第八話 断りなさい。
王都から届いた書状を読み終えたアウレリア・フォン・アイゼンマルクは、もう一度最初から目を通した。
内容は簡単だった。
『二月後より行われる中央軍の再編に伴い、アイゼンマルク辺境軍より兵三千を抽出し、半年の期限で王都へ派遣せよ。』
指揮官についてはアイゼンマルク側で選定し、必要な兵糧および駐留費の一部は王家が負担するというものだった。
「......気に入らないわね」
執務机の向かいに立つコンラートが、わずかに視線を上げた。
「何がでございますか」
「王都の問題に、どうして私の軍を渡さなければならないのよ」
「王命ですので」
アイゼンマルクは王国東部の国境を守る辺境領である。そのため領内には、他領とは比較にならない規模の常備兵を抱えている。
三千の兵を渡すということは、それだけ国境を守る軍が減るということだ。
「無理ね。これだけ動かせば向こうが動くわ」
「では、減員を求めますか」
「そうね」
アウレリアはしばらく考えた。
「千人なら半年程度は隠せるわ」
「では千名への減員を求める旨、お返事いたします」
◆◆◆
王都から返書が届いたのは、それから七日後だった。
「……認めない?」
「はい」
アウレリアは手元の書状から顔を上げた。
「千では足りないそうです」
「読めば分かるわ」
王都からの返答は明確だった。
アイゼンマルク側から提出された減員要請について検討した結果、国境防衛に重大な支障を生じるものとは認められない。
当初の命令通り、三千名を派遣せよ。
アウレリアはもう一度その一文を読んだ。
「……誰よ、こんなこと言ってるのは」
「王太子殿下でございます」
「王太子? 陛下はどうしたのよ」
「現在、体調を崩されているとのことです」
初耳だった。
「重いの?」
「いえ。公表されている限りでは、一時的なものかと。ただ、ここしばらく一部の政務を王太子殿下へ任されているようでございます」
「そう」
それなら納得できる。
国王とは、アウレリアが辺境伯となる以前から何度も顔を合わせている。
あの老人なら、アイゼンマルクから三千もの兵を半年も抜けばどうなるかくらい分かるはずだ。
「殿下はおいくつだったかしら」
「二十七歳でございます」
「そう」
アウレリアはもう一度返書へ目を落とした。
『国境防衛に重大な支障を生じるものとは認められない。』
アウレリアは大きく息を吐いた。
「お若いのね、殿下は」
「閣下も同じ歳でございますが」
「そういう話じゃないわよ」
アウレリアは返書を机へ置いた。
「それで、何を根拠に支障がないと言っているの?」
「王都の軍務官が、我が軍の兵数と各砦の配置を確認した上で判断したようでございます」
「今まで攻めてこなかったから、これからも攻めてこないと思っているのかしら」
「そこまでは何とも」
隣国は間違いなく動くだろう。自分が同じ立場ならそうする。
「コンラート」
「はい」
「もう一度突き返しなさい」
コンラートが僅かに眉を動かした。
「同じ内容でよろしいので?」
「ええ。千なら出す。それ以上は出さない」
アウレリアは何でもないことのように答えた。
「こちらの答えは変わらないわ」
「……承知いたしました」
コンラートが返書を手に取る。
「国境防衛上の危険について、前回より詳細に記載いたします」
「そうしてちょうだい」
◆◆◆
「また千だと?」
エドアルトは、二度目の上奏書から顔を上げた。
父王譲りの淡い金髪は短く整えられ、瞳は澄んだ青。鼻筋の通った端正な顔立ちにはまだ若さが残っている。
身に纏うのは濃紺を基調とした王族としては比較的簡素な衣装で、装飾も胸元に留められた王家の紋章と、指に嵌めた印章指輪くらいのものだった。
「はい」
軍務官が答える。
「アイゼンマルク辺境伯は、千名であれば当初の予定通り半年間派遣する。しかし、それ以上の抽出には応じられないと」
「前回と同じではないか」
「今回は、その理由についてより詳細な資料が添付されております」
エドアルトは机上の資料へ目を落とした。
各砦に配置されている兵数。国境沿いの巡回経路。予備兵力。主要な街道と補給拠点。
三千名を抽出した場合、どこから何人を動かし、どの部隊でその穴を埋める必要があるのかまで細かく記されている。
さらにその先には、隣国側の砦と駐留兵力まで記載されていた。
「……軍務官」
「はい」
「これを見ても、三千は出せるか」
問われた軍務官は、すぐには答えなかった。
「どうした?」
「出せます。ただし、辺境伯が懸念しているのは、三千名を失った状態で国境を維持できるかどうかではないようです」
「では、何だ」
「三千名を動かしたことを、隣国に知られることだと」
エドアルトは再び資料へ目を落とした。
「兵の移動を隠せないと?」
「三千ともなれば難しいでしょう。半年間ともなれば、いずれは察知されるものと思われます」
「それで千か。だが国境線は守れるのだろう?」
「はい。十分に」
エドアルトは椅子の背へ身体を預けた。
アイゼンマルク辺境伯。アウレリア・フォン・アイゼンマルク。
名前なら以前から知っている。
王国東部の広大な辺境領を治め、二十一歳で家督を継いでから六年。軍備を拡張し、街道を整え、交易を伸ばし、今では王国内でも有数の豊かな領地へと育てた女。
