第14話「2センチで、世界が変わった」
お疲れ様です、皆月葵です。
第14話「2センチで、世界が変わった」を公開しました!
いよいよクライマックスです。
ずっと積み重ねてきたものが、この話に全部集まります。プロローグから読んでくださっている方は、きっと色々なことを思い出しながら読んでいただけると思います。
できれば、一気に読んでいただければ幸いです。
ぜひお楽しみください!
戦場は、想像より広かった。
北方の平原。灰色の空。風が横から吹いていた。
俺はアーサーの腰に吊るされたまま、その景色を感じていた。以前の小競り合いとは規模が違った。騎士たちの数も、敵の数も、空気の重さも、何もかもが違った。
これが、本当の戦争だった。
アーサーは馬上で静かだった。
鎧を身につけ、前を向き、騎士たちを従えて、一言も余計なことを言わなかった。昨夜、俺の前で「さーくんに見せるために絶対帰ってくる」と笑っていた十六歳の少女は、今ここにはいなかった。
いたのは、王だった。
紛れもない、戦場の王だった。
戦闘が始まる前に、アーサーは馬から降りた。
騎士たちも同様に。
ここからは徒歩での戦いになる。
剣が抜かれる感触がした。
アーサーの腰からエクスカリバーが引き抜かれた。俺は空になった。以前と同じように、アーサーの背中だけが見えた。
アーサーは強かった。
それは変わらなかった。剣を振るうたびに敵が退き、声を上げるたびに味方が奮い立つ。でも今日の戦場は、一人の強さでどうにかなる規模ではなかった。
俺はアーサーの背中を、ずっと見ていた。
(無事でいてくれ)
それだけを思っていた。
どのくらい時間が経ったかわからない。
戦況は、こちらに傾いていた。
騎士たちが敵の本陣に迫り、敵の隊列が崩れ始めていた。あと少し。あと少しで、終わる。
そのとき。
俺は感じた。
アーサーの死角から、何かが来た。
槍だった。
一騎の敵兵が、崩れた隊列の隙間から飛び込んできた。アーサーの背後から、真っ直ぐに——致命的な角度で——槍を構えて突っ込んでいた。
騎士たちは気づいていなかった。全員が前を向いていた。
エクスカリバーは前方にあった。間に合わない。
アーサーは気づいていなかった。
俺だけが、感じていた。
(来る)
時間が、引き延ばされたように感じた。
槍が、近づいてくる。
俺には手がない。足がない。
でも——
2センチ、動ける。
看護師として誰も助けられなかった。
間に合わなかった。
でも今は——
俺は意識を、革の端に集めた。
全部、集めた。
今まで感じたことのない激痛が走った。
考えている暇はなかった。
動いた。
腰に吊るされた鞘が、わずかに——しかし確実に——動いた。
槍の穂先が、鞘の端に当たった。
ほんの少し、軌道がずれた。
アーサーの体を、かすりもしなかった。
槍を持った敵兵が、勢いのまま横を通り過ぎていった。次の瞬間、ランスロットの剣がその兵を止めた。
全部で、二秒か三秒の出来事だった。
その瞬間から、俺の感覚が変わり始めた。
音が、遠くなった。
戦場の喧騒が、水の底から聞こえるように、ぼやけていった。アーサーの体温が——ずっと感じていた、あの温かさが——少しずつ薄れていくのがわかった。
(ああ)
そういうことか、と思った。
全力で動いた。止まらなかった。
砕けた端から、何かが抜けていくのを感じた。
意識が、遠のいていく。
(アーサー)
声が出なかった。
声が届く力も、もう残っていなかった。
(よかった)
それだけは、はっきりと思えた。
間に合った。
届いた。
看護師として誰も助けられなかった俺が、最後に一人だけ、助けることができた。
それがアーサーで——よかった。
意識が遠のく中で、不思議と前の世界を思い出した。
白い廊下。着たまま死んだ白衣。一度も患者のそばに立てなかった、あの朝のこと。
でも今日は違った。
間に合った。
戦場の音が、どんどん遠くなっていく。
アーサーの体温が、遠くなっていく。
(北の塔の景色、見たかったな)
最後にそう思った。
それから——何も、感じなくなった。
「王、ご無事ですか!」
