第20話 最後の水曜日
最後の水曜日が、いつかなんて、誰にも、わからなかった。
お姉ちゃんにも。
わたしにも。
だから、毎週、「もしかして、今日が」って、思いながら、目を覚ました。
それは、ちょっと、苦しい習慣だった。
でも、もう、泣かなかった。
その代わり、決めたことが、ひとつある。
夜、電気を消して、寝る練習。
最初の日は、三分で、あきらめた。
二日目は、五分。
三日目は、真っ暗の中で、ベッドの足の方を、ずっと、にらんでいた。
お姉ちゃんの、いない、部屋。
静かすぎて、耳が、きーんと鳴った。
「……こわい」
ひとりで、つぶやいた。
そのとき、思い出したのだ。
小さいころ。
電気を消すのが、こわくて、泣いていたわたしに、お姉ちゃんが、歌をうたってくれた。
ねーんねーん、ころりーよ、みたいな、ふつうの子守唄じゃない。
お姉ちゃんが、勝手に作った、変な歌。
「ちびは、ちびで、ちびちびと、ちびのまま、ちびと、おやすみなさい」
……歌詞が、ひどい。
でも、あの歌を聞くと、不思議と、眠れた。
お姉ちゃんが、あの夜、うたっていたのは。
あの歌だったんだ。
水曜日の朝、お姉ちゃんは、いなかった。
代わりに、机の上に、黄色いヘアゴムが、ちょこんと、置いてあった。
……え?
わたしは、固まった。
これ、お姉ちゃんが、持っていったやつ。
返してくれる、って、言ってたやつ。
まさか。
もう、返しに来たの?
もう、来ないの?
「お姉ちゃん!」
叫んだ。
返事は、ない。
「お姉ちゃん! ねえ、お姉ちゃん!」
部屋じゅうを、ひっくり返す勢いで、探した。
クローゼット。
ベッドの下。
窓の外。
どこにも、いない。
足から、力が、抜けた。
そのとき。
「うるさーい」
ドアの向こうから、声がした。
「朝から、近所迷惑」
お姉ちゃんが、ドアのすきまから、顔だけ、出していた。
……ドアの、すきまから。
体が、半分、壁にめりこんで。
「いた!」
「いるよ。さっきから」
「なんでそんなとこにいるの!」
「ちょっと、実験。壁、通りぬけられるかなって」
「やめて、ほんとに、やめて!」
お姉ちゃんは、けらけら笑って、壁から、ずるっと出てきた。
でも、その姿は、もう、はっきりとは、見えなかった。
半透明の、水彩画みたいに、にじんでいて。
ジャージも、靴下も、ヘアゴムのない髪も。
ぜんぶ、淡い。
「……今日、なんだね」
わたしが言うと、お姉ちゃんは、笑った。
「たぶんね」
「たぶん、って」
「でも、あんたも、もう、わかってるでしょ」
わかっていた。
お姉ちゃんの輪郭が、今まででいちばん、薄かったから。
学校は、行った。
お姉ちゃんも、ついてきた。
最後の、授業参観だと思って、って、お姉ちゃんは言った。
わたしは、まじめに、授業を受けた。
数学で、先生に当てられた。
「橘さん、この問題」
「はい。えっと、四です」
あっていた。
教室が、ちょっとだけ、ざわっとした。
お姉ちゃんが、後ろで、小さく拍手していた。
「先週の『プリンです』の人とは、思えないね」
瀬戸くんが、小声で、からかってきた。
「それ、もう忘れて!」
「無理。印象、強かったから」
瀬戸くんは、笑った。
わたしも、笑った。
つくり笑いじゃない、ほんとの笑いで。
お昼休みは、彩と、中庭で食べた。
お姉ちゃんは、少し離れたベンチで、足をぶらぶらさせていた。
「今日、いるの?」
彩が、小さい声で聞いた。
「うん。あそこ」
わたしが指さすと、彩は、そっちに向かって、ぺこっと頭を下げた。
