第十話 見せてくださいな。(中)
六年ぶりの王都邸は、思っていたよりも綺麗だった。
馬車を降りたアウレリアは、正面に建つ屋敷を見上げる。
三階建ての白い石造り。
中央には大きな玄関があり、その上にはアイゼンマルク家の紋章が掲げられている。左右へ長く伸びる建物の前には小さな庭園が広がり、剪定された木々の間に白い花が咲いていた。
六年間ほとんど使っていなかったとは思えない。
「悪くないわね」
「王都邸には常時十五名ほど残しておりますので」
先に馬車を降りていたコンラートが答える。
「そう」
扉の前には、すでに使用人たちが一列に並んでいた。
「お帰りなさいませ、閣下」
先頭に立つ男が深く頭を下げ、それに合わせて他の者たちも一斉に礼をする。
見覚えはある。
「あなた、確か――」
「王都邸執事長のアルベルトでございます」
「執事長?」
六年前にも何度か顔を合わせた覚えがある。
だが、以前はまだ執事見習いだったはずだ。
「前の執事長は?」
「三年前に引退いたしました。その後を私が引き継いでおります」
「そう」
三十を少し過ぎたくらいだろうか。
きっちりと整えた黒髪に、細身の体躯。服装にも立ち姿にも乱れはない。
「ちゃんと管理していたのね」
「恐れ入ります」
アルベルトは再び頭を下げた。
「部屋は?」
「すでに整えてございます」
「そう。案内して」
「かしこまりました」
玄関広間も、アウレリアの記憶にあるものとそう変わってはいなかった。
磨き上げられた床には窓から差し込む光が反射し、壁際に置かれた長卓の上には花が飾られている。六年もほとんど使っていなかった屋敷特有の、妙な埃臭さもない。
そのまま階段を上がり、二階の廊下を進む。
途中ですれ違った使用人たちは、アウレリアの姿を見るたびに足を止め、深く頭を下げた。
「こちらでございます」
アルベルトが扉を開いた。
大きな寝台には新しい寝具が用意され、窓際の卓には花が飾られている。隣室へ続く扉も開けられ、そこには着替えや化粧に使うための部屋が見えた。
「湯は?」
「すでにご用意しております」
「そう。それなら先に入るわ」
答えてから、ふと思い出す。
「食事は?」
「夕刻にお出しできるよう手配しております」
「酒もあるでしょうね」
「もちろんでございます」
当然のように返事をしたアルベルトへ、アウレリアは振り返った。
「何があるの?」
「王都近郊の葡萄酒が数種。それから西方より取り寄せた白葡萄酒と、北方の蒸留酒がございます」
「王都でしか飲めないものは?」
「王都でしか……」
アルベルトは少し考えたあと、何かを思い出したように顔を上げた。
「南方より入った葡萄酒がございます。生産量が少なく、現在は王都の一部でしか流通していないものかと」
「それにするわ」
「かしこまりました」
六年ぶりに王都まで来たのだ。
領地でも飲めるものをわざわざ飲む必要はない。
「他にも珍しいものがあれば出して」
「酒を、でございますか?」
「酒でも料理でも何でもいいわ」
「承知いたしました」
アルベルトが深く頭を下げた。
少し肩に力が入っているようにも見える。
「じゃあ、お風呂にするわ」
「ご案内いたします」
「場所くらい覚えてるわよ」
「……失礼いたしました」
アルベルトが一歩下がる。
◆◆◆
夕食は、思っていたより良かった。
白身魚を使った冷製料理に始まり、鴨肉、季節の野菜、香草を使ったスープ。
長旅のあとだからと重すぎないものを選んだのか、どれも量は控えめで、最後には小さな焼き菓子と果実まで用意されていた。
アウレリアはまず白身魚を一切れ口へ運ぶ。
表面は薄く焼かれ、身は柔らかい。
