②リッド
外へ出ると、昼の往来が一段と騒がしくなっていた。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、露店の呼び込みが通りを飛び交う。アルバートは人波を避けながら歩き出す。
向かう先は市場の裏手、《跳ね猫横丁》。
あいつなら、この時間はたぶんあの辺にいる。少なくとも、表通りを探すよりは早い。
名前だけなら随分と愛嬌がある。実際には、ルーデンでも指折りに柄の悪い一角だった。
《跳ね猫横丁》は、市場の裏手に細く伸びた路地の通称だった。
表通りから一本入り込んだだけで、町の顔つきはずいぶん変わる。道幅は狭く、左右の建物は互いにもたれかかるように迫っていた。
二階から張り出した物干し台や看板が空を切り取り、真昼だというのに、路地の奥には薄暗い場所が多い。
安宿、古道具屋、質屋、賭場、娼館・・・。表通りでは大っぴらに扱いにくい品を並べた露店もある。人通りは決して少なくない。
ただ、旅人が物見遊山で足を踏み入れるような場所ではなかった。
アルバートはそんな路地を、慣れた足取りで奥へ進んでいった。
途中、壁際に座り込んでいた男がこちらを一瞥した。目はまず顔に向き、それから肩の槍へ落ちる。それだけで興味をなくしたように、男は視線を逸らした。
少し先では、店先の果物を巡って商人と子供が言い争っている。その横を、猫獣人の女がするりと抜けていった。この界隈では、獣人の姿も珍しくない。むしろ、表通りよりずっと多い。
アルバートは歩きながら、何気ないふうを装って周囲へ目を配った。
いない。いや。見つからない、という方が正しい。
あいつは昔からそうだった。探そうとすれば、なかなか見つからない。放っておけば、いつの間にか近くにいる。
「……さて」
どこから当たるか、そう考えたところで。
「後ろ」
背後から声が落ちた。独特のイントネーション。アルバートは足を止めて振り返る。
さっきまで誰もいなかったはずの場所で、古びた樽の上に一人の少女が腰掛けていた。
灰がかった茶色の髪は、今は耳にかかるくらいまで伸びているが、初めて会った頃はもっと短かった。その間から覗く、同じ色の猫耳。小柄な身体に、動きやすさだけを優先したような簡素な服を着て、腰には短剣が二本。細い尻尾が、樽の脇で気まぐれそうに揺れている。
リッド。本名は・・リディアだったか。十四歳の猫獣人で、知り合ってから、もう二年になる。
「お前ね。何度も言ってるだろ。急に後ろから声かけるのやめろって」
アルバートが言うと、リッドは少しだけ目を細めた。
「油断してるんちゃう?こんなに簡単に後ろ取られて、大丈夫なん」
猫獣人の多く暮らす地方では珍しくない話し方で、アルバートにとっては、もうすっかり聞き慣れたものだった。
「お前以外にゃ、簡単に取らせねえよ」
「ふーん」
まんざらでもない顔で言う。
「なんか用」
「ああ」
リッドは樽から軽く飛び降りた。着地の音はほとんどしなかった。昔から、こういう身のこなしは板についている。
二年前、初めて会った時もそうだった。
あの頃のリッドは、もっとひどい格好をしていた。煤と泥にまみれた顔に、短く、乱雑に切られた髪。丈の合わない上着と擦り切れた靴を身につけ、身体も痩せていた。ぱっと見では、性別すらよく分からないような子供だった。
実際、アルバートもしばらくの間、疑いもせず少年だと思っていた。
今は、少なくともそうではない。服は質素だが、身体に合っている。髪も少し伸び、きちんと整えられていて、毎日の食事にも、以前ほど困ってはいない。
もっとも、生活の仕方がどこまで真っ当になったかと聞かれれば、アルバートは首を傾げるしかない。
リッドはアルバートの前まで来ると、顔より先に槍を見た。それから腰元へ視線を落とし、最後に顔を上げる。
「仕事?」
「よく分かったな」
「ていうかアル、仕事以外でうちに会いにくることないやん」
つまらなさそうに横を向くリッド。
そうだった。最近コイツはちょっと面倒なんだった。アルバートは少し気が滅入る。
「仕事って何」
リッドはしつこく食い下がる気はないらしい。
「街道の襲撃者探し」
アルバートが言ったその一言で、猫耳がぴくりと動いた。
「何人?」
「七から十」
今度は、目つきが変わった。さっきまでの気の抜けた顔が消える。
「多いな」
「ああ」