ガウェインが駆け寄った。
「問題ない」
アーサーが答えた。声は静かだった。揺れていなかった。
「鞘が風で動いたのでしょうか、運がよかった」
ランスロットが言った。
他の騎士たちも頷いた。
風で動いた。
運がよかった。
誰も疑わなかった。鞘が自分の意志で動いたなどと、思いもしなかった。当たり前だ。鞘は動かない。鞘に意志などない。そういうものだから。
アーサーだけが、動かなかった。
ガウェインの声に「問題ない」と答えた後、アーサーは一歩、また一歩と、そこにある光る欠片に向かって歩いた。
砕けた鞘の破片が、土の上に落ちていた。
槍が当たった衝撃で、鞘の端が砕けていた。破片は小さかった。騎士たちには、ただの壊れた鞘の欠片にしか見えなかっただろう。
アーサーはその破片の前で、膝をついた。
そっと、拾い上げた。
手のひらに乗せた。
「……さーくん」
小さな声だった。
涙ぐんだ、小さな声だった。
騎士たちには聞こえなかったかもしれない。風の音に、紛れたかもしれない。
でもアーサーは確かに、そう呼んだ。
風じゃない。運じゃない。さーくんが、私を助けてくれた——アーサーはそれを、直感していた。
次の瞬間、アーサーは立ち上がった。
破片を、鎧の内側に、胸の近くに、そっとしまった。
誰にも見せないように。
誰にも気づかれないように。
そして前を向いた。
剣を構えた。
王として、戦い続けた。
騎士たちには、王が「凛として」見えた。
その頃、戦場の遠く。
丘の上に、一人の女が立っていた。
黒髪。赤い瞳。戦場を見下ろしていた。
「……十分ね」
それだけ言って、女は踵を返した。
アーサーへは、一瞥もしなかった。
目的は達した。鞘は砕けた。加護は消えた。
それだけだった。
その後アーサーがどうなろうと——モルガン・ル・フェイには、関係のないことだった。
戦況はその後、一気に決した。
敵の本陣が崩れ、撤退の号令が上がった。
勝利だった。
騎士たちが歓声を上げた。ランスロットが珍しく笑っていた。ガウェインが空に向かって何か叫んでいた。
アーサーは静かだった。
騎士たちの歓声を受けながら、ただ静かに前を向いていた。
胸の内側に、小さな破片を抱えたまま。
誰にも気づかれないように。
戦場に、さーくんの声はもう聞こえなかった。
アーサーはそれを知っていた。
知っていて、前を向いていた。
その頃、城では。
マーリンが水晶玉を覗いていた。
戦場が見えた。アーサーが見えた。砕けた鞘が見えた。
そして——丘の上から踵を返すモルガンの姿が見えた。
「……そういうことだったのね」
マーリンは静かに呟いた。
鞘を砕くことが目的だった。加護を奪うことが目的だった。
でも鞘は——自ら動いて、砕けた。
モルガンの計画通りに砕けたわけじゃない。さーくんが選んで、動いて、砕けた。
その違いを、マーリンだけが理解していた。
水晶玉の中のアーサーが、破片を胸にしまうのが見えた。
マーリンは水晶玉を、そっと手のひらで包んだ。
今夜の水晶玉には、もうさーくんは映らない。
それがわかっていた。
「……鞘くん」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
「あなたが変えたのよ、この先を」
少し間があった。
「ありがとう」
それだけ言って、マーリンは水晶玉を置いた。
窓の外に、夜が来ていた。
【第14話・了】
第14話までお読みいただき、ありがとうございます。
書き終えた後、しばらく画面を見つめてしまいました。
「北の塔の景色、見たかったな」
この一文を書くために、13話分を書いてきたんだと思います。
2センチという距離にどんな意味があるのか、食事の時間にこっそり練習を続けていたさーくんが何を思っていたのか——全部がこの一瞬に収束するように書きました。
そしてアーサーの「……さーくん」という一言。
泣きながら書きました、正直に言うと。
まだ物語は続きます。次回の第15話もお楽しみに。
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