魔物
「……困ったわね」
訓練が始まって森に入った直後、案の定令嬢二人は私を置き去りにして疾走していってしまった。運動能力の高い獣人に足の遅い人間が追いつけるはずもなく、あっという間に一人きりである。
頼みの綱のカラスの男の子も、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
(道に迷わないように、支給された魔法道具をしっかり持ってルートを進まなきゃ……)
そう思い、マナ石が埋め込まれた小さな杖を握りしめた——その時だった。
——ズシン……!!
地響きとともに、木々をなぎ倒して巨体が現れた。
全身を硬い岩石の甲殻で覆い、禍々しい赤い目を光らせた巨大な蜘蛛——『剛岩蜘蛛』だ。
「なっ……!? なんでこんなところに高位魔獣が……!?」
本来、学園の訓練用森林に出現するのは低級の小魔獣くらいのはずだ。こんな危険な魔物がいるなんて聞いていない。
シャアアッ! と威嚇音を上げた蜘蛛が、鋭い脚を振り下ろしてくる。
私は慌てて魔法道具の防壁を展開しようと掲げたけれど——。
——パキィンッ!
「え……!?」
強烈な一撃を受け止めきれず、なんと支給されたばかりのマナ石が粉々に砕け散ってしまった。
丸腰になった私に、容赦なく魔獣の爪が迫る。
(だめ、逃げられない……!)
「——伏せろ!」
死を覚悟して目を瞑った瞬間、バサッと風を切る音が響いた。
目を開けると、私の前に躍り出たのは、あのカラスの男の子だった。二の腕から広がる漆黒の羽を羽ばたかせ、風の刃を放って魔獣の攻撃を間一髪で弾き飛ばしている。
「き、君……!?」
「……お前、後ろにいって。魔法道具が壊れた人間じゃ太刀打ちできない」
前髪の隙間から見えた彼の瞳は、とても真剣だった。無愛想だけれど、お荷物な私を助けに走ってきてくれたのだ。
しかし——相手は高位魔獣。風の魔法は蜘蛛の頑丈な甲殻に阻まれ、ほとんどダメージを与えられない。
「っ……くそ、硬すぎる……!」
蜘蛛が激昂し、カラスの男の子に向かって太い脚を突き立てる。彼の体勢が崩れ、直撃を受ける寸前——!
「危ない……っ!」
体が勝手に動いていた。
私は彼を突き飛ばして庇うように前に躍り出た。迫り来る巨大な爪が、私の視界を埋め尽くす。
(あ……私、ここで——)
——ドォォォンッ……!!!!
突如、森全体を揺るがすほどの凄まじい熱風と【青い炎】が爆発した。
視界が眩い青に染まり、目の前にいた魔獣の脚が一瞬で焼き尽くされて断末魔の悲鳴を上げる。
倒れそうになった私の身体は、甘く懐かしい香りと、強い腕によってしっかりと抱きとめられていた。
「——フィオナ!! 大丈夫か!?」
見上げると、そこには息を切らし、顔色を変えたシリス様がいた。
青い瞳を揺らし、心底恐ろしかったというように私を抱きしめる腕に力がこもる。
「シ、シリス様……! どうしてここに……!?」
「俺の魔力が乱れたのを感じて、飛び出してきた。……怪我はないか!? どこか痛むところは!?」
「は、はい……! 大丈夫です、庇っていただいたので……っ」
私に怪我がないことを確認すると、シリス様は心底ホッとしたように瞳を閉じ、額を私の肩に預けた。
そして次の瞬間、シリス様がくるりと振り返り、鋭い青い炎の槍を何本も追撃で放つ。高位魔獣であったはずの蜘蛛は、悲鳴を上げる間もなく一瞬で灰へと変わり、風に消えていった。
圧倒的な強さ。けれど、魔物を片付けたシリス様の表情は酷く険しかった。
(おかしい……。安全対策がなれているはずの訓練用の森林に、なぜこれほどの高位魔獣が紛れ込んでいる?)
シリス様は冷ややかな瞳で魔獣の灰を見つめ、静かに思考を巡らせていた。
(事故か、それとも誰かが意図的に引き入れたか……。早急に調べる必要があるな)
胸の内で燃え上がるのは、愛する番を脅かされたことへの静かな怒り。
シリスはフィオナを隠すように抱き寄せながら、周囲の暗い森の奥を睨みつけるのだった。




