第五話 続けなさい。
アウレリア・フォン・アイゼンマルクが晩餐会場へ足を踏み入れると、それまで広間を満たしていた賑やかな話し声が、ほんの僅かに小さくなった。
露骨に黙り込む者はいない。談笑を続けながら視線だけを逸らす者、手にした杯へ妙に熱心な顔を向ける者、こちらに気づかなかったふりをする者。皆、それなりに取り繕っているつもりらしい。
アウレリアは気にしなかった。
いつものことだ。
「アイゼンマルク辺境伯閣下。本日はようこそお越しくださいました」
主催者であるベルクマン伯爵が、よく整った笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
歓迎していないことがよく分かる笑顔だった。
「今宵もまた、随分と華やかでいらっしゃいますな。深紅のお召し物が、閣下の御髪によく映えておられます」
視線が、まとめ上げた赤髪から胸元の宝石、指先に並ぶ指輪へと流れていく。
「装身具も見事なものばかりで。これだけの品を一度に身につけられる方は、王都でもそうはおりますまい」
「晩餐会でしょう?」
アウレリアは怪訝そうに伯爵を見る。
「地味な格好で来る理由があるかしら?」
「……仰る通りでございます」
それだけ言うとアウレリアは案内された席へ着き、給仕が注いだ酒を一口含む。
悪くない。
注がれた酒は領内北部で造られた葡萄酒だった。香りも十分に立っているし、後味にも嫌な渋みがない。
今年のローゼンベルクには及ばない。
まして、先日出来上がったばかりのアーベントロートと比べれば、さすがに一段落ちる。
だが、晩餐会で出す酒としては十分だろう。
卓上へ目を移せば、川魚に山鳥、季節の果実、何種類ものチーズ。まだ前菜だというのに、見覚えのある領内各地の名産が惜しげもなく並べられている。
さすが私の領地。
品揃えがいい。
今宵は、アイゼンマルク領でも名の知れたベルクマン伯爵家が、毎年この時期に開いている晩餐会だった。
領内の有力貴族をはじめ、近隣からも少なくない客が招かれるため、領主であるアウレリアにも当然のように招待状が届く。
正直、欠席してもよかった。
実際ここ数年は何かと理由をつけて断っていたが、今年は来て正解だったかもしれない。
香草を詰めて焼いた山鳥は皮が薄く香ばしく、中には肉汁がきちんと残っている。添えられた根菜も火の通し方がちょうどよく、濃いソースにも負けていない。
素材だけではない。良い料理人を雇っているようだ。
あとで名前くらい聞いておこうか。
そう思いながらナイフを置いたところで、広間の一角から弦の音が響いた。
食事が進んだ頃合いを見て、楽団が演奏を始めたらしい。
アウレリアは何気なく耳を傾けた。
弦を中心に、笛を加えた小さな編成だった。
最初の曲は穏やかなものだったが、一人だけ目立とうと音を張る者もなく、それぞれの音が互いを邪魔せず綺麗に重なっている。
悪くない。
そのまま二曲目へ移ると、今度は低く柔らかな弦の音が静かに流れ始め、その上へ細い笛の旋律が重なった。
最初はどちらも控えめだったが、同じ旋律を繰り返すたびに別の弦が一つ、また一つと加わり、いつの間にか広間全体を包むような厚みのある音へ変わっていく。
派手さはない。
大きな音で耳を奪うでもなく、技巧を見せつけるでもない。
それなのに、一つの音が消える前に次の音が重なり、途切れることなく流れていく旋律は妙に耳に残った。
アウレリアは切り分けかけていた肉から、いつの間にか手を止めていた。
これはいい。
ベルクマンも、なかなか良いものを見つけたらしい。
どこを拠点にしているのか、誰に雇われているのかも後で聞いておこう。
ベルクマン家の専属でなければ話は早い。
専属だったとしても――まあ、その時はその時だ。
アウレリアは演奏へ耳を傾けたまま、満足げにワインの杯へ指を伸ばした。
その時だった。
広間の端から、鋭い悲鳴が上がった。
繊細に重なっていた旋律を切り裂くような声だった。
