第55話 空になった町を笑う者
最初に避難を終えたのは、農業都市メルドだった。
住民八百名が家畜と最低限の荷物をまとめ、河原の仮設村へ移った。
翌朝、空の町を見た兵士が笑った。
「魔物も出てないのに、鍋まで持って逃げたぞ」
「農民は気楽でいい」
メルドの住民は言い返さなかった。
代わりに仮設村で竈を組み、ベルナから来る避難者の食事を作り始めた。大鍋で煮込まれた麦粥の匂いが河原へ広がる。
大工は簡易寝台を作り、農婦たちは子どもの名札を縫う。老人は到着者の点呼を手伝った。
「逃げた人たちが、受け入れる側になっています」
ティナが驚く。
「先に避難したから、準備する時間がある」
夕方、ベルナの第一陣三百名が到着した。
疲れた人々へ、温かい粥と寝床が渡る。
笑っていた兵士も負傷者を運び、メルドの老人から配置を教わっていた。
町を空にしたことは敗北ではない。
人と時間を、次の役割へ移したのだ。
その夜、メルド迷宮から黒い柱が上がった。
地面が震え、城壁を越える数の魔物が町へ流れ込む。
家には誰もいない。
魔物は窓を割り、畑を踏み荒らした。けれど悲鳴は一つも上がらない。
「本当に来た……」
住民たちは河原から遠い町の光を見つめた。
泣く者もいた。
俺は「避難して正解だった」とは言わなかった。
家を失う痛みは、命が助かった事実で消えない。
「必ず戻れるようにする」
約束できるのは、それだけだった。
大氾濫が始まった。
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