銀翼の渡来人12
目を覚ますと、そこは揺れる橙色の光に包まれた天幕の中だった。
衣服の擦れる微かな音と、額に触れる冷涼な感覚。タロが重い瞼を持ち上げると、そこには翡翠色の瞳を憂いに曇らせた、セゼ王女の顔があった。彼女はタロが意識を取り戻したことに気づくと、張り詰めていた表情をふっと和らげ、静かに、しかし万感を込めてその言葉を口にした。
「ガ・ルァ・シャ、タロ」
この過酷なガランドの世界で、タロが唯一理解できる言葉。命を救ってくれたことへの、純粋で、どこまでも重い感謝の響き。
王女はタロの額にあった、ぬるくなった布をそっと取り去り、冷たい水で絞り直した新しい布を優しく乗せた。
「……っ、……」
体中に残る、悍ましいほどの倦怠感。
あの戦闘の終盤、ガラダインの出力が跳ね上がった瞬間、タロの体内では文字通り「血が沸騰」していたのだ。現地の乗り手たちが一戦交えただけで立ち上がれなくなるという、鋼骨騎の持つ呪いのような負荷。タロの強靭な精神力と冷徹な操縦技術をもってしても、肉体に刻まれた代償はあまりにも重かった。
「まったく! 目を覚ましたと思ったら、そんな死に損ないみたいな顔しちゃってさ!」
天幕の天井付近を所在なさげに飛び回っていたガラスの精霊が、タロの枕元へと急降下してきた。
表情の変わらない結晶の身体。しかし、その声の震えと、体内を波打たせる藍色の光の激しい明滅が、彼女がどれほどタロを心配していたかを雄弁に物語っている。
「……だから、タロなんて犬みたいな名前で呼ぶんじゃねえよ……」
タロは寝台に横たわったまま、力なく、しかし意地を張るようにぶっきらぼうに答えた。
言葉のわからないセゼ王女は、二人の奇妙なやり取りを不思議そうな顔で見守っている。
それを見たギギは、胸を張って、体内の発光を白色に変えながら王女へと言葉を紡ぎ始めた。もちろん、タロの脳内への翻訳も忘れない。
『セゼ、この男ね、「タロ」って名前を嫌がってるの。あっちの世界には「イヌ」っていう毛むくじゃらの愛玩動物がいてね、タロの国じゃそういう生き物に「タロ」って名前をよくつけるんだってさ!』
その翻訳を聞いた銀髪の王女様は、一瞬きょとんとした後、小さく口元を片手で抑えて、ふふっと鈴を転がすように上品に笑った。
そして、愛おしげな目をタロに向けると、寝台にそっと屈み込み、タロの無精髭の生えた頬に白く細い手を優しく添えた。
「ガ・ルァ・シャ、ヒムカ」
イヌの名前ではなく、彼の家名である「日向」を呼ぶ。王女なりの、最上級の気遣いと敬意だった。
「へへ……。流石は王女様だな。どこぞの生意気な妖精とは、優しさと品格が違うぜ」
「もう! 妖精って言うなっ! あんな頭の中がお花畑のおバカさん達と一緒にしないでよね! 私は気高き、ゴバの至宝たる精霊ギギ・ル!」
「はいはい、ギギ」
「だから! そんなブリキの壊れるような雑な音で私の名前を縮めないでってば!」
「お互い様だろ、タロって呼ぶなっつってんだよ」
天幕の中に響く、男と精霊のいつもの軽口の応酬。
言葉の意味は一つもわからないはずのセゼだったが、二人の絆の深さを察したのだろう、今度はクスクスと、心からの笑みを浮かべて彼らを見つめていた。
――それから一時間後。
まだ足元がおぼつかないタロは、天幕の入り口に立つ衛兵の頑強な肩を借りて、外の空気を吸いに歩き出していた。
すっかり雨の上がった街道の脇、出発の準備を進める行軍の列がある。タロは一歩一歩踏みしめるように歩き、休んでいる荷馬車の前で足を止めた。
そこには、泥を拭われ、厳重に固定された零式艦上戦闘機二一型の残骸が積まれている。
タロはそっと右手を伸ばし、鈍い光沢を放つ超々ジュラルミンの外板に触れた。ひんやりとした金属の冷たさが、手のひらを通じて彼の歪んだ心を驚くほど冷静にしていく。
衣服のポケットから、配給品の煙草を一本引き抜き、唇に咥える。
マッチを擦り、灯った炎を近づけて深く息を吸い込んだ。芳醇で辛味のある紫煙が、山脈の澄んだ空気の中へとふわりと燻っていく。
「……俺は救世主なんかじゃないぜ、王女様」
流れる煙の向こう、まだ見ぬゴバの空を見つめながら、タロはぽつりと独り言を呟いた。
「俺は、ただ……コイツ(二一型)をもう一度完璧に仕立て直して、静のいる、あの時代、あの世界へ還るために必死なだけの……ただの欲深い男さ」
大東亜の空。命を懸けて飛び回ったあの戦場。そして、自分が還るべき母国で待っているはずの、愛しい女性の面影。この異世界でどれだけ英雄と崇められようとも、彼の魂の帰着点は最初から決まっていた。
タロは短くなった煙草を地面に落とし、飛行靴の裏で静かに踏み消した。
その顔からは、先ほどまでの弱々しさは完全に消え失せ、冷徹で、鋭利な飛行兵の面構えが戻っていた。
衛兵の助けを断り、自らの足で歩く。
カタカタと片腕を失った状態で佇む、愛機ガラダイン。そのハッチを開け、タロは慣れた動作で狭い操縦席へと身体を滑り込ませた。
「ちょっと待ってよタロ! 置いてかないで!」
ハッチが閉まる直前、天幕から必死に追いかけてきたギギが、弾丸のような勢いでコックピットへと飛び込んできた。そして、タロの胸ポケットの定位置へとすっぽりと収まり、体内を安心の藍色に輝かせる。
骨の操桿を握る右手に、ぐっと力を込める。意識を向ければ、脳内へと投影される360度の視界が、鮮明にゴバへと続く道を映し出した。
「さて……。そのゴバって国の首都まで、あと少しだ。気合いを入れろ、俺」
不格好な鉄と骨の怪物が、駆動部に残る痛みをねじ伏せるように、力強く大地を踏みしめた。