給仕の一人が、料理を載せた盆ごと床へ崩れ落ちる。皿が石床へ落ちて割れ、つい先ほどまで弦と笛だけが満たしていた広間へ、耳障りな陶器の音が響き渡った。
その背後から、一人の男が飛び出した。
給仕の服を着ている。
だが、その手に握られているのは料理ではなく、細身の短剣だった。
同時に、広間の反対側からも二人が立ち上がる。
男たちは一直線にアウレリアの方に向かった。
護衛たちが一斉に剣を抜き、貴族たちは椅子を蹴るように立ち上がった。誰かが卓へ身体をぶつけ、倒れた杯から赤い酒が白い卓布へ広がっていく。
逃げようとする貴族同士がぶつかり、給仕が料理を取り落とし、ほんの数秒前まで優雅だった広間は見る影もなく崩れていった。
それまで会場に低く流れていた音が揺らぎ、そこへ重なるはずだった音が一つ抜けた。
また一つ。
誰かが突然の乱入者へ目を奪われ、弓を止める。隣の奏者もそれにつられるように手を止めた。
広間を包んでいた音の厚みが、急速に失われていく。
やがて、音楽が止まった。
「閣下! お下がりください!」
音楽の代わりに護衛の声が会場に響く。
アウレリアは眉を寄せた。
一人の男が短剣を手に、もう目前まで迫っていた。
傍らの護衛が剣を抜き、男との間へ割って入ろうとする。
だがアウレリアは動かなかった。
手にしたワイングラスもそのままに、視線を楽団の方へ向けている。
先ほどまで滑らかに弓を動かしていた者たちは、今や楽器を抱えたまま身を強張らせている。指揮者も腕を下ろし、青ざめた顔でこちらを見ていた。
「気に入らないわね」
「閣下、すぐに片づけます!」
「何の話よ」
「……はい?」
アウレリアは楽団を見たまま、眉を寄せる。
「曲の途中でしょう?」
ちょうどその時、護衛の脇を抜けた男が短剣を振り上げて踏み込んできた。
しかしアウレリアはそちらへ視線を向けることすらなく、手にしていた杯を静かに卓上へ戻した。
刃が届くより早く、首元の宝石が淡く光る。
次の瞬間には男の身体が見えない何かに弾かれたように横へ飛び、数歩先の床へ転がっていた。
アウレリアは楽団を見ながら僅かに首を傾げた。
「何をしているの?」
「……閣下」
指揮者は青ざめた顔のままこちらを見ている。
本当に何をしているのだろう。
「まだ途中よ」
「何が、でしょうか」
「今の曲よ」
「で、ですが、そのーー」
指揮者の視線が、残る二人の乱入者へ向いた。
なるほど。あれを気にしているのか。
アウレリアはまるで埃でも払うかのように空中で軽く片手を振った。
次の瞬間、残っていた二人の身体が同時に跳ねた。
何かに殴られた様子すらない。ただ立っていた場所から突然横へ攫われ、途中にあった椅子を巻き込みながら数メートル先まで吹き飛んでいく。
ほとんど重なるように二つの衝撃音が響き、壁に掛けられていた燭台が大きく揺れた。
二人はそのまま壁を滑り落ちるように床へ崩れ、動かなくなった。
「これでいいわね」
アウレリアはなんでもないことのように言った。
「続けなさい」
指揮者はしばらく動かなかった。
三人の男が倒れ、護衛たちは未だ抜き身の剣を構えている。貴族たちは席を離れたまま、何が起きたのか理解できないような顔でアウレリアと倒れた男たちを交互に見ていた。
「まだ何かあるの?」
「……い、いえ!」
指揮者が慌てて楽団へ向き直り、震える腕を上げた。
奏者たちもようやく我に返ったらしい。ぎこちない手つきで楽器を構え、途切れた場所を探すように互いの顔を見合わせる。
やがて一本の弓が動いた。
低い弦の音が、恐る恐る広間へ戻ってくる。
そこへもう一つの弦が重なり、少し遅れて笛が続いた。先ほどまでの滑らかさには遠く及ばず、音には明らかな震えが混じっていたが、それでも失われていた旋律が少しずつ形を取り戻していく。
アウレリアは再びワイングラスを手に取った。
音楽は徐々に戻り始めている。しかしどうにも集中できない。
原因はすぐにわかった。
