第四話 作りなさい。
王都から届いた書状を読み終えたアウレリア・フォン・アイゼンマルクは、眉をひそめた。
「......気に入らないわ」
執務机の向かいに立つコンラートが、僅かに視線を上げた。
「何がでございますか?」
「これよ」
アウレリアは手にしていた書状を机に放った。
厚手の紙には王家の紋章が刻まれ、その下には国王の名において発せられた命令が記されている。
内容そのものは、そう難しいものではない。
二月後、王宮で大規模な祝宴が催される。
その席で振る舞うため、近頃王都でも評判となっているアイゼンマルク産の上等な葡萄酒を、一定量送るように、と。
ただそれだけだ。
「王命がお気に召しませんか」
「違うわ」
「では何が?」
「ローゼンベルクを持っていかれるのが気に入らないの」
ローゼンベルク。
アイゼンマルク領西部、同名の土地で古くから造られている赤葡萄酒である。
元々、領内では名の知られた酒だったが、今年のものは特に出来がいい。
春から夏にかけて天候に恵まれ、収穫された葡萄の質が例年になく高かったらしい。
先月、最も出来のいい樽から一本開けさせて試飲したが、実に良かった。
香りがいい、口当たりもいい。
余計な酸味も渋みもなく、それでいて飲み込んだあとには柔らかな余韻が長く残る。
間違いなくここ数年で飲んだ、どの葡萄酒の中でも一番の品だった。
だから残りは全て自分用に取っておくよう命じてある。
「王命には、ローゼンベルクを送れとは記されておりませんが」
「そうね」
「でしたら、他の酒を選ばれては?」
「ローゼンベルクに見劣りしない品がある?」
「……いいえ」
「なら駄目じゃない」
「駄目、でございますか」
「私の領地から陛下へ送るのよ」
アウレリアは怪訝そうにコンラートを見る。
「ローゼンベルクより劣るものを送って、あれがアイゼンマルクの酒だと思われたら嫌でしょう?」
「それでしたら、ローゼンベルクをお送りすればよろしいのでは」
「それも嫌よ」
コンラートが黙った。
「何?」
「いえ」
コンラートは机上の書状へ目を落とした。
「良いものを陛下へ送りたい。しかし、その良いものであるローゼンベルクは送りたくない」
「そうよ」
「……左様でございますか」
この男は何を今さら確認しているのだろうか。
辺境伯として国境防衛から領内統治まで広い裁量を認められているとはいえ、アウレリアとて王国の臣下である。
国王が正式に命じた以上、葡萄酒が惜しいなどという理由で拒絶するわけにはいかない。
だが、だからといって楽しみにしていた酒を諦める理由もない。
とはいえ中途半端な品を送って、アイゼンマルク領の酒はこの程度かと思われるのは、もっと気に入らない。
「他にないのなら――」
そうね、簡単なことだわ。
「コンラート」
「はい」
「作りなさい」
コンラートが困惑した顔でこちらを見る。
「……葡萄酒を、でございますか」
「他に何があるのよ」
「今から、ローゼンベルクに見劣りしないものを?」
「ええ」
「閣下」
コンラートが小さく息を吐いた。
「酒は、欲しいと仰ってすぐに出来上がるものではございません」
「知ってるわ」
「では――」
「ヨハンを呼びなさい」
「……承知いたしました」
◆◆◆
ヨハン・ケラーが辺境伯邸を訪れたのは、その日の夕刻だった。
ヨハンは五十をいくらか過ぎた男である。三十年以上酒造りに携わり、十数年前から領内最大の酒蔵を任されている。
何度か褒賞を与えたこともあり、アウレリアもよく知っていた。
腕は確かだ。
応接室のテーブルには、一本のローゼンベルクが置かれている。
「これと同じくらい美味しいものを作りなさい」
ヨハンは酒瓶を見た。
「……同じくらい、でございますか」
「ええ」
「今年のローゼンベルクでございますよ」
「見れば分かるわ」
「今年のものは、近年でも特に良い出来でございます」
「それも知ってる」
「では、なぜ」
「陛下へ酒を送ることになったの」
ヨハンの顔が僅かに明るくなった。
「それは――まことに光栄なことでございます」
「そうね」
自分の領地で造られた酒が王宮の祝宴に並ぶ。それはアウレリアにとっても悪い話ではない。
「でもこれは私が飲むの」
ヨハンの表情が止まった。
「……はい?」
「だから、ローゼンベルクは私が飲むのよ」
「……」
「陛下には別のものを送るわ。だから、作りなさい」
ヨハンはしばらく何も言わなかった。それからゆっくりとコンラートを見たが、コンラートは諦めたような表情で何も言わない。
「閣下。今年のローゼンベルクは、葡萄の出来、収穫の時期、樽との相性――いくつもの条件が上手く重なって出来たものでございます」
「そう」
「……それと同等の品を作れとは、簡単に仰いますな」
「簡単だとは言ってないわ」
アウレリアは椅子の背へ身体を預ける。
「だからあなたを呼んだのよ。できるの? できないの?」