そしてーー
『父上は、あの女を恐れすぎです』
『恐れておる』
当時は理解できなかった。今も、理解できているとは言い難い。
確かに優秀なのだろう。
国境を守り、領地を豊かにし、若くして継いだ辺境伯家を六年でさらに大きくした。その実績まで否定するつもりはない。
「それでも、臣下だろう」
エドアルトは小さく呟いた。
「いかがいたしましょう」
「三千だ」
エドアルトは迷わず答えた。
「減員は認めない。当初の命令通り三千名を派遣させろ」
「承知いたしました」
軍務官が一礼する。
「それから――」
「はい」
「今度は、はっきり書け」
エドアルトは二度目の上奏書へ視線を落とした。
「これは交渉ではない。王命だ、従え、と」
◆◆◆
三度目の書状が届いたのは、それから五日後だった。
アウレリアは最後まで目を通し、机へ置いた。
「……三千?」
「はい」
「王命だから従え?」
「そのように」
「気に入らないわね」
アウレリアはもう一度書状へ目を落とした。
「コンラート」
「はい」
「断りなさい」
「おやめください」
即座に返ってきた言葉に、アウレリアは顔を上げた。
「何?」
「王命の拒否はおやめください」
コンラートはいつもの無表情のまま、真っ直ぐこちらを見ていた。
「減員を求めることと、王命の拒絶は全く違います」
「知ってるわ」
「でしたら、もう一度交渉なさってください。千五百まで譲るなり、期間を短くするなり、まだ方法はございます」
「交渉ではない、と書いてあるわよ」
「それでもです」
「嫌よ」
「閣下」
コンラートの声が僅かに強くなった。
「王命を拒否すれば、王家も黙ってはいられません」
「先に交渉を放棄したのはあちらよ」
コンラートが言葉を止めた。
「コンラート」
「……はい」
「断りなさい」
しばらく返事はなかったが、やがて、コンラートが小さく息を吐いた。
「承知いたしました」
◆◆◆
アウレリアに王都への出頭命令が下されたのは、それから幾日もしないうちだった。
「行くしかないわね」
「……行かれるのですか?」
コンラートの問いに、アウレリアは怪訝そうに振り返った。
「当たり前でしょう? 王命よ?」
「先日は、その王命を拒否なさいましたが」
「あれは無理だったもの」
「……左様でございますか」
全く何を言っているのか。
兵三千を出せという命令にはもちろん従えない。
だが自分と数人くらいであれば、数週間くらいは持ち堪えるだろう。
「出発はいつ?」
「明朝であれば、指定された日には十分間に合います」
「なら明日の朝にしましょう」
「承知いたしました」
アウレリアはそれだけ言って、手元の書状をコンラートへ返した。
「それから、ベルンハルトを呼びなさい」
「将軍を?」
「ええ」
アウレリアは窓の外へ目を向けた。
「私が領地を離れるもの。警戒を数段上げさせるわ」
王都へ出頭すれば、すぐに帰ってこられるとは限らない。
そして、アイゼンマルク辺境伯が領地を離れたという情報を、隣国の連中が見逃すとは思えない。
◆◆◆
ベルンハルト・クルーガーが執務室へ姿を見せたのは、それから一時間ほど後だった。
四十代も後半に差しかかった大柄な男である。
短く刈り込んだ灰褐色の髪には白いものが混じり、左の眉からこめかみにかけて古い傷跡が走っている。礼装よりも軍服の方がよほど似合う男で、今日も濃い灰色の軍服を隙なく着込んでいた。
「お呼びですか、閣下」
「ええ。明日から王都へ行くわ」
「ほう」
「しばらく戻れないかもしれない」
「戦ですか?」
「そうなるわ」
ベルンハルトは一度だけ頷いた。
「では、東部第二、第三砦へ予備を寄せます」
「話が早くて助かるわ」
「そのために呼ばれたのでしょう?」
「ええ」
ベルンハルトは壁際に掛けられた国境地図へ歩み寄った。
「どこまで警戒を上げます?」
「斥候は倍。巡回も増やして。砦の備蓄は一月分余計に積みなさい」
「一月分で?」
「足りない?」
「二月にしましょう」
アウレリアはベルンハルトを見る。
「理由は?」
「閣下が王都で大人しくしていれば一月で戻れるでしょうが、大人しくしているとは思えません」
コンラートが僅かに目を伏せた。
「失礼ね」
「違いますか?」
「……二月にしなさい」
「承知しました」
ベルンハルトは地図へ視線を戻した。
「東部第三砦に千。第二砦へ五百。南東から騎兵三百を回します。国境沿いの村には?」
「まだ何もしなくていいわ。騒がせる必要はないもの」
「同感です」
「それから、私がいない間の判断はあなたに任せるわ」
ベルンハルトの目がアウレリアへ向く。
「どこまでやって構いませんかな」
「国境までよ」
「越境しての追撃は?」
「私が戻るまで禁止よ」
「承知しました」
ベルンハルトは地図から離れると、アウレリアへ向き直った。
「では、こちらは私が」
「お願い」
「閣下は王都を」
「ええ」
一拍置いて、ベルンハルトが付け加えた。
「なるべく敵を増やさずにお戻りください」
「どういう意味よ」
「そのままの意味です」
「余計なお世話よ」
アウレリアは地図へ視線を戻し、国境線を見る。
全く、面倒なことね。