「お姉さん。柚の、友達の、彩です。柚のこと、わたし、ちゃんと、見ておきますから」
お姉ちゃんは、一瞬、目を丸くして。
それから、ベンチの上で、ぐっと、親指を立てた。
彩には、見えていない。
でも、わたしが、「親指、立ててる」って言ったら、彩は、泣きそうな顔で、笑っていた。
夕方、家に帰ると、お母さんが、すでに、台所に立っていた。
パートは、早退したらしい。
鍋の中で、カレーが、ことこと、煮えている。
コーヒーの、ほんのり苦い香りが、まざっていた。
「おかえり、柚」
「ただいま」
「今日は、三人分、作ったから」
「……うん」
お母さんは、わたしの顔を見て、にっこり笑った。
それから、食器棚から、お皿を三つ、取りだした。
それだけじゃなかった。
棚の奥から、もうひとつ、取りだしたものがあった。
お茶碗。
花柄の、小さな、お茶碗。
最初の夜に、お母さんが、棚に戻した、あの、お茶碗。
「……お母さん、それ」
「茜のよ」
お母さんは、お茶碗を、そっと、テーブルの上に置いた。
「ずっと、片づけられなかったの。だけど、今日は、使いたくなって」
「うん」
「カレーは、お皿だけど。ごはんは、このお茶碗にしようと思って」
お姉ちゃんが、お母さんの隣に立って、お茶碗を、じっと見ていた。
わたしは、そっと、お母さんに言った。
「お母さん。そのお茶碗、お姉ちゃんの、でしょ」
「そうよ」
「じゃあ、お姉ちゃんにも、さわれるかも」
「えっ?」
「お姉ちゃんね、あげた物は、さわれるの。柚の物は、さわれるから。お母さんが、お姉ちゃんにあげたら、お姉ちゃんの物だよ」
自分でも、なんでそう思ったのか、わからなかった。
でも、口から出た瞬間、それが、正しい気がした。
お母さんは、ちょっと、考えて。
それから、お茶碗を、両手で持って。
リビングの、お姉ちゃんが立っているあたりに、そっと、さしだした。
「茜」
お母さんの声は、やさしかった。
「これは、あなたの。誰にも、あげないから。ずっと、あなたの、お茶碗よ」
お姉ちゃんは、息をのんだ。
震える手を、おそるおそる、のばした。
指先が、お茶碗のふちに、触れた。
……こつん。
小さな、陶器の、音がした。
「……さわれた」
お姉ちゃんの声が、ふるえていた。
「お母さん、わたし、さわれた。お母さんが、くれたお茶碗」
「え?」
お母さんが、ぱっと、顔を上げた。
「今、あの子の声が」
「お母さん、聞こえた?」
「ええ。『さわれた』って」
お母さんの目から、涙が、ぼろっと、こぼれた。
「ええ、ええ。そうよ。あなたの、お茶碗」
お姉ちゃんは、お茶碗を、両手で、そっと持った。
ちゃんと、持てていた。
重さも、あるみたいだった。
お姉ちゃんは、お茶碗を、胸に抱いて。
それから、顔をくしゃくしゃにして、笑った。
「お母さん、ただいま」
「……おかえり、茜」
お母さんは、泣きながら、笑っていた。
お母さんにも、聞こえたんだ。
今度は、ちゃんと。
晩ごはんは、四人分の食卓だった。
お母さんと、わたしと、お姉ちゃんと。
それから、テーブルの隅に、もうひとつ、小さなお皿。
お母さんが、お父さんの分だって言った。
「まだ、呼べないけど。気持ちだけ、ね」
お母さんは、そう言って、笑った。
お姉ちゃんの前には、花柄のお茶碗と、カレーのお皿。
スプーンも、ちゃんと、握れた。
お姉ちゃんは、一口目を、ゆっくり、すくって。
口に、運んだ。
目を、とじた。
長い、長い、沈黙のあと。
「……おいしい」
その声は、わたしにも、お母さんにも、ちゃんと、聞こえた。
