第16話 燻る火種
王国占領下レーン工業地帯――
かつて帝国の心臓部と呼ばれたその地は、今や別の意味で脈打っていた。不安と、緊張と、そして、不満。
「また作業が止まっています。」
報告書を手に、エルナが静かに言った。レオンの機体の整備を終えた彼女は、自ら事務作業の手伝いを志願していた。簡易的に作られたレーン作業指揮所。粗末な机の上には、各地からの報告が山のように積まれている。レオンはその一枚を受け取り、目を通した。
「南区画、第三区ライン…作業員三十名が作業拒否。」
次の紙をめくる。
「東区画、倉庫群で爆発未遂。火薬の持ち込みが確認。」
さらにもう一枚。
「北側で警備兵と小競り合い。負傷者数名。」
レオンはゆっくりと紙を置いた。
「…増えているな。」
「はい。日に日に。」
エルナの声は落ち着いているが、その内容は明らかに悪化していた。
「まだ“暴動”と呼ぶほどではありませんが…。」
「時間の問題だろう。」
短く言い切る。外に出ると、空は静かだった。雲一つない青空。まるで戦場とは無縁のような光景。だが地上では、確実に何かが変わり始めている。
「隊長!」
ガルドが駆け寄ってきた。
「北区画、また騒ぎが起きたそうです。今度は作業員同士の衝突も…。」
「内部でも割れているか。」
「従う側と、抵抗する側でしょうね。」
ガルドは肩をすくめる。
「どっちにしても、面倒な話です。」
レオンは滑走路の方へ視線を向ける。整備はほぼ終わっている。しかし、仕上げをする作業員の足取りは重かった。
(不安か、怒りか…。)
あるいは――その両方か。
「…出ますか?」
ガルドがぽつりと聞いた。その言葉の意味は明確だった。801航空隊として、鎮圧に介入するかどうか。レオンは少しだけ間を置いた。
「出られない。」
「…やっぱり、ですか。」
「上からの命令だ。」
エルナが後ろから王都からの文書を手渡す。
「通達です。」
レオンが読み上げる。
「工業地帯内での航空戦力の対地使用は、現時点で許可せず。対象が作業員である以上、無差別攻撃と見なされる恐れあり。国際的非難を招き、外交上重大な不利益となる可能性を認む。
紙を閉じる。
「…そういうことだ。」
ガルドがため息をつく。
「つまり、“撃てるけど撃つな”ってことですか。」
「ああ。そういうことだ。」
レオンは淡々と答える。
「しかも、撃てば今回の戦争には勝っても、世界を敵に回しかねん。なにせ世界初の航空戦力だ。なにかと理由を付けて早期に潰しておきたいと考える国の方が多いだろう。」
「やってられませんね。」
ガルドは苦笑した。グランとヨシアが少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。
「じゃあ……俺たちは何もできないんですか。」
ヨシアの声には、戸惑いが滲む。
「何も、ではない。」
レオンは振り返る。
「だが、今は“飛ぶ時ではない”。」
その言葉に、若い二人は黙り込んだ。その時。遠くで、鈍い音が響いた。爆発。黒煙が、工業地帯の一角からゆっくりと立ち上る。
「……おいおい。」
ガルドが目を細める。
「“未遂”じゃなくなってきてませんか。」
レオンは黙って煙を見つめる。
(確実に、段階が進んでいる)
「報告!」
別の伝令が駆け込んできた。
「南区画にて倉庫一棟が炎上! 原因は不明ですが、放火の可能性が高いとのこと!」
「鎮圧は。」
「警備部隊が対応中ですが、人手が足りていません!」
エルナが静かに言う。
「…各地で同時に起きていますね。」
「計画的、か?」
レオンの目が鋭くなる。自然発生ではない。誰かが煽っている可能性も考慮しなければ。
(裏で動いている勢力がいるのか)
風が吹く。黒煙が空へと広がっていく。その空を、レオンは見上げた。本来ならば、自分たちの領域。だが今は――
「…地上が燻っているのに、空は静かだな。」
皮肉のように呟く。ガルドが肩をすくめる。
「そのうち、嫌でも飛ぶことになりますよ。」
「だろうな。」
レオンは目を細める。その日の夕刻。指揮所に、もう一つの報告が届く。
「フラング共和国軍、国境線を越えて前進を開始。」
空気が凍る。
「名目は?」
レオンが問う。
「“地域の安定維持のための限定的展開”とのことです。」
ガルドが鼻で笑う。
「出たよ、便利な言い訳。」
エルナは静かに続ける。
「進駐地点は……西側外縁部。レーン工業地帯に接近しています。」
レオンは地図を見つめる。反乱。そしてフラング。
(偶然ではないな)
心の中で呟く。
(やっかいだぞ)
夜。炎の明かりが、工業地帯のあちこちで揺れていた。占領地は、もはや安定とは程遠い。そしてその混乱を、誰かが利用している。レオンは静かに空を見上げる。星は、変わらずそこにあった。
「…まだ飛べないか。」
誰にも聞こえない声。だがその問いに答えるように――遠く、東の空がかすかに光った。雷ではない。もっと重く、鈍い光。ダッツ帝国も雪辱を晴らすため、ついに動き始めていた。