香草の香りも強すぎず、魚そのものの味を邪魔していなかった。
「美味しいわね」
壁際に控えていたアルベルトの表情が、ほんの僅かに緩んだ。
「ありがとうございます」
「料理人は昔からいた人?」
「はい。六年前にも厨房におりました。ただ、当時は副料理長でございます」
「そう、給金を上げておいて」
「……はい?」
アルベルトが瞬きをした。
「料理人のよ」
「い、いえ、それは分かっておりますが」
「なら何?」
「すぐに手配いたします」
「ええ」
アウレリアは次の料理へ手を伸ばした。
それから数日、アウレリアは久しぶりの王都をそれなりに楽しんだ。
宝石を見て、服を仕立て、珍しい酒を買い、評判の店で食事をした。気に入ったものがあれば値段を気にせず買う。
一月も何をして過ごそうかと思っていたが、六年ぶりともなれば見るものはいくらでもある。
謹慎というのも、思っていたほど悪くなかった。
◆◆◆
アイゼンマルク東部国境。
「荷車を止めるな! 第三砦へ回せ!」
「弓束が足りません!」
「西倉庫を開けろ! 全部出せ!」
「騎兵三百、到着しました!」
「そのまま東門へ! 馬を休ませたらすぐ巡回に出せ!」
怒号が絶え間なく砦の中を飛び交っていた。
中庭には荷車が何台も並び、兵たちが麻袋や木箱を次々と降ろしている。矢束、油樽、干し肉、穀物、薬品。空になった荷車はすぐに城門から追い出され、その脇を今度は別の荷車が入ってくる。
「また来たぞ!」
ベルンハルトは遠眼鏡を奪うように受け取り、国境の向こうへ向けた。
丘陵の間を数列の兵が進んでいる。
「……多いな」
「昨日の倍近くおります!」
「見りゃ分かる!」
遠眼鏡を下ろし、そのまま怒鳴る。
「第二砦へ伝令! 北側街道を全部見張らせろ! 夜もだ!」
「はっ!」
「第三砦は?」
「南側斜面の柵を増設中です!」
「今日中に終わらせろ!」
怒鳴りつけるように言い放つと、兵はすぐに踵を返して走り去った。
ベルンハルトは再び城壁の外へ視線を戻す。
国境の向こうには、昨日まで見えなかった軍旗がいくつも増えていた。丘陵の斜面には新しい天幕が並び、その間を兵が行き交っている。街道では荷馬車が絶えず往来し、そのさらに奥からは、今なお新しい部隊がこちらへ向かっているのが見えた。
その時、南門の方から一騎の馬が駆け込んできた。
「将軍!」
泥を跳ね上げながら中庭へ入った騎兵が、馬から転がるように降りる。
「南東街道にも部隊が入っています! 歩兵だけで二千以上! 後続もまだ続いています!」
ベルンハルトは僅かに眉を寄せた。
「閣下が王都へ出て、何日だ」
「八日目です」
「八日でこれか」
鼻で笑う。
「随分待ちきれなかったらしいな」
ベルンハルトは遠眼鏡を閉じると、城壁から中庭を見下ろした。
「全砦へ通達!」
声を張り上げる。
「第二、第三砦への増援を急がせろ! 村の退避も今日中に終わらせる! 持てない荷物は捨てろ、人と馬を先に動かせ!」
怒号に応える声があちこちから返り、兵たちが一斉に動き出す。
伝令が馬へ飛び乗り、門が開く。
荷を積んだ馬車が脇へ寄せられ、その間を騎兵が抜けていく。見張り台では新しい兵が遠眼鏡を構え、弓兵たちは束ねられた矢を城壁の各所へ運び始めた。
戦はまだ始まっていない。
だが、始まらないと思っている者はもう一人もいなかった。
「国境は越えるな!」
ベルンハルトの声が、もう一度砦に響く。
「入ってきたら――全部叩き返せ!」
◆◆◆
王宮へ届く報告は、日を追うごとに悪くなっていた。
最初は斥候の増加だった。それが国境近くを移動する部隊の確認へ変わり、やがて天幕の数が増え、街道を進む荷馬車や騎兵の列まで報告に上がるようになった。そして今、エドアルトの前に置かれている新しい書状には、それまでとは明らかに違う数字が記されている。
