自切④
取調室――。
「愛情は刹那的なものじゃないですか。愛するのも一瞬なら厭うのも一瞬」
泉は大羽刑事に夫殺害の動機を尋ねられ、抑揚のない口調で言った。
「何があったンです?」
大羽刑事の問いに、泉は薄く笑みを浮かべた。
「ひとりで避けたンです。向かってくる車から私を守ることなく、ひとりで避けたンです」
犯行前日のことだった。
泉は明と一泊二日の温泉旅行に出掛けていた。
明は温泉好きで、年に数度は泉を誘っていた。
その日も温泉にのんびりと浸かり、日頃の疲れを癒し、浴衣姿で夕暮れの温泉街を肩を並べて歩いていた。
日常生活では小言の多い夫も、旅先では気分を損ねることなく優しげな眼差しで泉に接してくれた。
泉は山間に沈みゆく夕日を眺めながら、幸せな気分に浸っていた。
蛇行する山道の先にある宿に戻る途中、一台の車が急カーブを下ってきた。
泉は明と道路端に寄り、縦に並んで足を進めた。
しかし、車は大きく膨らんでカーブを曲がり、泉たちはヘッドランプの眩い光に照らされた。
――危ないッ!
泉は身の危険を感じたが、カラダが硬直して咄嗟に動けなかった。だが、目の端では信じ難い夫の行動をしっかりと捉えていた。
泉の前を歩いていた明は、接近する車から妻である泉を守る素振りもみせず、泉とは反対方向に飛び退いた。
次の瞬間、泉は巨大な光の輪に包まれた。泉は額に手を翳し、目を閉じて、わずかに身を捻った。
タイヤが激しく軋む音が耳に響き、浴衣の裾が勢いよく引っ張られた。一瞬、泉はよろめいたが、次の衝撃は伝わってこなかった。エンジン音が次第に泉の耳から離れていった。
――助かった。
泉は減速することなく遠ざかってゆく車のテールランプを無言で眺めた。胸の鼓動は高鳴り、冷や汗がどっと噴き出して胸の谷間を流れた。
「泉ッ! 大丈夫かァ?」
明の声が薄闇に響いた。
「ッたくあの野郎ッ、ひでェ運転しやがって」
憤る夫の声。
その声に泉の心は湯気を立てて湧き出る温泉のように沸々と怒りがこみあげてきた。
「大丈夫……」
肩を抱き寄せた夫をよそに、泉の脳裏に温泉街で見かけた地元の名工が打った包丁が浮かんでいた。




