第三話 出ていきなさい。
「気に入らないわ」
手元の書類を眺めながらそう言うと、向かいの机で別の書類を整理していたコンラートが顔を上げた。
「何がでございますか」
「これよ」
アウレリアは一枚を抜き出し、机の上へ置いた。
領内の商人達の今月の東方交易報告をまとめた書類だ。
穀物、塩、干し肉、油、革、農具、馬。
そのどれもがここ数週間で大きく取引量を伸ばしている。
「好調でございますね」
「そうね」
「どの商会からも、今年一番の商機だと報告が上がっております」
その言葉を聞いても、アウレリアの眉間の皺は消えなかった。
「これらの品目と各商会の過去三年分の取引量を見せて」
「承知いたしました」
コンラートは迷うことなく棚に向かうと、次々と必要な書類を取り出していく。
本当に便利な男だ。よくもまぁ壁を埋め尽くす書棚の中から迷いもせずに必要な書類を集められるものだ。
コンラートから渡された書類と今年の報告書を見比べ、あまりの数字にため息が出る。
穀物は三倍。塩も三倍。
農具に至っては十倍近い。馬の取引量も、昨年とは比べものにならないほど増えている。
「気に入らないわ」
「先ほども伺いました」
「コンラート」
「はい」
「商会の代表を呼びなさい」
「どの商会でしょうか」
アウレリアは報告書から目を離し、紅茶に手を伸ばした。
立ちのぼる湯気に、柑橘を思わせる爽やかな香りが混じる。一口含めば、ほどよい渋みと華やかな香りが舌の上に残った。
しかし気分は一向に良くならない。
「この報告書を出してきた全ての商会よ」
「……全て、でございますか」
「ええ」
「お呼びして、何をなさるおつもりで?」
何を? そんなもの決まっている。
アウレリアはもう一口紅茶を含んだ。
「出ていってもらうのよ」
◆◆◆
その日の午後。辺境伯邸の応接室には、東方交易に関わる主だった商会の主人たちが集められていた。
扉の内側からは、急に呼び出された理由を口々に予想している声が聞こえる。
アウレリアが扉を開けると、それまで聞こえていた話し声がぴたりと止んだ。
随分と困惑しているらしい。
まあ、当然だろう。用件など告げず、突然呼びつけたのだから。
「閣下。本日は――」
最前列にいた年嵩の商人が代表して口を開いた。
だが、長々と挨拶を聞くつもりはない。
「出ていきなさい」
アウレリアは部屋に入るなり、開口一番そう言い放った。
商人たちは揃って間の抜けた顔でこちらを見ていたが、先ほどの商人が困惑した様子で口を開いた。
「……部屋から、でございましょうか」
何を言っているのだ、この男は。
「私の領地からに決まっているでしょう」
しん、と室内が静まり返った。
誰も口を開かない。
先ほどまで間の抜けた顔をしていた商人たちは、今度は揃って目を見開いている。
「……はい?」
随分と間を置いて、誰かが声を漏らした。
「聞こえなかったかしら?」
「い、いえ。ですが――」
年嵩の商人が慌てたように言葉を継ぐ。
「なぜ、我々が領地を出なければならないのでしょうか」
「今年は随分と稼いだようね」
「え、えぇ、東からの注文が多くーー」
「だからよ」
「……はい?」
アウレリアは小さく息を吐くと、椅子へ腰を下ろした。
「東への商売が気に入らないの。だから出ていきなさい」
「お、お待ちください!」
すぐに声が上がった。
「いきなりそのようなことを言われましても、我々には店も倉庫もございます!」
「そうね」
「従業員もおります。家族もおります。それを捨てて領地を出ろなど――」
「捨てろとは言っていないわ。全て持っていけばいいじゃない」
「簡単にできるはずがございません!」
随分と文句を言うものだ。出ていくのに十分な稼ぎはあっただろうに。
「なら、東との取引をやめなさい」
「……はい?」
「領地を出るのが嫌なのでしょう?」
「それは、もちろんですが……」
「なら残ればいいじゃない」
アウレリアは何でもないことのように言った。
「その代わり、東へ売るのをやめなさい」
すぐに返事はなかった。
商人たちは互いの顔を見合わせている。眉を寄せる者。隣の者へ何か囁く者。口を開きかけては閉じる者。
中には露骨に顔を青ざめさせている者までいた。
アウレリアはその様子を眺めながら、紅茶を一口含んだ。
