第七話 弁償なさい。
「あ――」
小さな声が聞こえた。
次の瞬間、アウレリア・フォン・アイゼンマルクの胸元へ赤葡萄酒がこぼれた。
象牙色の生地に、赤い染みが瞬く間に広がっていく。
アウレリアはこの日、領都でも有数の商会が所有する大商館を訪れていた。
普段は各地から運び込まれた商品が取引されるその大広間も、今日ばかりは様子が違う。壁際には絵画や織物が並び、硝子の飾り棚には宝飾品や精巧な工芸品が収められている。
年に一度、領内外から集められた品々を披露する品評会。
当然、招かれているのも商会の主人や領内の有力者ばかりだった。
そして今、そのほとんどが口を閉ざしていた。
「あ、わた、わたしーー」
目の前で、銀盆を抱えた若い女が顔を青ざめさせている。
唇は震え、何かを言おうとしているようだったが、うまく言葉にならないらしい。
アウレリアはそんな給仕を一度だけ見て、もう一度自分の胸元へ視線を落とす。
酷い有様だった。
生地は西方から取り寄せた一級品。淡い蜜を透かしたような象牙色で、胸元から腰にかけて金糸の刺繍を施してある。
「も、申し訳ございません……!」
ようやく言葉が出たらしい。
給仕が深く頭を下げる。
「本当に、申し訳ございません……!」
アウレリアはそれには答えず、代わりに、指先で濡れた生地に触れる。
「……コンラート」
「はい」
「これ、落ちると思う?」
少し離れたところに控えていたコンラートが、ドレスへ目を向けた。
「私には何とも」
「そう」
なら仕立屋に見せるしかない。
アウレリアは指先についた葡萄酒を、給仕が差し出した布で拭い、それから目の前の女を見る。
「弁償なさい」
給仕の顔から、さらに血の気が引いた。
「……べ、弁償……」
「ええ」
「あの……こちらは、おいくらほど……」
いくらだっただろう。
布を取り寄せ、刺繍を入れさせ、宝石もいくつか使わせたが、一つ一つの値段など覚えていない。
「コンラート」
「金貨百八十六枚でございます」
言われてみればそのくらいだった気もする。
給仕は俯いたまま何も言わない。いや、言えないのだろう。金貨百八十六枚という金額が、自分にとってどういう意味を持つのかを理解したらしく、銀盆を抱える両手は先ほどよりもはっきりと震えていた。
「あなた、払えるの?」
尋ねると、給仕の肩がびくりと揺れた。
「…………」
「払えないの?」
「……はい」
消え入りそうな声だった。
「そう」
困ったわね。
アウレリアがもう一度、自分の胸元へ目を落とした。
どうしたものかと考えていると、人垣の向こうから「閣下」と自分を呼ぶ声が聞こえた。
振り向けば、集まった客たちの間を縫うようにして、一人の男がこちらへ歩いてくる。
濃紺の上着を隙なく着こなし、白髪の混じり始めた髪も綺麗に後ろへ撫でつけている。その顔にはアウレリアも見覚えがあった。
ヴァルター伯爵。
領内でも古くから続く家の当主であり、今日の品評会を主催する一人でもある。
「この度は、私どもの者が大変な粗相をいたしました」
アウレリアの前まで来たヴァルターは、まず深く頭を下げた。
「誠に申し訳ございません」
「あなたのところの給仕?」
「はい。我が家で雇っている者でございます」
ヴァルターはそう答えながら、傍らで青ざめたまま立ち尽くしている給仕へ一度だけ視線を向けた。
「閣下。使用人の不始末は、雇い主である私の責任でございます」
再びアウレリアへ向き直ったヴァルターは、周囲から集まる視線にも動じることなく、はっきりと言った。
「お召し物につきましては、私が責任をもって弁償いたします」
「そう。じゃあお願いね」
「承知いたしました」
ヴァルターは躊躇うことなく頭を下げた。
その横で、先ほどまで青ざめていた給仕が大きく息を吐く。銀盆を抱える手にはまだ僅かな震えが残っていたが、少なくとも自分では到底支払えない金額を聞かされた直後よりは、幾分か顔色も戻っているようだった。
「旦那様……ありがとうございます」
「今は閣下へお詫びしなさい」
「は、はい……!」
給仕は慌てて姿勢を正すと、改めてアウレリアへ深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ございませんでした」
