③待つ時間
《謝肉亭》は、跳ね猫横丁からそう遠くない場所にある。名前だけを聞けば少々物騒だが、別に人肉を出す店ではない。肉料理を売りにした、食堂兼酒場だ。客には傭兵や賞金稼ぎが多い。昼間から酒を飲んでいる者も珍しくなく、仕事帰りの血なまぐさい格好でも、よほどひどくなければ追い返されない。アルバートもよく使っていた。
扉を押し開ける。焼いた肉と香草、それに濃く煮込んだ豆の匂いが、店の熱気と一緒に流れてきた。昼飯時は少し過ぎている。それでも店内にはまだ何組か客が残っていた。
「おや」
カウンターの向こうから太い声が飛んでくる。禿げ上がった頭に、顔の半分を覆いそうな立派な髭。左手の小指が一本ない、店主のゴードンだった。昔は傭兵をやっていたらしいが、本人はその頃の話をほとんどしない。
「生きてたか、アルバート」
アルバートは顔をしかめた。
「今日はそればっかり言われるな」
「賞金稼ぎなんぞ、久しぶりに顔見せりゃ大体そう言われる」
ゴードンは豪快に笑った。空いている席へ腰を下ろしてしばらく待つと、注文をしてもいないのに皿が置かれる。厚切りの豚肉に、豆と根菜の煮込み、黒パン。それに薄めた麦酒。
「いつものだ」
「ああ」
アルバートは早速、肉へナイフを入れた。焼き目のついた表面を切ると、中から肉汁が滲む。ひと口食べると、塩は少し強い。だが、働く人間相手の店ならこれくらいでちょうどいい。
何口か食べたところで、店の奥に見覚えのある顔を見つけた。一人で葡萄酒を飲んでいる男で、癖のある金色の髪と、人当たりのよさそうな顔。椅子の脇には一本の杖が立てかけてある。
ジョイス。二十五歳の魔術師で、これまで何度か仕事で組んだことがある。
腕はいい。性格も悪くない。いや、性格には致命的な難点があったか――。アルバートは肉を噛みながら、少し考えた。
――そういえば、あいつ。元は帝立魔術院にいたはずだ。
「ゴードン」
「ん?」
「これ、向こうで食う」
皿と杯を持って立ち上がる。
「食器返せよ」
「分かってる」
ジョイスはまだこちらに気づいていなかった。アルバートが向かいの椅子を引くと、ようやく顔を上げる。
「よう」
「……お?」
次の瞬間、顔がぱっと明るくなった。
「アルバートじゃねえか。久しぶり」
「三か月くらいか」
「そんなもんか。死んだと思ってた」
「お前もかよ」
今日、何度目だ。
ジョイスは笑いながら、足で椅子を引いた。
「座れよ。珍しいな、お前から寄ってくるなんて」
「聞きたいことがある」
「金なら貸さねえぞ」
「お前に借りるほど落ちぶれてない」
「じゃあ女?」
「中らずといえども遠からず、だ」
「おうおう、ようやくお前のそういう話が聞けちゃうわけ?」
「色恋の話じゃねえ。でも女の話だってことだ」
アルバートは腰を下ろす。皿を置き、残っていた肉をひと切れ口へ運んだ。
「お前、元帝立魔術院だったよな」
ジョイスの顔に、露骨に嫌そうな色が浮かぶ。
「『元』を強調すんな」
「セディアって魔術師、知ってるか」
葡萄酒を口へ運びかけていた手が止まった。ほんの一瞬だった。だが、見落とすほど短くはない。
「……セディア?」
さっきまであった軽さが、少しだけ消える。ジョイスは杯を卓へ戻した。
「なるほど。確かに女の話だな・・・。どこでその名前を聞いた」
「ギルド」
アルバートは黒パンをちぎる。
「手配が出てた。賞金八百。生け捕り限定」
ジョイスが低く息を吐いた。
「ほう・・・」
「知ってるんだな」
「知ってる。つってもその依頼のことは知らねえ。セディアのことを知ってるって意味だ」
少し間を置く。
「俺が魔術院にいた頃の、一応後輩だ。俺より二つか三つ下だったと思う」
「どんな魔術師だ」
「専門は防護術と術式解析」
ジョイスは指先で杯の縁をなぞった。
「派手に火を吹いたり雷落としたりするような戦闘屋じゃなかった。少なくとも、俺が知ってる限りではな」
「弱い?」
「そういう意味じゃねえよ」
すぐに返ってくる。
「正面から相手を吹っ飛ばすのが得意じゃないってだけだ。結界張らせたら厄介だろうし・・・何より頭が抜群に切れた」
ジョイスは少し考えてから続けた。
「術式解析ってのは、簡単に言えば魔術を読む仕事だ。どう組まれてるか、どこに癖があるか、どこを崩せば壊れるか」
視線がアルバートへ向く。
「お前みたいに身体強化使って殴り込む奴とは、たぶん相性よくねえぞ」
「俺は追わん」
「ならいい」
「バルガスってのが受けた」
ジョイスの顔がしかめられた。
「……あの大剣馬鹿か」
「知ってるのか」