しばらくすると抑えきれなくなったように、あちらこちらから小さな声が上がり始める。
「東との取引をすべて……?」
「しかし、既に契約が」
「仕入れた分はどうする」
「今さら止められるわけが……」
やがて年嵩の商人が一歩前に出た。
「……閣下」
「何?」
「我々は何一つ、法に反する取引をしておりません」
「知ってるわ」
「禁制品を扱っているわけでもございません。代金の支払いにも問題はございません」
「それも知ってるわ」
「ならば、なぜ取引をやめなければならないのです!」
「だから言ったじゃない。気に入らないからよ」
商人の口が半ば開いたまま止まった。
「……それだけ、でございますか」
「ええ」
「我々に、これほどの損害を出させてまで?」
「そうね」
年嵩の商人の表情が険しくなる。
「閣下。この取引のために、我々は既に大量の商品を仕入れております」
「でしょうね」
「契約も済んでおります。今になって一方的に取りやめれば、違約金を求められる者も出るでしょう」
「払えばいいじゃない」
「……我々が、ですか?」
アウレリアは眉をひそめた。
「あなたたちの契約でしょう?」
何を当たり前のことを聞いているのだろう。
「それだけではございません!」
今度は別の商人が声を上げた。
「この交易で利益を得ているのは、我々商会だけではないのです。農家も、牧場も、荷運びも、倉庫を貸している者もおります」
「そう」
「東からの注文が増えたことで、生産を増やした者もいるのです。それを今になって止めろなど――」
「それで?」
男が言葉を止めた。
「儲かっているのは分かったわ」
アウレリアはカップをソーサーへ戻した。
「だから言ってるでしょう。その商売を続けたいならアイゼンマルク領を出て他でやりなさい。それが嫌ならやめなさい、と」
「……横暴です!」
ついに、一人が声を荒らげた。
アウレリアは僅かに眉を上げる。
「そうね、よく言われるわ」
「……」
あまりにもあっさりと認められ、男は言葉を失った。他の商人たちからも、もう先ほどまでのような声は上がらない。
険しい顔でこちらを見る者もいれば、何か言いたげに唇を噛む者もいる。
それでも、誰も口を開かなかった。
ようやく話が終わったらしい。
アウレリアは残っていた紅茶を飲み干した。
「話は終わりね。三日後までに決めなさい」
「三日……」
「十分でしょう?」
そう言うとアウレリアは席を立った。
肩へ落ちてきた赤髪を指先で払い、深紅のドレスの裾を揺らして扉へ向かう。
背後から声をかけてくる者はいなかった。
◆◆◆
三日後。
コンラートは朝から機嫌が悪かった。
もっとも、声を荒らげるわけでも、露骨に顔をしかめるわけでもない。いつも通り背筋を伸ばし、いつも通り淡々と書類を読み上げている。
ただ、書類を机へ置く音が、いつもより少しだけ硬い。
十二年も傍に置いていれば、それくらいは分かる。
アウレリアは気にせずに、執務机に積まれた書類を一枚ずつ確認した。
東方交易の停止、契約の破棄、倉庫に残された大量の在庫。
あれだけ騒いでいた割には、大半の商会がアイゼンマルクに残ることを選んだらしい。
当然だろう。
長年かけて築いた店も、倉庫も、人脈もある。それらを捨てて一から他領で商売を始めるより、東との取引を諦める方がまだましだと判断したようだ。
もっとも、残ったのは全員ではないが。
「三つね」
「はい」
コンラートが答える。
「三商会が領外への移転を選択しております。既に倉庫の整理を始めているとのことです」
「そう」
「他は?」
「東方との新規取引を停止。既存契約についても、順次破棄の手続きを進めております」
「ならいいわ」
次の書類へ手を伸ばす。
「それから――」
「何?」
「随分と評判が悪いようでございます」
アウレリアの手は止まらなかった。
「でしょうね」
「商人だけではございません。荷運び、倉庫業者、農家、牧場からも不満が出ております」
「そう」
「せっかく景気が良くなっていたところを、領主の気分一つで潰された、と」
「間違ってないわね」
コンラートが黙った。
表情には出さなかったが、書類を持つ指先に僅かに力が入っている。
どうやらまた機嫌が悪くなったらしい。
「それで、東への流出は?」
「……ほぼ止まっております」
「ならいいわ」
それで十分だ。
