第十一話 見せてくださいな。(後)
東の空がまだ薄青く染まり始めたばかりの頃、国境沿いの見張り台で鐘が鳴った。
「来たぞ! 鐘を鳴らせ! 全砦へ伝令!」
ベルンハルトの怒声が響いた。
「入ってきた奴から順番に叩き返せ!」
◆◆◆
国境を越えたという急報が、昼前の王宮へ届いた。
エドアルトの執務室には朝から軍務官や文官が出入りを繰り返し、机の上には届いたばかりの書状が次々と積まれていた。
地図の上でも、昨日まで国境線の向こう側に並んでいた駒が、今ではいくつも赤い線を越えている。
「第三砦方面、約八千。第二砦方面にも四千が侵入。南東では騎兵部隊が国境を越えました」
「中央軍は」
「先遣隊が東部街道を進軍中です。到着は早くても明日になります」
「騎兵を先に入れろ。替え馬は街道沿いの領主に出させればいい」
「承知いたしました。歩兵は予定どおり進ませます」
軍務官がすぐに隣の文官へ指示を飛ばす。
別の扉から新たな伝令が入り、封を切った書状が机へ置かれた。
今度は第二砦からだった。敵軍の一部が街道を外れ、北の丘陵へ回り込み始めているという。
エドアルトは地図へ身を乗り出した。
届いている報告では、第三砦でアイゼンマルク軍の主力が敵先鋒を受け止め、第二砦方面も増援を入れながら街道を維持している。
南東では騎兵三百が敵騎兵の進入を抑えていた。
ただし、それぞれ書かれた時刻が違う。
地図に置かれた駒はもう、今はそこにいない。
「周辺諸侯の兵は」
「二家が本日中に出発します。残りも準備中です」
「遅い。準備が終わった部隊から順に出させろ」
「はっ」
エドアルトは机の端に積まれていた書状を一枚取り上げる。
国境沿いの村では退避が済み、いくつかの街道が軍専用に切り替えられたという。砦の備蓄にも、今のところ不足はない。
「……退避はもう済んだのか」
「はい。辺境伯が王都へ向かう前から準備を進めていたようです」
軍務官が答える。
エドアルトは僅かに眉を寄せたが、すぐに次の書状へ手を伸ばした。
「中央軍の追加二千も準備させろ」
「承知いたしました」
部屋の中を人が行き交い、書状が運び込まれ、命令を書き写した文官が次々と外へ出ていく。
昼を過ぎても状況は止まらなかった。
第三砦前面では戦闘が続いている。
第二砦北側でも交戦。
南東方面では敵騎兵が一度後退。
その一方で、国境の向こうからはさらに新しい部隊が接近している。
「まだ来るのか」
思わず漏れた声に、誰も答えなかった。
エドアルトは地図へ視線を落としたまま、次の報告を待った。
◆◆◆
アウレリアは応接室の長椅子に座り、王都で買った指輪を眺めていた。
青い石の奥に金色が混じる。
やはり悪くない。
「閣下」
扉が開き、コンラートが入ってくる。
「何?」
「国境を越えました」
アウレリアは指輪から視線を上げた。
「第三砦方面に八千。第二砦方面に四千。南東でも戦闘が始まっております」
「そう」
「中央軍も向かっているそうです」
「殿下も頑張っているのね」
アウレリアは再び指輪へ視線を戻した。
「少し緩いわね」
「宝石商へ戻しますか?」
「そうして」
「承知いたしました」
指輪を外して箱へ戻すと、コンラートが受け取った。
「夕食にしましょうか」
アウレリアは立ち上がった。
◆◆◆
それから二日。
王宮へ届く報告は、ほとんど途切れなくなっていた。
朝に届いた書状を読み終えるより先に次の伝令が入り、机の上には開封された書状が幾重にも重なっていた。
文官が書状の日付と時刻を確かめ、古い報告を脇へよける。
そのたびに、地図の駒が動く。
第三砦正面では敵軍の一部が後退し、その直後に北東へ向かう別働隊が確認された。
第二砦北側では、前の報告で六百ほどだった部隊が後続と合流していた。
南東では一度押し返した騎兵に加え、別の部隊まで国境を越えている。
「北東の部隊、千五百まで増えています!」
「南東より続報! 新たに侵入した敵騎兵およそ五百、東へ転進!」
「第三砦前面、敵主力の一部が後退を開始!」
エドアルトが手を上げる。
「先に北東だ。千五百はどこへ向かっている」
「この報告では、西へ進路を取っています」
「西?」
「はい。ただ――」
「殿下、第二砦より!」
言葉の途中で別の伝令が入る。
新しい書状が机へ置かれ、軍務官が封を切る。
北東の部隊について尋ねかけたまま、エドアルトはそちらへ顔を向けた。
「第二砦北側で敵部隊と交戦。中央軍先遣隊の一部が迎撃に入っています」
「南東はどうなった」
「斥候が追跡中です」
「第三砦から下がった部隊は」
「進路確認中です」
エドアルトは北東の駒へ視線を戻した。
千五百は、西へ向かっている。
第二砦を狙うのか。