ヨハンはすぐには答えなかった。
無言でローゼンベルクの瓶を見つめながら、腕を組んで考え込む。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「......やってみます」
「そう、よかったわ。じゃあ二十日で仕上げてちょうだい」
「二十日でございますか!?」
「ええ」
「二十日で出来るようなものでは――」
「人手を増やせばいいの? それとも材料?」
ヨハンはすぐには答えなかった。
「そう単純な話ではございません」
「なら説明しなさい」
ヨハンはテーブルの上に置かれたローゼンベルクへ視線を落とす。
やがて酒瓶へ手を伸ばすと、窓から差し込む光に透かすように僅かに傾けた。
深い赤色が、ゆっくりと瓶の中で揺れる。
「領内の酒蔵に残っている原酒を、可能な限り確認する必要があります」
「ならすべて確認しなさい」
アウレリアが即答すると、ヨハンは酒瓶を元の位置へ戻した。
「樽もです。木の種類や使われた年数によって香りが変わります」
「好きなものを使いなさい」
「職人も、私の方で選ばせていただきたい」
「いいわ、好きになさい」
ヨハンが僅かに顔を上げた。
何か言うかと思ったが、そのまま再び考え込む。
「他には?」
アウレリアが促す。
「……他領から取り寄せたい原酒がございます」
「買いなさい」
「かなり高価なものになります」
「それで?」
ヨハンの動きが止まった。
「必要なのでしょう?」
「……はい」
「なら買いなさい」
高いからといって必要なものを使わず、そのせいでローゼンベルクより劣る酒が出来上がったのでは意味がない。
ヨハンは一つ息を吐いた。
「二十日。やってみましょう」
「最初からそう言えばいいのよ」
ヨハンが僅かに眉を寄せた。
何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
◆◆◆
六日目。最初の試作品が届いた。
ヨハンが応接室へ持ち込んだのは、銘のない一本の酒瓶だった。栓が抜かれ、グラスへ深い赤色の酒が注がれる。
アウレリアは差し出されたグラスを手に取り、香りを確かめてから一口含んだ。
「……悪くないわね」
向かいに立つヨハンは何も言わない。
十分に美味しい。王宮の祝宴に出したところで、大きく見劣りするような酒ではないだろう。
だが。
「ローゼンベルクには届かないわ」
「はい」
ヨハン自身も分かっているらしく、返事はすぐに返ってきた。
「次は?」
「すでに取りかかっております」
「続けなさい」
「承知いたしました」
◆◆◆
それからも数日おきに、ヨハンは新しい試作品を持って辺境伯邸を訪れた。
回を重ねるごとに味は確実に良くなっていた。香りも、口当たりも、最初に持ち込まれたものとは比べものにならないほど洗練されていく。
それでも、ローゼンベルクと飲み比べれば、まだ僅かに及ばない。
ヨハンも同じことを感じているらしく、アウレリアがそう告げても反論することはなかった。ただ味についていくつか尋ね、それを聞き終えると、すぐに次の試作へ取りかかるため酒蔵へ戻っていく。
そうして何度目かの試飲を終える頃には、二十日という期限も目前まで迫っていた。
◆◆◆
二十日目。
ヨハンは一本の酒瓶を手に、再び辺境伯邸を訪れた。
細い瓶口から、深い赤色の酒がゆっくりと注がれる。
窓から差し込む夕暮れの光が硝子を通り、赤い酒の中へ溶け込んでいく。揺れる液面の縁だけが僅かに明るく染まり、まるで夕焼けをそのまま閉じ込めたようにも見えた。
アウレリアは差し出されたグラスを手に取り、香りを確かめてから一口含んだ。
舌に乗せた瞬間、果実の甘みが広がり、そのあとを追うように僅かな酸味と渋みが重なる。どれか一つだけが前へ出ることもなく、飲み込む頃には綺麗にまとまっていた。
そして、消えない。
喉を通ったあとにも香りと味が柔らかく残り、次の一口を邪魔しないまま、ゆっくりと薄れていく。
アウレリアは何も言わず、もう一口飲んだ。
向かいに立つヨハンは何も言わず、その様子を見つめている。コンラートも黙ったままで、しばらく部屋の中に沈黙が流れた。
アウレリアは手元のグラスへ視線を落とした。
「……コンラート」
「はい」
「ローゼンベルクを」
コンラートが壁際の卓に用意されていた瓶を取り、別のグラスへ注いでアウレリアに渡した。
アウレリアはそれを受け取り、先ほどと同じように香りを確かめてから口に含む。舌の上でしばらく味を確かめ、ゆっくりと飲み込んだあと、グラスをテーブルへ戻した。
余韻が消えるのを待ってから、新しい酒へ手を伸ばし、再び口に含む。
間違いない。
「ローゼンベルクより美味しいわ」
ヨハンの顔に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。その声には、はっきりとした喜びが滲んでいた。