「場所は?」
「北西街道の周辺。根城はまだ分かってない」
「せやから、うち?」
アルバートは少し笑った。
「だからお前だ」
ほんの一瞬、リッドの表情が緩んだ。喜んだ、と言っていいのかもしれない。だが、それはすぐに消える。
「……ふーん」
わざと興味がなさそうに横を向く。そのくせ、尻尾の先だけがさっきより少し速く揺れていた。アルバートは気づいたが、何も言わなかった。
「別にええけど」
「そうか」
「で?」
「何だ」
「いくら?」
そこでアルバートは、ようやく少し笑った。仕事の話になると早い。二年前から何も変わっていない。
「先に条件聞かねえのか」
「聞いてるやん」
「金だけだろ」
「大事やろ」
否定はできない。
アルバートは懐から依頼書を取り出し、リッドへ見せた。
「最低七人。多くて十人前後。名前も素性も分かってない。元兵士か傭兵崩れが混じってるかもしれないって話だ」
リッドは紙を覗き込み、上から下まで目を走らせる。
「戦うん?」
「俺がな」
「うちは?」
「探す」
アルバートはそう言って、指を折った。
「根城。人数。素性。出入り。見張りの位置。逃げ道」
「聞き込みは?」
「必要なら」
「潜るんは?」
「状況次第だな」
リッドはもう一度依頼書を見る。
「やること多いやん」
「だから呼んだ」
その言葉に、リッドは何も返さなかった。ただ、紙を見るふりをしながら、ほんの少しだけ口元を緩める。やがて視線が報酬欄で止まった。
「五百」
「ああ」
「で」
顔を上げる。
「うちは、いくら?」
アルバートは少し間を置いた。
これはリッドが受けるならと最初から決めていた額だ。さて、同反応するか。
「百」
その瞬間、リッドの耳が止まった。尻尾まで止まる。
「……は?銅貨100って、子供の小遣いやないで」
そう来たか。アルバートはいくつかしていた予想とは違う答えに内心ほくそ笑んだ。
「バカ、銀だよ」
間が空く。
「銀百?」
「ああ」
今度は、じっと見られた。値段を聞いて喜ぶより先に、疑うところがこいつらしい。
「……アル、しょうもない」
「は?」
「銀百やで。うち一人に。そんなボケいらんねん」
「ボケ?」
時々こいつの訛りはわからない。アルバートは聞き返した。
「冗談ってことや」
「いや、冗談じゃねえよ」
そこでようやく
「え?本気なん」
呆然と、リッドが答えた。
ようやく予想していた反応になりつつあると思いながら、アルバートは依頼書を畳む。
「下調べをしくじったら、俺が死ぬ」
リッドは黙った。
「だから百」
「……うちがやるん、情報集めだけやろ?」
「だけ、じゃねえよ」
アルバートはリッドを見る。
「そこが一番大事だ」
一瞬だけ、猫耳が動いた。
「……危ない仕事なん?」
「俺にとってはな」
「うちは?」
「危なくするな」
間を置かずに言う。するとリッドは、わずかに目を細めた。
「またそれ」
「なんだよ」
「別に」
それだけ言って横を向く。けれど、止まっていた尻尾は、いつの間にかまた揺れていた。今度は、ゆっくりと。
「百なら、ちゃんと働く」
「いつもちゃんと働け」
「働いてるやん」
「スリは仕事に入らん」
リッドの耳がわずかに伏せた。
「最近はしてないし」
「最近まではしてたってことだろ」
小さく鼻を鳴らす。けれど、それで話は決まったらしい。さっきまでどこか緩んでいたリッドの目が、すっと細くなった。
「北西街道の連中やったな」
「ああ」
アルバートは少し眉を上げた。
「知ってるのか」
「噂くらいは。最近、あっちの商隊が何回かやられてるんは聞いてる」
「それだけ?」
「今はな」
言いながら、リッドは何かを思い出したように視線を逸らした。
「でも、ちょっと変やねん」
「何が」
「盗賊なら、普通は楽な相手狙うやろ?」
「ああ」
「護衛の少ない商隊とか、足の遅い荷馬車とか」
そこで指を一本立てる。
「でも、最近やられたん、どれも護衛ついてたはずや」
マルタから聞いた話と一致する。アルバートは黙って続きを待った。
「それとな」
今度は二本目の指。
「盗られた荷も、なんか変やったって聞いた」
「どう変なんだ」
「そこまでは知らん」
あっさり言う。
「まだ噂だけ」
「なら、何が変なんだよ」
「せやから、それを調べるんやろ」
もっともなことを言われた。
リッドはもう頭の中で、どこをどう回るか考え始めているらしい。