それなら先遣隊を厚くするべきだが、第三砦から下がった部隊までこちらへ来るとは限らない。
南東の騎兵も、放っておいてよいのかも分からない。
「殿下、中央軍主力は第三砦へ向かわせるままでよろしいでしょうか」
「……ちょっと待ってくれ」
地図へ伸ばしかけた手を止める。
第三砦に集めるか、第二砦へ分けるか。
だが南東に備える兵も要る。
「第三砦へ向かっている主力から――」
「殿下!」
また扉が開いた。
「第三砦より追加報告です。前面から後退した敵部隊、第二砦北方へ向けて進路を変更した模様!」
エドアルトの視線が地図の北側へ移る。
そこには、すでに千五百まで増えた別働隊の駒がある。
合流するのか。それとも、この二隊も別々に動くのか。
先ほど脇へ置いた書状を引き寄せる。
兵の数を比べようとして、どちらが先の報告だったか分からなくなった。
『実際に国境を守るのは私です』
数日前の声が蘇り、エドアルトの眉間に皺が寄った。
あの時は、だから何だと思った。
『その国が今日も変わらぬ形でいられるのは、誰のおかげだとお思いです?』
『……お前が守っているとでも言いたいのか』
『ええ』
迷いなく答えた顔まで、妙にはっきりと思い出せた。
「殿下、南東より――」
「待てと言っている!」
声が部屋に響いた。
伝令がその場で止まり、書類を持っていた文官たちまで動きを止める。
一瞬だけ、部屋が静かになった。
エドアルトは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……続けろ」
「南東で侵入した敵騎兵は、国境側へ戻るように東へ進んだとのことです。アイゼンマルク側の斥候が追跡しております」
「目的は」
「まだ」
戻るのなら、なぜ入ってきた。追わせたいのか。
しばらく何も言わず地図を見つめたあと、低く口を開く。
「……辺境伯は今どこにいる」
「王都邸かと」
分かっている。
自分がそこへ留めたのだ。
「……呼べ。今すぐ来させろ」
エドアルトは地図から目を離さなかった。
◆◆◆
「王太子殿下がお呼びです」
「そう」
アウレリアは読んでいた本を閉じた。
昼食を終えてから、特にすることもなく応接室で過ごしていたところだ。
「すぐに、とのことでございます」
アウレリアは立ち上がり、傍らにいたコンラートへ本を渡した。
「行きましょうか」
「承知いたしました」
◆◆◆
数日前と同じ部屋だった。
だが、扉を開いた瞬間に見えた光景は、随分と違っている。
机の上には書類が積み上がり、壁際にもいくつもの地図が広げられていた。文官が何人も出入りし、そのたびに書状が持ち込まれ、軍務官たちは中央の大きな地図を囲んでいる。
その向こうにエドアルトがいた。
「来たか」
「お呼びでしたので」
「こっちへ来い」
アウレリアは何も言わず、長机の前まで歩いた。
地図の上には、以前ここへ来た時とは比べものにならないほど多くの駒が置かれている。
第三砦、第二砦、その北側、南東街道。
中央軍を示す駒も加わり、その周囲には書き込みの入った書状が何枚も重ねられていた。
アウレリアが駒へ視線を落とすと、エドアルトは机上の書状を手に取った。
「第三砦前面より後退した敵部隊が、第二砦北方へ向かっている。北側の別働隊は千五百。南東では新たに侵入した騎兵五百が東へ進んだあと、北へ進路を変えた」
続けて、別の駒へ指を移す。
「中央軍の先遣隊は第二砦へ。主力は第三砦へ向かわせている。ベルンハルト将軍は第三砦だ」
エドアルトは書状を地図の脇へ戻し、別の一枚へ手を伸ばしかけた。
だが、それには触れず、机の端を握った。
「…………分からない」
やがて、低い声がした。
アウレリアが顔を上げる。
「何がでしょう」
「向こうが何を狙っているのか」
エドアルトは地図を見たまま言った。
「兵をどこへ回すか考えているうちに、別の報告が届く。ここから命令を出しても、それが届く頃にはまた変わっているだろう。敵の狙いも掴めなければ、どこを優先すべきかも判断がつかない」
アウレリアは続きを待った。
やがて、エドアルトが地図から顔を上げる。
「アイゼンマルク辺境伯」
「はい」
「……お前なら、どうする」
アウレリアは瞬きをした。
「私にお聞きになるの?」
「そうだ」
「私がいなくとも守れるのでは?」
脇で書状をめくっていた手が止まった。
エドアルトの表情が険しくなったが、言い返してはこなかった。
「……教えてくれ」
アウレリアはしばらくエドアルトを見た。
数日前には、自分の判断が正しいかどうかなど問題ではないと言っていた男が、今はこちらの判断を求めている。
ほんの僅かに口元を緩める。
「そう」
満足した。
「では、最新の報告を全部、見せてくださいな」




