第3話:翌朝の鏡と、借りたままのスリッパ
お読みいただきありがとうございます。
一夜明けて、現実に引き戻される志保。
仕事モードに切り替えようとする彼女ですが、心には小さな変化が生まれています。
朝、六時。
アラームが鳴る前に目が覚めるのは、長年の社畜生活で染み付いた呪いのようなものだ。
「……あ」
ベッドから足を下ろした瞬間、指先に触れたのは、自分の持ち物ではないベージュ色のパイル地スリッパだった。
昨夜、折れたヒールの代わりに瀬尾さんが貸してくれたもの。
視線を上げれば、ドレッサーの脇には無残に踵の折れた、昨日までの「私の武器」が転がっている。
鏡に映る自分は、いつも通りの一ノ瀬志保だ。
丹念にスキンケアをし、隙のないメイクを施す。
けれど、昨夜瀬尾さんに丁寧に拭われた膝の傷が、ストッキングを履く時にかすかに疼いた。
それは痛みというより、誰かに大切に扱われたという、むず痒いような記憶の再生だった。
「……一ノ瀬さん、僕に頼ってください」
不意に脳裏をよぎった彼の声を、私は激しく首を振って追い出す。
ダメよ。彼はただの親切な店主。
私は三十八歳の大人で、彼は四つも年下。
あんな風に弱みを見せたのは、昨夜が限界まで疲れていたからに過ぎない。
予備のパンプスを履き、借りたスリッパを丁寧に袋に入れる。
玄関を出て、一階へと降りるエレベーターの中で、心臓がわずかに速く脈打つのを感じた。
一階のロビーを出れば、すぐ隣には彼の店『Lumière』がある。
(……まだ、開いてないわよね)
時刻は午前七時半。開店準備をしているかもしれない。
もし彼がいたら、スリッパを返して、昨夜のお礼をもう一度言って——。
そんな期待を胸に外へ出たが、カフェの入り口にはまだ「CLOSED」の札が掛かっていた。
薄暗い店内に、彼の姿は見えない。
途端に、ひどく冷ややかな現実が戻ってきた。
私は、誰でもない「クリエイティブディレクターの一ノ瀬志保」として、今日も戦場へ向かわなければならない。
カツ、カツ、と。
新しいパンプスの硬い音が、昨日と同じように無機質な舗道に響く。
けれど、鞄の中に忍ばせたスリッパの重みが、昨日までの私とは決定的に何かが違うのだと、静かに主張していた。
第3話はいかがでしたでしょうか。
「鉄の女」が日常の中でふと見せる、自分でも戸惑うような心の揺れ。
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