私の騎士よ。私の、この熱い想いを……どうか受け止めて欲しい」
刹那、タロの身体に微かな戦慄が走った。
何が何だかわからないまま、セゼの手によって飛行服が滑らかに脱がされていく。抵抗しようと脳から四肢へ信号を送るが、「血の昂りの呪い」に焼かれた手足には指一本動かすだけの力すら入らない。
「やめろ、セゼ王女……それ以上は――」
懇願するようなタロの声は、彼女の衣服が擦れる微かな音にかき消された。
月光の差し込む部屋で、セゼの麗しい肌が惜しげもなく露出していく。
下着さえも取り払った王女の、控えめで柔らかな乳房が、タロの視界を、そして息を塞ぐようにして覆いかぶさってきた。肌の熱と、甘い香りが強烈に鼻腔を支配する。
「この戦で、私たちは死ぬかもしれない。せめて、女を知ってから……私は死地に立ちたい。あなたは何もしなくていい。ただ、王女の命に従っただけ、と……」
情熱と悲壮の入り混じった瞳が、タロを真っ直ぐに見つめていた。
「だめだ、セゼ王女……俺には、祖国に静という許嫁が――っ……!」
――どれほどの時間が経ったのだろうか。
現実の時間はさして進んでいないはずだったが、二人の間に流れた時間は、永遠に等しい濃密さを持っていた。
やがて、セゼは乱れた髪を後ろで無造作に纏め上げると、鏡も見ずに、煌びやかなゴバ王国の戦装束を自らの手で迅速に装着していった。兜の隙間から覗くその横顔は、もはや甘えるような少女のものではなく、軍勢を率いる将のそれだった。
彼女は、まだシーツの上で動けずにいるタロの額を優しく一撫でし、重い扉へと歩みを進める。扉の取っ手に手をかけたまま、セゼは振り返らずに、そっと囁いた。
「一時の過ちです。許してください、タロ。そして……このような小娘との情事も、すべては血の昂りの呪いが見せた、儚い夢……。忘れて、いや……忘れないで、忘れてください」
複雑に震える声音。セゼは小さく息を吐き出すと、毅然と背筋を伸ばした。
「それでは、戦場で待っていますわ。私の、騎士様――」
重厚な扉が開閉し、セゼの足音が戦場へと遠ざかっていく。
「セゼ王女、待て……! 俺も……うっ!」
強引に身を起こそうとしたタロの胸に、鋭い痛みが走った。
「まだ動かない方がいいよ、タロ」
不意に、サイドテーブルの方から、鈴の鳴るような、だが酷く悪戯っぽい声が響いた。
タロは冷や汗を流しながら、サイドテーブルへ視線を向けた。いつの間にか起き上がっていたギギの体躯の奥で、ニヤニヤとした意地の悪い藍色の光が、細かく明滅している。
「ギギ……いつから起きてた?」
「うーん……内緒!」
(最悪だ……)タロは心の中で絶望した。
「ギギ、今のは夢だ。いいな? ただの夢だ。近衛騎士や侍女たち、それにゼグに知られたら、俺は確実に後ろから刺される」
「うーん、どうしよっかなぁ?」
ギギはふわりと宙に浮き上がると、いたずらな光の粒子を振り撒きながら、タロの左肩へとちょこんと腰を下ろした。
「今度ゆっくり、私の体を最高級の磨き布でピカピカに磨いてくれたら……忘れてあげてもいいよ?」
その提案に、タロは藁にもすがる思いで頷いた。
「わかったよ。この戦を生き延びてゴバに帰ったら、お前の身体が擦り切れるまで磨き上げてやる。だから、本当に頼むぞ?」
「えへへ、まっかせなさい!」
ガラスの顔は無表情のままだが、その奥の光がふふんと誇らしげに大きく明滅した。おそらく、得意満面なドヤ顔をしているのだろう。
会話を交わすうちに、呪いの熱は引き、手足の感覚が急速に戻ってくるのがわかった。タロは寝台から脚を下ろし、飛行服の襟を正した。
「さて……体もだいぶ動くようになったな。行くぞ、ギギ!」
まだ僅かにふらつく身体に海軍魂を奮い立たせ、タロは腰の搭乗員刀を握りしめた。己を「騎士」と呼んで死地へ向かった王女の背を追うべく、男は再び、硝煙渦巻く凄惨な戦場へと舞い戻る。