「……一万」
机上に広げられた地図には、昨日までなかった駒がいくつも増えていた。国境線に沿うように並び、その一部は主要街道へ寄り始めている。南東方面にも別の部隊が確認され、その後方にはまだ兵が続いているという。
アイゼンマルク辺境伯が王都へ来てから、まだ十日も経っていない。
兵を連れてきたわけでもない。辺境軍はそのまま残っている。砦もあり、警戒も続いている。それでも隣国は、まるでこの時を待っていたかのように一斉に動き始めた。
エドアルトはしばらく地図を見つめた。
なぜここまで早いのだ。
なぜここまで規模が大きいのだ。
「中央軍を四千、東へ」
地図から目を離さないまま告げる。
「動かせる部隊から先に出せ。周辺諸侯にも準備を命じろ。東部街道は軍を優先させる」
「承知いたしました」
軍務官が頭を下げた。
だが、命令を出したからといって、すぐに兵が国境へ現れるわけではない。部隊を集め、補給を整え、隊列を組み、そこから何日もかけて東へ進ませる必要がある。地図の上では指一本ほどの距離でも、現実にはそうはいかなかった。
その間にも、国境の向こうでは兵が増えていく。
エドアルトの視線が、机の端に置かれた別の資料へ移る。
アイゼンマルクから送られてきたものだった。
砦の配置。巡回路。補給拠点。隣国側の兵力。そして、その下にあるアウレリア・フォン・アイゼンマルクの名。
数日前のやり取りが、嫌でも頭に浮かんだ。
『お前がいなくとも、国は守れる』
『でしたら、見せてくださいな』
エドアルトはしばらく資料を見つめ、それから静かに閉じた。
「急がせろ」
今は、それしか言うことがなかった。
◆◆◆
その日の午後、アウレリアは王都でも古くから続く宝石商にいた。
店の奥に用意された小さな応接室には、いくつもの宝石が並べられている。深い青、鮮やかな緑、淡い紫。その中からアウレリアは一つの指輪を取り上げ、窓から差し込む光へ翳した。
「これは?」
「西方から入ったばかりの石でございます。王都でもまだほとんど出回っておりません」
「そう」
悪くない。
角度を変えるたびに、青の中へ僅かに金色が混じる。
「これにするわ」
「ありがとうございます」
店主が頭を下げる。
「それと、あちらの首飾りも見せて」
「かしこまりました」
別の箱が運ばれてくるのを待っていると、部屋の外から控えめに扉を叩く音がした。
「閣下」
コンラートの声だった。
「何?」
扉が開き、コンラートが入ってくる。
「アイゼンマルクより報告が届いております」
「何?」
「隣国軍の集結が、さらに進んでいるとのことです」
「そう」
それだけ答える。
「現在確認できているだけで、一万を超えております」
「でしょうね」
コンラートが一瞬黙った。
「……驚かれないのですね」
「何に?」
アウレリアは首を傾げる。
「向こうが動くと思っていたから、ベルンハルトに任せてきたのよ」
「左様でございますね」
「他には?」
「越境は確認されていないとのことです」
「ならまだいいわ」
ちょうどその時、店主が新しい箱を持って戻ってきた。
中には、細い金鎖に青い宝石を連ねた首飾りが収められている。
アウレリアはそちらへ視線を移した。
「これもいいわね、買うわ」
「ありがとうございます」
店主が再び深く頭を下げる。
国境で何万人集まろうと、まだこちらへ入ってきてはいない。
そして入ってきたとしても、そのためにベルンハルトを残してきた。
アウレリアはもう一度首飾りを眺めた。
「こっちも包んでちょうだい」