「お母さんのカレー、世界で一番、おいしい」
お母さんは、スプーンを持ったまま、うなだれた。
肩が、ふるえていた。
「……ありがとう」
「お母さん、泣かないでよ」
「泣いてないわよ」
「ゴミ、入ったの?」
「そうよ。ゴミが、入ったの」
お母さんが、顔を上げて、笑った。
お姉ちゃんも、笑った。
わたしも、笑った。
三人で、カレーを食べた。
おかわりも、した。
お姉ちゃんが、三杯もおかわりして、お母さんに、「食べすぎよ」って、笑われていた。
夜十一時。
お母さんは、「今日は、先に寝るわね」と言って、部屋に引っこんだ。
わたしは、お姉ちゃんと、ふたりで、部屋に戻った。
電気は、ついたまま。
お姉ちゃんは、ベッドのふちに座った。
その体は、もう、ほとんど、透きとおっていた。
「……柚」
「うん」
「ヘアゴム、見た?」
「うん。机の上に、あった」
「あれ、返しとくね。来週って、言ったのに、ずいぶん、遅くなっちゃった」
「ほんとだよ。何週間、かかってるの」
「ごめんって」
お姉ちゃんは、笑った。
それから、少し、真面目な顔になった。
「ねえ、柚」
「なに」
「電気、消せる?」
わたしは、天井を、見あげた。
ついたままの、白い光。
あの日から、ずっと、つけっぱなしだった。
「……消せると、思う」
「ほんと?」
「練習、した。三日間」
「えらいじゃん」
「でも、ちょっと、こわい」
「うん。わかる」
お姉ちゃんは、わたしの手を、そっと、にぎった。
あったかい手。
でも、ほとんど、重さがなかった。
「歌、うたってあげよっか」
「……うん」
「ちびは、ちびで、ちびちびと」
「ひどい歌詞」
「いいの。わたしの、オリジナルだから」
お姉ちゃんは、小さな声で、うたいはじめた。
ちびは、ちびで、ちびちびと。
ちびのまんまで、おおきくなあれ。
ちびが、おおきく、なったなら。
ちびは、ひとりで、あるけるね。
ああ、そうだった。
二番、あったんだ。
ずっと、忘れてた。
わたしは、枕もとの、リモコンを、手に取った。
ぴ、と、ボタンを、押した。
部屋が、暗くなった。
真っ暗じゃなかった。
カーテンのすきまから、街灯の光が、ほんの、ちょっとだけ、入ってきて。
お姉ちゃんの、うすい輪郭を、ぼんやり、照らしていた。
「……ほら」
お姉ちゃんが、笑った。
「消せたじゃん」
「……うん」
「えらい」
「うん」
わたしは、お姉ちゃんの手を、ぎゅっと、にぎった。
お姉ちゃんの手は、もう、ほとんど、感じられなかった。
でも、にぎった。
「お姉ちゃん」
「ん」
「また、来週」
わたしが言うと、お姉ちゃんは、ちょっと、困った顔をした。
それから、すごく、やさしく、笑った。
来れたら来る、とは、言わなかった。
「じゃあね、ちび」
「……うん」
「じゃあね」
「うん。じゃあね、お姉ちゃん」
お姉ちゃんの手が、わたしの手の中で、ふわっと、軽くなった。
羽みたいに。
空気みたいに。
そして。
あったかさだけが、手のひらに、ほんの少し、残った。
目を開けると、部屋には、わたしひとりだった。
電気は、消えたまま。
暗い部屋。
街灯の光。
わたしの、呼吸の音。
それから。
部屋のどこかから、かすかに、あの歌が、聞こえた気がした。
ちびは、ちびで、ちびちびと。
ちびのまんまで、おおきくなあれ。
わたしは、目をとじた。
涙が、ぽろぽろ、こぼれた。
でも、不思議と、こわくなかった。
お姉ちゃんの、歌が、まだ、耳の中に、残っていたから。
わたしは、眠った。
電気を、消したまま。




