銀翼の渡来人2
コックピットを這い出たタロの足が、異界の泥を捉えた。
周囲は、完全に凍りついていた。
城門を埋め尽くす肉片と、鉄錆の臭いを孕んだ生温かい血の霧。その中心で黒煙を吹く、主翼をもぎ取られた銀色の怪異――零戦。そして、それを操っていた、見たこともない意匠の軍服に身を包んだ黒髪の男。
城塞都市の兵たちも、辛うじて生き残った攻め手の兵たちも、武器を握る手を震わせたまま動けない。
その静寂の最前線に、一人の女がいた。
泥と煤にまみれながらも、気高さを失わぬ銀糸の髪。
返り血を浴びた豪奢なドレスを翻し、白刃を握る少女。その身なりや、周囲の兵たちが彼女を庇うように陣を敷いている様子からして、間違いなく極めて身分の高い、この軍勢の核心たる存在だった。
だが、彼女の瞳に宿るのは、驚愕、そして強い警戒。
少女は美しくも鋭い切っ先を、真っ直ぐにタロの胸元へと向けた。
その薄い唇から、未知の言語が激しく紡がれる。
「……っ、……!?」
何を言っているのかは、全く分からない。
だが、そこに敵意と、張り詰めた恐怖があることだけは、タロの肌が察知していた。
タロは無言のまま、ゆっくりと両手を挙げた。
敵ではないと示したいが、ここは戦場の真ん中だ。言葉の通じぬ狂気の中、一歩でも動けば、その切っ先が喉を貫くかもしれない。
二人の視線が、火花を散らすように激しく交錯する。
だが、戦場はその膠着を許さなかった。
城門の影、肉片の山を強引に踏み越えて、数人の影が突入してきた。
機銃掃射の地獄を、奇跡的に生き延びたギド軍の精鋭部隊。それを率いるのは、一際巨大な体躯を黒鉄の鎧で包んだ、熊のような敵将だった。
敵将の濁った瞳が、身分の高そうな少女を捉える。
言葉は分からずとも、その殺意の純度は、タロの脳裏に警報を鳴らすに十分だった。
「――、――ッ!!」
獣のような咆哮。
敵将が泥を蹴り、その巨大な大剣を少女の脳天目がけて振り下ろす。
少女は咄嗟に剣を構えたが、体格差は絶望的だ。受ければ、骨ごと叩き潰される。
(――動け)
タロの身体は、思考よりも先に地を滑っていた。
彼の精神は、再びあの「明鏡止水」の極致へと急速に融解していく。
タロの右手が、腰のホルスターから『南部十四年式拳銃』を引き抜いた。
銃身が、正確無比に敵将の突進線上へと固定される。
引き金を引き絞る。
乾いた破裂音が広場に響いた。
放たれた八ミリ弾は、狂いなく敵将の右膝、鎧の継ぎ目のわずかな隙間へと吸い込まれた。
「――っ!?」
肉と骨を砕く鈍い衝撃。
いかに大柄な戦士といえど、前進運動中の膝を撃ち抜かれれば、その慣性を制御することは叶わない。
敵将の巨体が、ガクリと不自然に前方へ傾き、大剣の軌道が大きくブレた。
その一瞬の隙、タロはすでに間合いの内側へと踏み込んでいた。
拳銃を左手に持ち替え、右手で刀の柄を握り駐爪を押し込み刀身を抜き払う
祖父から叩き込まれた、一刀流の神髄。
『一の太刀』。
引くことはない。ただ、命の全てを乗せて、敵の芯を断ち切る。
鋭い呼気と共に、抜き放たれた白刃が、袈裟懸けに敵将の首元へ振り下ろされた
肉が裂け、骨が断たれる感触が、柄を握るタロの両手に確かな手応えとして伝わる。
刃は、敵将の太い首を完全に破断していた。
「あ、……」
次の瞬間、すさまじい圧力の生暖かい血が、断頭の断面から噴水の如く噴き上がった。
タロの顔面を、そして少女のドレスを、どす黒い鮮血が容赦なく濡らす。
宙を舞った敵将の頭部が、広場の泥の上へと転がった。
落ちた首は、未だ己の死を理解していないのか、泥にまみれながら数秒の間、狂ったように瞬きを繰り返した。
その唇が、声にならない喘ぎを求めて引きつり、不気味に蠢く。
正式に頭部を失った巨大な胴体は、糸の切れた人形のように崩れ落ち、泥の中で魚のようにバタバタと激しく痙攣を始めた。
括約筋が緩み、排泄物と混ざり合った血の悪臭が、一気に辺りへと立ち込める。
「……っ」
身分の高そうな銀髪の少女の喉から、小さな悲鳴が漏れた。
彼女の美しい顔は恐怖に引き攣り、目の前の「黒髪の異邦人」を、怪物を見るような目で見つめている。
タロは、返り血を浴びた搭乗員刀を静かに下ろした。
激しい息の乱れはない。ただ、氷のような瞳で、のたうち回る肉体を見下ろしている。
言葉の通じぬ世界で、タロが示した圧倒的な、そして容赦のない『武』の現実。
それこそが、二人の因果をさらに深く縛り付ける、血の洗礼であった。