「では、こちらを王都へ――」
「嫌よ」
ヨハンの顔が上がった。
「……はい?」
「これは私が飲むわ」
先ほどまで浮かんでいた笑みが、綺麗に消えた。
「……では、陛下には?」
「ローゼンベルクを送るわ」
ヨハンは何も言わなかった。
代わりにコンラートが、確認するように口を開く。
「よろしいのでございますか?」
「何が?」
「ローゼンベルクを手元に残されるために、こちらを造らせたのでは?」
「そうよ」
「では、なぜローゼンベルクを?」
この男は何を聞いているのだろう。
「こっちの方が美味しいじゃない」
ローゼンベルクを手元に残したかったのは、あれが一番美味しかったからだ。だが、今はもっと美味しいものがある。
ならば話は簡単だ。
「陛下にはローゼンベルクを。私はこっちを飲むわ」
「左様でございますか」
「ええ」
それまで黙っていたヨハンが、ようやく口を開いた。
「……閣下」
「何?」
「それでは、我々のこの二十日は……」
「何よ?」
ヨハンが黙った。
「これができたでしょう?」
アウレリアは手元のグラスを僅かに持ち上げる。
ヨハンの視線が、その中で揺れる赤い酒へ落ちた。
「ローゼンベルクより美味しい酒を作ったのよ。何が不満なの?」
「……いえ」
ヨハンはしばらく酒を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「何もございません」
「でしょう?」
アウレリアは満足して、もう一口飲んだ。
「これ、名前は?」
「名前、でございますか」
「ええ。いつまでも『これ』では不便でしょう?」
「まだございません。試作品として造っておりましたので」
「そう」
アウレリアは手元のグラスへ目を落とした。
窓の外から赤く染まった光がグラスを通り、深い赤色の酒の中で揺れている。
ヨハンが静かに口を開いた。
「……アーベントロート」
アウレリアがヨハンを見る。
「今思いつきました。この酒の名でございます」
「悪くないわね」
「ありがとうございます」
アウレリアはその名を頭の中でもう一度転がしてから、グラスを口元へ運んだ。
アーベントロート。確かに、この酒にはよく似合っている。
「ヨハン」
「はい」
「褒賞を与えるわ」
ヨハンが僅かに目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「コンラート」
「手配いたします」
「一緒に作った職人たちにも」
「承知いたしました」
顔を上げたヨハンの口元には、先ほどとは違う穏やかな笑みが浮かんでいた。
提示した二十日という期限を守っただけでなく、ローゼンベルクを超える品を作った。
それならば褒賞を与えるだけの価値はある。
アウレリアはもう一度アーベントロートを口に含んだ。
やはり美味しい。
そこで、ふとテーブルの上の酒瓶へ目を向けた。
先ほどから何度か注いだせいで、中身はすでにそれなりに減っている。
「それでヨハン、これはあとどれくらいあるの?」
「……こちらの一本だけでございます」
「これだけ?」
「試作品でございますので」
それでは困る。
「作りなさい」
ヨハンが黙った。
「……閣下」
「何?」
ヨハンは一度口を開きかけ、それから閉じた。何かを言うべきか迷うように僅かに視線を逸らしたあと、ようやく口を開く。
「職人たちを、少し休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「休み?」
改めて見れば、ヨハンの目の下には薄く隈が浮かんでいる。
最初にここへ呼んだ時にはきちんと整えられていた髪も、今日は僅かに乱れていた。
二十日間、随分と根を詰めていたらしい。
「何日?」
「五日ほどいただければ」
「いいわ。五日休みなさい」
「ありがとうございます」
「六日目からすぐに作りなさい」
「……承知いたしました」
ヨハンの声に、先ほどまでの喜びはもうなかった。
「今度はこれだけでは足りないわ」
「どの程度をご用意すればよろしいでしょうか」
「作れるだけ作りなさい」
「…………」
「何?」
「いえ」
ヨハンは小さく息を吐いた。
「承知いたしました」
「期待してるわ」
深く一礼すると、ヨハンは部屋を出ていった。
扉が閉まり、応接室に静けさが戻ると、アウレリアは椅子の背へ身体を預けながら、再びアーベントロートの入ったグラスを手に取った。
今年のローゼンベルクは間違いなく逸品であり、王宮の祝宴に並べても何一つ恥ずかしくない。
それを送れば王命にもきちんと従えるし、アイゼンマルクの酒がこの程度かと思われる心配もない。そして自分の手元には、それより美味しいアーベントロートが残る。
アウレリアは夕暮れを映した赤い酒をもう一度口に含み、その味をゆっくりと楽しんだ。
実に良い酒だった。




