女子陸上部の犬養さん・リターンズ
「……さぁ、気合いを入れろ愛沢恋矢。ここから先は、一瞬の油断が命取りだ」
闘魂注入。
俺は、ぶつくさ呟きながら両頬を叩く。
あと一歩、目の前の角を曲がれば学校まで一直線。
下手を打てば命も危うい、怪物どもが巣食う魔境だ。
佐久間輪に渡された香水は、ちゃんと付けてる。
首筋と脇に、言われるがまま塗り込んだ。
風が吹けば、ライム系の爽やかな匂いが仄かに香る。
正直なところ、こんなのでメチャモテール症候群の抑制になるとは思えなかった。
そこまで匂いは強くないし、乾きも早い。
一回の使用量も、人差し指の腹が濡れる程度。
かなり心許ない、というのが本音である。
だけど実際に付けてみると、その効果をアリアリと実感した。
何故なら、
「……あれ、今の愛沢くん?」
「っ!」
不意に、俺のすぐ隣を女子の集団が横切る。
そのうちの一人が、俺の名前を呼んだ。
思わず肩が跳ね、俺は挙動不審気味に縮こまる。
だけど、
「いや違うでしょ。愛沢くん、あんな雰囲気じゃないし」
「あれ〜? 一瞬そんな気がしたんだけどなぁ……」
「ナイナイ。てか昨日の配信さぁ──」
彼女たちの誰も、俺に興味を示さない。
一瞬、道端に吐き捨てられたガムを見るような眼差しを向けて、さっさと行ってしまう。
今までは、こちらがどれだけ存在感を消そうとしても。
なんなら視覚に入ってすらいなくとも、ただ近くに居るだけで気付かれた。
なのに香水を付けてからというもの、現時点まで俺を愛沢恋矢と認識している異性とは一度も遭遇しなかった。
こうして可視化されると、どれだけ周りが俺を”なんとなく”で捉えていたのかが分かる。
「なんだかなぁ……」
不思議だなぁ。
少なくとも、これで女子たちの視線だったり、教室での振る舞いを気にする必要は少なくなった筈なのに。
真実が明るみになった途端、中々どうして心にクる。
俺の人となりを知って。
俺を理解して、好きになってた訳じゃない。
本当に、ただメチャモテール症候群の影響を受けていただけで。
ちゃんと俺を見ている人は、いなかったんだって。
「ま、きっと今までが分不相応ってやつだったんだろう。むしろ肩の荷が降りたと思えば気が楽だよな」
なんとなく呟いてみる。
別に、ショックを受けた訳じゃない。
今までが今までだったから、少し戸惑っているだけ。
そもそも俺が望んでいたことなんだ。
きっと、そのうち慣れるだろう。
「さて、行くか」
気持ちを引き締め直し、俺は角を曲がる。
しっかり前を見据えれば、すぐに校門が見えてきた。
さあ、いよいよだ。
ひとまず、目下の目標は二つ。
一つは、校内に潜む恋愛バーサーカーを早急に見つけ出すこと。
二つ目は、その一人である卯ノ花さんに治療薬を打ち込むこと。
この二つをどうにかしないことには、好きになれる人探しなんてやってられない。
この恋愛バーサーカー以外から気付かれない状況を活かして、さっさと解決してしまおう。
……と思っていた矢先。
「あっ!!! おーい、愛沢くーんっ!!!!!」
「嘘だろ」
校門を潜ろうとした次の瞬間、不意に真横から大声で名前を叫ばれた。
間違いない。間違えようもない。
この擬人化したセミみたいな、喧しい声の主は。
「……おはよう犬養さん。今日は一層元気だね」
犬養梨奈さん。
俺の元クラスメイトであり、元恋愛バーサーカー。
彼女は、昨日以上に溌剌とした様子で俺の隣に並んだ。
「おっはよー愛沢くん! いやぁ元気元気の大元気! なんか憑き物が落ちたみたいにスッキリ、みたいな?」
「そうなんだ、良かったね。それじゃ」
うんうん、元気なのは良いことだ。
昨日は、あんな別れ方をしたから少し心配だった。
でも、この調子なら問題は無さそう。
俺は、適当に相槌を打って右手を振る。
しかし、
「ちょっ、逃げないでよー! 別になにもしないからぁ〜!」
「やめろォ引っ付くな! まだちょっと怖いんだよこっちは!」
上げた右手は、いとも容易く掴まれてしまう。
途端、俺の背中に悪寒が走った。
冷たい汗が、なぞるように線を引いていく。
思い出すのは昨日の出来事。
俺の家で、彼女が散々暴れ散らかした記憶。
恋愛バーサーカー化が収まっているのは、分かってる。
でも近くに寄られるのは、やっぱり怖い。
「あ、ご、ごめんね?」