商人がいくら損をしたのか。領民がどれだけ自分を悪く言っているのかなど、どうでもいい。
そんなことより、今は東へ流れていく物資が止まったことの方が重要だ。
アウレリアは次の書類を手に取った。
◆◆◆
それから八日後。
「閣下!」
珍しく慌てているコンラートの声が部屋に響いた。あまりの剣幕に書類へ署名していたアウレリアは思わず顔を上げた。
扉の前に立つコンラートは僅かに息を乱していた。
「何よ?」
「隣国で内戦が始まりました」
「あぁ、そう」
なんだ、その話か。
アウレリアは再び書類へ視線を落とし、止めていたペンを走らせる。
「東部三州の諸侯が一斉に兵を挙げました。既に王軍との間で戦闘が始まっております」
「でしょうね」
署名を終え、次の書類へ手を伸ばす。
「他には?」
「……ございません」
「なら戻っていいわよ」
返事はなかった。
次の書類へ目を通し始めても、コンラートが立ち去る気配はない。
何なのだろう。
アウレリアは仕方なく顔を上げた。
「閣下」
「何?」
「ご存じだったのですか」
「何を?」
「内戦が起きることを、です」
「ええ」
コンラートの眉が僅かに動いた。
「いつからですか」
いつからって。
「あの交易報告書を見た時よ」
「……あれだけで?」
アウレリアは僅かに眉を寄せた。
「あれだけ? 穀物、塩、干し肉、油、革、農具、馬――十分でしょう?」
コンラートが黙った。
どうやら、それだけで伝わったらしい。
「では、先日の東方交易の件は――」
「そういうことよ」
「内戦を止めるために?」
「そんなわけないでしょう」
何を言い出すのか。
「どうして私が隣国の内戦を止めるのよ」
王軍が勝とうが、諸侯が勝とうが知ったことではない。
「私が何もしなくても、勝手に敵国が弱っていくのよ?」
「……では、なぜ?」
「何度も言ったじゃない。気に入らないからよ」
「何がお気に召さなかったのですか」
「私の領地を兵站基地にしているのが、よ」
アウレリアはペンを机へ置いた。
「勝手に争うだけなら好きにすればいいわ。でも、そのための食料も馬も、私の領地から運ぶつもりだったのでしょう?」
「……なるほど」
それだけ言えば十分だったらしい。
コンラートはしばらく考えるように目を伏せたあと、小さく頷いた。
「王軍から見れば、我々も東部諸侯への補給に加担していることになる、と」
「そういうこと」
さすがに話が早い。
「商隊を襲われても困るし、国境を荒らされても困るわ。そうなれば、こちらも兵を出さなければならなくなるでしょう?」
「左様でございますね」
「それじゃあ、高みの見物ができないわ」
コンラートがまた黙った。
何かおかしなことを言っただろうか。
「……ちなみに」
「何?」
「東部諸侯では、既に兵站に遅れが生じているとのことです」
「でしょうね」
「特に食料と軍馬が不足していると」
「当然よ」
あれだけこちらから買い集めていたのだ。
突然止まれば、そうもなるだろう。
「アイゼンマルクからの供給停止が、相当影響しているものと思われます」
「結構なことね」
アウレリアは再びペンを取った。
「商人たちには、このことをお伝えになりますか?」
「何を?」
「先日のご決定の理由です」
アウレリアは眉を上げた。
「どうして?」
「……閣下への不満は、今も相当なものですので」
「知ってるわ」
「事情を知れば、多少は見方も変わるかと」
「変える必要があるの?」
コンラートが言葉に詰まった。
「気に入らないから商売を止めた。商人たちは損をした。従わないなら領地から出ていけと言った」
一つずつ数える。
「全部、本当でしょう?」
「……左様でございます」
「なら、何を説明するのよ」
コンラートが黙った。
「ですが、事情を知れば――」
「やめなさい。みっともない」
「……みっともない、ですか」
「領民に言い訳して回るつもり?」
「言い訳というわけではございませんが」
「同じよ」
アウレリアは書類へ視線を戻した。
「この件は終わり」
「……承知いたしました」
「他には?」
コンラートが次の書類を開き、何事もなかったかのように報告を再開する。
東では、こちらが何をせずとも敵国が勝手に国力を削り、こちらは巻き込まれずに敵だけが弱る。
アウレリアは書類へ署名した。
実に結構なことだった。