壁際へ逃げたまま戻ろうとしない者がいる。席へ戻った者も、音楽など耳に入っていないのか、落ち着きなく周囲を見回している。護衛たちは抜き身の剣を構えたまま広間中へ目を走らせ、給仕たちは割れた食器や倒れた椅子をどうしたものかと右往左往していた。
おまけに、あちらこちらから押し殺した話し声まで聞こえてくる。
これではせっかくの演奏も台無しだ。
アウレリアはワイングラスを置いた。
「あなたたち、いつまでそうしているの?」
声を掛けると、何人かがびくりと肩を揺らしたが、返事はない。
アウレリアは壁際に固まっている貴族たちへ視線を向けた。
「席へ戻りなさい」
「……閣下」
ベルクマン伯爵が恐る恐る歩み寄ってくる。
「まだ屋敷内に他の者が潜んでいる可能性もございます。まずは皆様を安全な場所へ移し、改めて屋敷内を――」
「嫌よ」
ベルクマンが言葉を止めた。
「……はい?」
「そんなことをしたら晩餐会が終わるでしょう?」
「ですが、安全の確認が――」
「必要なら勝手に確認なさい。晩餐会を止める必要はないわ」
「皆様も大変動揺されております」
「そうね」
だから気に入らないのだ。
アウレリアは会場を見回した。
「座りなさい」
一人が慌てて席へ戻った。
すると、それをきっかけにしたように他の者たちも動き始める。誰もがまだ周囲を警戒しながら、それでも逆らう方が面倒だと判断したらしい。
やがて、ほとんどの者が元の席へ戻った。
「それから、あれも」
転がっている三人へ視線を向ける。
「いつまで置いておくつもり?」
「直ちに拘束いたします」
「静かに運びなさい」
護衛が一瞬黙った。
「演奏中でしょう?」
「……はい」
ようやく人の動きが落ち着き始めた。
倒れた椅子が戻され、床へ散らばった食器も少しずつ片づけられていく。護衛たちは壁際へ下がり、残った者がいないか警戒を続けているようだが、少なくとも視界の中を慌ただしく行き来する者はいなくなった。
話し声も消えた。
広間を満たすのは、再び楽団の音だけになった。
最初こそまだ硬さの残っていた弦も、余計な物音が消えるにつれて少しずつ滑らかさを取り戻していく。笛もようやく伸びやかな音を響かせ始め、崩れていた旋律が、少しずつ先ほどの姿へ戻っていった。
アウレリアはワイングラスを傾けながら耳を澄ませる。
一つの弦に、もう一つの弦が重なり、そこへ笛が乗ってくる。
今度は途中で誰も立ち上がらない。話す者もいない。
やがて、あの気に入った旋律がもう一度、広間いっぱいに広がった。
これでいい。
アウレリアは満足して、ワインを一口含んだ。
◆◆◆
数日後。
「先日の晩餐会ですが」
「何?」
執務机に向かっていたアウレリアは、書類から顔を上げなかった。
「暗殺者が現れた直後、避難しようとした招待客を席へ戻し、そのまま演奏を続けさせたそうですね」
「ええ」
「……私は閣下のそういうところが本当に嫌いです」
「そう」
それで話は終わったつもりだった。
アウレリアは次の書類へ手を伸ばす。
その時、開け放たれた窓の向こうから、聞き覚えのある弦の音が流れてきた。
低く柔らかな旋律に、細い笛の音が重なる。
コンラートの視線が窓の外へ向いた。
「……ところで」
「何?」
「なぜ、ベルクマン伯爵家の楽団が庭で演奏しているのでしょうか」
アウレリアはようやく顔を上げた。
「買ったからよ」
「……いつの間に」
「昨日」
コンラートが黙った。
「気に入ったんだもの」
「左様でございますか」
何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
よく黙る男だ。
アウレリアは再び書類へ視線を落とす。
窓の向こうでは、弦の上へ笛が滑らかに重なり、あの日途中で途切れた旋律が朝の庭園を静かに満たしていた。
今度は悲鳴もない。割れる食器の音もない。
アウレリアはペンを走らせながら、その音へ耳を傾けた。
実にいい音色だった。