「どれくらいかかる」
アルバートが聞く。
リッドは少し考えた。
「明日の夕方までちょうだい」
「丸一日以上か」
「三件あるんやろ」
リッドは指折り数える。
「まずルーデンで、商隊の関係者に当たる。生き残った人がおったら話聞く。何盗られたんかも調べる」
「それだけなら今日中でもいけるか」
「せやけど、襲われた場所まで見に行くなら無理」
その言葉に、アルバートは頷いた。
最後の襲撃地点だけでも、ルーデンから徒歩で半日ほどかかる。それが三か所あり、しかも一つ一つが離れている。
「現場まで見るのか」
「見た方がええやろ」
当然という顔で言う。
「足跡残ってるかもしれへんし、街道沿いの宿とか村で、見た人おるかもしれん」
少し間を置く。
「連中がどこでご飯食べて、どこで寝てるかまで分かったら一番ええけど」
「そこまで掴めるか?」
「分からんかったら、分からんって言う」
即答だった。妙な見栄を張らない。そこが信用できる。
「それと」
リッドは少し目を細めた。
「盗ったもんを誰かに流してるなら、そっちも見たい」
アルバートは思わず口元を緩めた。
十四歳。普段は路地裏をうろついて、金がなければろくでもない方法で小銭を稼いでいる。だが、こういう仕事になると話は別だった。
何を調べるべきか、どこから手を付けるべきか。教えなくても、自分で組み立てる。
百枚。報酬の五分の一だ。安くはない。それでも、払う価値はあると思えた。
「分かった。明日の夕方だな」
「早かったら昼には戻るかもしれへんけど」
「無理すんな」
「してへん」
そう言って、リッドは踵を返しかける。そこでアルバートは、ふと思った。
「……お前、足は?」
リッドが振り返る。
「ついてるけど」
「現場まで歩いて行く気か」
相手にせずに続けるアルバート。
「馬借りるけど」
「乗れるのか」
リッドの耳がぴくりと動いた。
「乗れるわ」
少しむっとした顔をする。
「そこまで子供ちゃうし」
ミヤ族・・リッドのような猫獣人は、人間よりやや早く身体つきが大人びる者も多い。十三、四にもなれば、遠目には成人と見分けのつかない者もいる。
ただし、リッドには、その恩恵はほとんどなかった。小柄で、童顔。どう見ても十四歳だった。
「馬借りる金、あんのか」
沈黙。ほんの一瞬だったが、十分だった。
アルバートは目を細める。
「……あるし」
「今の間はなんだ」
「あるって」
「いくらだ」
リッドが視線を逸らす。
「……ちょっと足らんだけ」
「足りねえんじゃねえか」
「ミヤやから十四でも――」
「お前はどう見ても十四だ」
「最後まで言わせてぇや」
「言っても結果は同じだろ」
リッドは不満そうに耳を伏せた。
「帰ってきてから払う言うたら、貸してくれるかもしれへんやん」
「どこの馬屋がお前みたいなガキにツケで馬貸すんだよ」
「ガキちゃうし」
「はいはい」
アルバートはため息をつく。それから腰袋を探り、小さな革袋を取り出して軽く放る。リッドが反射的に受け止めると、中で硬貨がじゃらりと鳴った。
「……何これ」
「前金二十」
リッドが目を瞬く。
「残り八十は仕事が終わってからだ」
「ええの?」
「足代もなしで調査させるほど鬼じゃねえよ」
リッドは革袋の重みを確かめるように、掌の上で一度だけ弾ませた。それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「ほな、ちゃんと百枚分働くわ」
「そうしろ」
口元を緩めていただけのリッドが、露骨にニヤニヤする。
「なんだよ」
「この前金、随分用意がええなあ。まるで最初っからうちに渡す気やったみたいやなあ・・って」
革袋を懐へしまう。
「言ってろ」
「・・・明日の夕方。いつもの店な」
「ああ」
「遅れんといてや」
「お前がな」
リッドは鼻を鳴らし、そのまま人混みへ紛れていった。
数歩、十歩。そこまでは見えていたが、次に人波が横切った時には、もうどこにいるのか分からなくなっていた。
アルバートはしばらくその辺りを眺めていたが、やがて踵を返した。あれなら明日の夕方までには何か掴む。間違いなく、《黒鉄の秤》が銀貨五枚で売っていた情報より、遥かに役に立つものを持ってくるだろう。
問題は、それまで自分が何をするかだ。少し考えて、そういえば朝から何も食べていないことに気がついた。