「何度か見た程度だ。でも、あいつならなおさら、セディアと戦闘になったときの相性は悪いと思うがな」
「そんなに厄介か?」
「まあセディアを敵とみなした場合、厄介なのは確かだ。だがもっと厄介なのは」
ジョイスは少し声を落とした。
「依頼そのものだ」
アルバートは黙る。
「研究資料の窃盗。多分口封じてきな条件がなかったか?」
「よくわかるな。気絶させて即魔術院に通報しろ。セディアが何を言っても耳を貸すな、だそうだ」
「やっぱりな」
ジョイスは葡萄酒をひと口飲んだ。
「あそこは、表に出さない研究が山ほどある。魔術院は本当のところギルドなんか使いたくねえ。でも逃げてるのがセディアなら・・・。そうだな、魔術院では捕まえられないかもな」
「だから八百か」
「相当必死だ。やばいぜこれは」
なるほど。ジョイスの表情から、普段の軽薄さが消えている。
「八百でも安いくらいだと?」
アルバートはそう聞いてみる。
「そこまでは言わねえが・・。いやでも、首尾よくセディアを見つけられたとしても、これが魔術院のなんかヤバい研究がらみだったら・・安いかもしれねえな」
「どういうことだ」
「知らなくてもいいことを知った人間は、碌な目に合わないってことさ」
アルバートはわずかに目を細めた。
そういうことか。セディアの件に関する漠然とした忌避感が、ジョイスのお陰でかなり具体的になった。
「まあそもそもさっきも言った通り、セディア本人も敵に回したら楽な相手じゃない」
「戦闘屋じゃないんだろ」
「だからだよ。防護術ってのは、身を守るだけじゃない。探知をずらしたり、痕跡を隠したりもできる。あいつはそういうのが上手かった」
「魔術に詳しくないが、そういうもんなのか」
「そういうもんなんだよ」
ジョイスは顔をしかめながらそう言った。
「珍しいな。お前が女のことでそんな顔をするのは」
アルバートがそう茶化す。ジョイスの女好きは有名だった。それで魔術院をクビになったという噂もあるくらいだ。
「思い出すとこんな顔になるくらいには、嫌なことがあった」
「ふぅん」
まあ、それは深く聞くことじゃない。アルバートは流すことにした。
「それにしても、なんでそんなに気にする。受けなかったんだろ。お前」
言われて、アルバートも確かにそうだと思う。
「ああ・・そうだな。なんとなくだよ」
「なんとなく?」
「そう、高額だけど変な依頼。それに明らかに向いてなさそうな筋肉男が喰らいついた。で、たまたま元魔術院のお前を見つけて聞いてみるか、ってなくらいの話だよ」
そうだ。それだけの話だ。
しかし、ジョイスは納得いかない風に
「お前が?他人の仕事に?」
「珍しいか」
「珍しいね。お前他人に全く興味ないタイプだと思ってたぜ」
即答だった。絶句するアルバート。
「そんなこと・・ねえよ」
そう返すのがやっとだった。
「まあとにかく。セディアって女は」
アルバートを絶句させておいて、もうその話はいいらしい。ジョイスがセディアの話に戻る。
「ああ」
「人をよく見てる」
ジョイスの杯の中で赤い酒が揺れる。
「愛想が悪いわけじゃない。普通に喋るし、冗談も分かる。でも、こっちが何考えてるか、何を隠してるかまで見てるような目をする」
少しだけ遠い目になる。
ジョイスの『嫌なこと』の一端が察せられるような気がした。
「その女が、研究資料を持って魔術院から逃げた」
アルバートは黙って聞く。
「あの女が、きっと本気で逃げてる」
ジョイスの声が低くなった。
「だからこの案件はかなりヤバい」
一拍。
しばらく、二人の間に言葉がなくなった。店内のざわめきと、皿と杯の触れ合う音。厨房から肉の焼ける音がする。
アルバートは残っていた黒パンを口へ放り込んだ。どうやら自分の勘は間違っていなかったらしい。
「親父」
アルバートがカウンターへ声を飛ばす。
「こいつにワインもう一杯」
ジョイスが片眉を上げる。
「お。どうした」
「情報料」
「気が利くじゃねえか」
「面白い話を聞かせてくれた礼だ」
ゴードンが葡萄酒を持ってくる。ジョイスは受け取ると、軽く杯を上げた。
「じゃあ遠慮なく」
「最初からする気ないだろ」
「ふふん」
ひと口飲んでから、ジョイスは再びアルバートを見る。
「お前がセディアを追うんじゃないなら、それでいい」
「追わねえよ」
「ならいい」
アルバートは残った麦酒を飲み干す。セディアについては、手を出さなかった判断がたぶん正しかったこと。悪くない収穫だ。
「じゃあな」
皿を重ねて立ち上がる。ジョイスが杯を片手にこちらを見た。
「もう行くのか」