そんな俺の反応に、犬養さんはハッとした表情で慌てて手を離す。
うん、そうしてくれるとありがたい。
それにしても、こんなところで声を掛けてくるなんてどうしたんだろう。
彼女は、もう俺のことが好きじゃなくなった筈なのに。
そう思って首を傾げると。
「その、ね。昨日は……というか、これまで色々迷惑掛け過ぎちゃったからさ。流石にお詫びとかした方がいいんじゃないかと思って」
犬養さんは、両手の指先を合わせてモジモジしながら言った。
「だからね、愛沢くん。もし私に頼みたいことがあったら、なんでも言って欲しいなって。私にできることなら、どんなことでも手伝うから」
上目遣いで、こちらを見る犬養さん。
心なしか瞳が潤み、頬もほんのりと赤く染まって見える。
俺がメチャモテール症候群なんて患っていなかったら、もしかすればこれだけで好きになっていたかもしれない。
が、そんなことはどうでもいい。
彼女は今、確かに言ったのだ。
『頼みたいことがあったら、なんでも言って』と。
おお、なんて都合のいいタイミングだ。
まさか彼女の方から、そんな提案をしてくれるだなんて。
実は一つ、犬養さんにお願いしたいことがあった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて一つだけ」
「あっ、でもエッチなのはダメだよ!? そういうのは、ちゃんと関係を築き直してから……」
「ナニを想像してるのか知らないけどさ。ぶち破ったガラス代、きちんと弁償してもらうからな」
「…………」
「おいコラ、目ェ逸らすな」
顔を真っ赤にしてアタフタしたと思ったら、ガラス代を請求した途端スンとなる犬養さん。
まったく忙しい人だ。
とはいえ、こちらもダンボールで窓を補修したりと不便を強いられている。
そうでなくても賃貸アパートなんだ。
そのままにしていおくのは、大家さんの心象的にも非常にマズイ。
むしろ壊した卓袱台や家財分まで請求したり、これをネタに強請らないだけでも有情だろう。
「とにかく、なるべく早く頼むよ」
「……なんか愛沢くん、さっきから話し方が冷たいというか、乱暴じゃない? 前はもっと優しい感じだったと思うんだけど」
「You、加害者。俺、被害者。俺、真っ当に怒る権利アリ。OK?」
「いや、それはホントにごめんってば」
一応、これでも抑えている方ではあるんだ。
自制を取っ払っていいなら、それこそ当初の佐久間輪を相手にしたとき以上の対応になる。
そうしないのは、犬養さんがメチャモテール症候群の影響を受けていた事実があってのこと。
症状が寛解し、冷静に自分を見つめ直し、責任を感じることが出来たのなら。
これ以上、彼女を責めるつもりはない。
所謂、情状酌量というやつだ。
「ま、そういう訳だからさ。今後とも分別のある普通の距離感でよろしく」
「あ……うん、よろしく」
「……?」
改めて犬養さんに手を振り、俺は一足早く校舎へ向かう。
背後から微かに聞こえた声は、どこか歯切れが悪かった。
でも、気にしない。
というより、気にするべきじゃないと思った。
理由は、自分でもよく分からない。
ただなんとなく、その方がいい気がした。
とはいえ、具体化も言語化もできない違和感に固執しても意味はない。
それより、これから相手をしなくちゃいけないのは。
「いよいよ、卯ノ花さんとの再開だ」
恋愛バーサーカーと化した犬養さんを一撃で倒した、卯ノ花さん。
しかも俺がメチャモテール症候群を患っていることを知っている。
そして厄介なことに、恐らく自分が恋愛バーサーカーであることを自覚していない。
もしも彼女を”その気”にさせたら、間違いなく犬養さん以上の脅威になるだろう。
だけど、怖気づいてはいられない。
ここで逃げても、どのみち俺に一年より先の未来は無いのだから。
俺は、覚悟を決めて教室へ歩を進めた。
※ ※ ※ ※ ※
「……行っちゃった」
校門から校舎に続く道の上。
犬養さんは、独りポツリと呟いた。
「……結局、最後まで脈無しかぁ」
その声は、既に下駄箱から教室へ向かう俺に届かなかった。
より読み易くなるよう一話から今話にかけて全体的な文章修整を行うため、次回更新は5/25(予定)になります
修整後も内容に変化はありません
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