「もういいわ」
何度謝罪されたところで、葡萄酒の染みが消えるわけでもない。弁償についてもヴァルターが責任を持つと言っている以上、これ以上ここで同じ話を続ける意味はなかった。
「コンラート」
「はい」
「着替えるわ」
「馬車に予備のお召し物がございます。すぐに用意させます」
「お願い」
ふと胸元に広がった赤い染みが視界に入る。
アウレリアは小さく息を吐き、その場を離れた。
その日のうちに、ヴァルター伯爵から正式な謝罪とともに、金貨百八十六枚を弁償する旨を記した書面が辺境伯邸へ届けられた。
仕立屋に見せたドレスは、残念ながら完全に元通りにするのは難しいという。
気に入っていたが、仕方がない。また作らせれば良い話だ。
◆◆◆
それから七日後。
アウレリアは執務室で、領内西部から届いた報告書に目を通していた。
今年は例年より雨が少ないらしい。今のところ収穫に大きな影響は出ていないものの、このまま続けば一部の地域では井戸の水位が下がる可能性があるという。
「西部の貯水池は?」
「現在七割ほどでございます。昨年の同時期より一割ほど低いかと」
「そう。なら、まだ問題ないわね」
「はい。ただし今後二週間まとまった雨がなければ、農業用水の使用制限を検討する必要がございます」
「分かったわ。先に各村へ知らせておきなさい。急に止めたら面倒でしょう」
「承知いたしました」
アウレリアは報告書の端へ署名し、次の一枚を手に取った。
「それから、ヴァルター伯爵の件ですが」
「何?」
聞き覚えのある名前に、書類を捲る手が止まる。
「先日の弁償金につきまして、昨日付で全額の入金を確認しております」
「そう」
そういえば、そんなこともあった。
「なら終わりね」
「はい」
コンラートは手元の書類へ目を落としたまま、続けた。
「なお、あの給仕ですが、伯爵家を解雇されたようでございます」
「そう」
別に驚くことではない。
主人の客、それも領主の服へ葡萄酒をぶちまけたのだ。ヴァルターがその程度の処分を下したところで、アウレリアが口を挟むようなことではなかった。
「正確には解雇後、弁償金を債務として負わされ、債務奴隷として奴隷商へ引き渡されております」
「そう」
次の書類へ目を落としかけ――。
アウレリアは止まった。
「……どうして?」
「弁償金でございます」
顔を上げる。
コンラートはいつもと変わらぬ表情で、手元の書類を一枚捲った。
「ヴァルター伯爵は、閣下へ支払った金貨百八十六枚を、あの給仕が伯爵家へ与えた損害として処理したようでございます。当然ながら本人に返済できる額ではありませんので――」
「あの男を呼びなさい」
「ヴァルター伯爵でございますか?」
「他にいないでしょう」
「承知いたしました」
「今すぐによ」
◆◆◆
急な呼び出しだったにもかかわらず、ヴァルター伯爵は身なりを整え現れた。先日の品評会と同じように髪は綺麗に撫でつけられ、応接室へ入ってきたその顔にも、特に慌てた様子は見られなかった。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
「座りなさい」
「失礼いたします」
ヴァルターが向かいの椅子へ腰を下ろす。
「先日の弁償金につきましては、昨日すべてお納めしておりますが、何か不備でもございましたでしょうか」
「あの給仕を売ったそうね」
ヴァルターは僅かに目を瞬かせた。
「……はい」
「どうして?」
「どうして、と申されましても」
何を問われているのか分からないらしく、ヴァルターは少し困惑したように眉を寄せた。
「閣下のお召し物を損なったのは、あの者の不注意によるものです。金貨百八十六枚もの損害を出した以上、当然ながら本人にもその責任を――」
「そんなことはどうでもいいわ」
ヴァルターの言葉が止まった。
「あなた、言ったわよね」
「……何をでございましょう」
アウレリアは答えず、壁際に控えているコンラートへ視線を向けた。
「コンラート」
「はい」
突然話を振られたにもかかわらず、コンラートは少しも考える素振りを見せなかった。