「仕事中なんでね」
「真面目なことで」
「お前と違ってな」
「今度組んだ時に覚えてろよ」
「その時まで生きてたらな」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」
アルバートは片手を上げた。カウンターで食事代と、ジョイスの葡萄酒代を置く。ゴードンが硬貨を数えながら言った。
「死ぬなよ。また来い」
「ああ」
扉を開ける。午後の光が差し込んだ。店の熱気と肉の匂いを背に、アルバートは再びルーデンの通りへ出た。
謝肉亭を出ると、日はまだ高かった。
明日の夕方まで。リッドがそう言った以上、それまでは待つしかない。
もっとも、何もせず待つという意味ではなかった。アルバートは人通りの多い通りを抜け、自分の家へ戻ることにした。
家、といっても大したものではない。ルーデンの中心部から少し外れたところにある、小さな借家だった。寝台が一つに、簡素な机と椅子。壁際には武器や旅道具を置くための棚があり、奥には、湯を沸かす程度ならできる小さな竈もある。一人で暮らすには十分だった。
ルーデンへ来た当初は、宿を転々としていた。どうせ長くいるつもりはなかったからだ。それが、いつの間にか二年になる。半年ほど経った頃、宿代を払い続けるのも馬鹿らしくなって、この家を借りた。
家具を増やす気にはならなかった。いつでも引き払える。そんな暮らし方だけは、今も変わっていない。
扉を開けると、三日前に帰ってきてから二度寝ただけの部屋は、旅立つ前とほとんど同じだった。アルバートは槍を壁へ立てかけ、革鎧を外して椅子へ放った。ようやく身体の疲れを意識する。
とはいえ、まだ寝るには早い。椅子へ腰掛けたまま少し休み、それから槍を手に取った。
穂先に石突き、柄。
指でなぞり、傷や歪みがないか確かめる。
七人から十人。その中には元兵士や元傭兵が混じっている。リッドが根城まで見つけてきたとしても、その先はアルバートの仕事だ。情報が完璧でも、最後に戦う人間がしくじれば意味がない。
砥石を取り出す。金属を擦る乾いた音が、静かな部屋に続いた。
その日の残りは、ほとんど準備に使った。傷薬、包帯、携帯食、水袋、縄。手持ちを確かめ、足りないものだけ買い足す。ついでに革鎧の留め具も直した。
大きな仕事の前だからといって、特別なことをするわけではない。いつもやっていることを、いつも通りにやる。それだけだった。
日が落ちる頃には家へ戻った。簡単に腹を満たし、早めに寝台へ入る。明日はまだ戦いではない。だが、リッドが持ち帰る情報次第では、その日のうちに動くことになるかもしれなかった。
翌朝、アルバートは日の出とともに目を覚ました。水で顔を洗い、家の裏手へ出る。借家の裏には、建物と塀に挟まれた細長い空き地があった。広くはないが、槍を振る程度なら十分だ。
軽く身体をほぐしてから槍を握る。
突き。払い。踏み込み。一つ一つ確かめるように動く。
速度を上げる。止める。もう一度。
呼吸。足運び。握り。昨日の疲れが残っていないか。身体が思った通りに動くか。
問題はない。
一通り終えると、槍を肩へ担いだ。朝飯を済ませ、それから町へ出る。急ぎの用事はなかった。だからといって、一日中家で寝転がっている気にもならない。
前日に買い忘れたものがないか確認し、道具屋を何軒か回る。馬屋にも立ち寄った。北西街道へ出ることになれば、徒歩より馬の方がいい。何頭か見せてもらい、今日借りるならどれが空いているかだけ確認しておく。
昼を過ぎても、まだ時間がある。アルバートは一度家へ戻り、机の上へ商隊襲撃の依頼書を広げた。マルタから聞いた内容をもう一度頭に入れる。
人数。
襲撃地点。
元傭兵。
元兵士。
護衛付きの商隊ばかりを狙っているという不自然さ。
そして。リッドがどこまで拾ってくるか。
アルバートは椅子の背へ身体を預けた。あいつに任せた以上、今さら自分が同じ場所を回っても仕方がない。仕事を任せるというのは、そういうことだ。
窓の外を見る。陽が少しずつ西へ傾いている。まだ早い。しばらく家で過ごした。
槍の手入れは終わっている。革鎧も問題ない。携帯食もある。準備することがなくなると、妙に時間が長く感じられた。
アルバートは寝台へ横になった。眠るつもりはなかった。
だが、目を閉じているうちに、いつの間にか少し眠っていたらしい。
嫌な、とても嫌な夢を見たような気がした。昔の・・・。
目を開ける。窓から差し込む光の色が変わっていた。西日だ。
「……頃合いか」
起き上がって槍を持つ。戸締まりを確認し、家を出た。