「『使用人の不始末は、雇い主である私の責任でございます。お召し物につきましては、私が責任をもって弁償いたします』と」
アウレリアはヴァルターへ視線を戻した。
「だそうよ」
「……確かに、そのように申し上げました」
「なら、どうしてあの女に借金があるの?」
「それは――」
「あなたが責任を持つんでしょう?」
ヴァルターが僅かに眉を寄せた。
「もちろん、閣下への弁償については私が責任をもって行いました。ですが、それによって我が家が被った損害を、原因を作った使用人へ請求することとは別の――」
「責任とは、一時的に立て替えることなのかしら」
ヴァルターが言葉を止めた。
「……はい?」
「あなたが払った金貨百八十六枚は、結局あの女から取り立てたのでしょう?」
「それは、結果としてはそうなりますが――」
「なら、あなたは何を負ったの?」
返事はなかった。
アウレリアはしばらく待ったが、ヴァルターは何も答えない。
「コンラート」
「はい」
「受け取った金貨百八十六枚を返しなさい」
今度こそ、ヴァルターが目を見開いた。
「……お返しいただけるのですか?」
「ええ」
「しかし、あれは正当にお支払いした弁償金で――」
「いらないわ」
ヴァルターが言葉を止めた。
「私に嘘をつかせる気?」
「……そのようなつもりは」
「一緒よ。あの日私はあなたに責任を負わせたの。あの女ではないわ」
アウレリアは椅子の背へ身体を預けた。
「それであの女を買い戻しなさい。借金も消して、全部元に戻しなさい」
ヴァルターはしばらく何も言わなかった。
「……では、弁償は」
「あなたがするのよ」
「しかし――」
「あなたが責任を持つのでしょう?」
ヴァルターの口が閉じた。
「なら、あなたが弁償なさい」
◆◆◆
それから五日後。
「ヴァルター伯爵より、金貨百八十六枚が届いております」
「そう」
執務机に向かっていたアウレリアは、書類から顔を上げることなく答えた。
「先日お返ししたものとは別に、伯爵個人の財産から支払われたことも確認しております」
「ならいいわ」
「それから、例の給仕についても奴隷商から買い戻され、債務はすべて取り消されました。現在は伯爵家へ戻っているとのことです」
「そう」
アウレリアは一枚目の書類へ署名し、次の一枚を手に取った。
「なお、本人から閣下へお礼を申し上げたいとの申し出が届いております」
「お礼?」
思わず顔を上げる。
「何の?」
「奴隷身分から戻されたことについてかと」
「私に?」
「はい」
アウレリアは眉を寄せた。
「どうして?」
コンラートが僅かに黙った。
「閣下がヴァルター伯爵へ買い戻すよう命じられたからでは?」
「でも、買い戻したのはヴァルターでしょう?」
「……左様でございますね」
「なら、ヴァルターに言えばいいじゃない」
アウレリアは再び書類へ視線を落とした。
「断っておいて」
「承知いたしました」
コンラートが手元の書類へ何かを書き込む。
「それから、給仕本人の処分について、ヴァルター伯爵から確認が来ております」
「何の確認?」
「今回の件もございますので、処分を下してよいものか判断しかねているようでございます」
「好きにすればいいでしょう」
アウレリアは呆れたように答えた。
「それから」
「まだあるの?」
「仕立屋から例のお召し物が戻っております」
「直ったの?」
「それが――」
珍しく歯切れの悪い返事をするコンラートに連れられ、隣室へ向かうと、そこには一着のドレスが掛けられていた。
「あら」
象牙色だったはずの生地は、深い赤へと染め直されていた。
葡萄酒の染みを完全に抜くことができず、仕立屋が思い切って全体を染め直したらしい。元から施されていた金糸の刺繍は赤い生地の上で以前よりも鮮やかに浮かび上がり、縫い込まれた宝石もよく映えている。
悪くない。
アウレリアは近づき、生地へ指先で触れた。
染め直したことで手触りが損なわれた様子もない。
「……いいじゃない」
「お気に召しましたか」
「ええ」
アウレリアはしばらくドレスを眺めたあと、満足して頷いた。
「仕立屋に褒賞を」
「承知いたしました」
葡萄酒をかけられた時にはどうなることかと思ったが、戻ってきたドレスは実にいい色だった。




