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第9話「1ミリ動けた」

お疲れ様です、皆月葵です。

第9話「1ミリ動けた」を公開しました!


北方への出陣が迫り、緊迫感を増す城内。

いつも完璧な王として振る舞うアーサーが、深夜の寝室で初めて零した「本当の恐怖」。その言葉を受け取った主人公が、動き出したものとは――。

ぜひお楽しみください!

転生して、六ヶ月が経った。


城の空気が、変わり始めていた。


補給線の強化は予定通り進んでいた。二週間という期限を騎士たちはきっちり守り、北方への出陣準備が整いつつあった。謁見の間に届く報告の内容が、日に日に重くなっていく。斥候の数が増えた。国境付近の村が避難を始めた。


戦争の気配が、音もなく城に入り込んできていた。


そういう空気を、俺は知っていた。


病棟でも似たような空気があった。何かが起きる前の、静かな緊張感。誰も口に出さないけれど、全員が同じことを感じている——そういう空気だ。


昼の会議では、誰も余計なことを言わなくなっていた。


ランスロットもガウェインも、発言は簡潔で的確だった。いつものような応酬もない。全員が同じ方向を向いて、同じことを考えている。そういう空気だった。


アーサーは静かに会議を仕切った。


今日の左肩は下がっていなかった。


疲れていないわけではないだろう。でも今日のアーサーは、疲れを内側に完全に押し込んでいた。表情が、いつもより少し固い。


(頑張ってるな)


思いながら、俺は少し怖かった。


頑張れば頑張るほど、消耗していくのを俺だけが知っているから。


その夜。


アーサーは寝室に戻ってから、しばらく黙っていた。


俺も黙っていた。


いつもなら、アーサーの方から話しかけてくる。今日あったこと、明日のこと、他愛ない話。でも今夜は違った。ベッドに腰かけたまま、俺を膝の上に置いて、じっとしていた。


どのくらい、そうしていたかわからない。


「さーくん」


アーサーが呟いた。


「はい」


「出陣、来週になった」


「聞いてました」


また沈黙。


月明かりが差し込んでいた。


「さーくんは、怖いって思ったことある?」


俺は少し考えた。


「あります」


「何が怖かった?」


「アーサーが傷つくことが、怖いです」


アーサーが黙った。


その顔が、はっきりと見えた。


目を伏せて、膝の上の俺を見ていた。いつもの王の顔じゃない。何かを言おうとして、でも言えなくて——そういう顔だった。


少し間があってから、静かに言った。


「私も、怖い」


俺は何も言わなかった。


言葉を待った。


「戦が怖いんじゃない。負けることも、怖いけど、それだけじゃない」


アーサーが俺を、少し強く握った。


「騎士たちに何かあったら、って思うと——怖い。私の判断で、誰かが死ぬかもしれない。私が間違えたら、誰かが帰ってこないかもしれない」


月明かりが、静かに揺れた。


「王として怖いって言えない。言ったら、みんなが不安になる。だから言えない。でも」


アーサーの声が、わずかに揺れた。


「本当は、怖い」


俺は——


その言葉を、全部受け取った。


六ヶ月間、毎日見てきた。完璧な王として、一秒も気を抜かずに生きてきたこの子が、今夜「怖い」と言った。


誰にも言えなかった言葉を、俺に言った。


目に、うっすらと光るものがあった。


泣かないように、堪えていた。


(この子を守りたい)


思った。前にも思ったことがある。でも今夜のそれは、前とは違った。


もっと切実で、もっと直接的で——


(怖いって言える人が、俺のそばにいる)


前の世界で、俺は誰かのそばにいるために看護師になった。でも一人も看護できないまま死んだ。その後悔が、六ヶ月経った今もまだ残っている。


でも今夜、アーサーが「怖い」と言った。


その声を聞いて、俺は思った。


——ここで諦めたら、俺はまた、誰も助けられないまま終わる。


「怖くていいと思います」


俺は言った。


「え?」


「怖いのは、大事にしているものがあるからだと思うので」


アーサーが黙った。


「騎士たちのことを大事に思ってるから、怖い。それは王として正しいことだと思います」


「……さーくんって、たまにすごいこと言うね」


「看護師の受け売りです」


アーサーが小さく笑った。


泣きそうな、笑い声だった。


「ありがとう、さーくん」


「どういたしまして」


アーサーがゆっくりと横になった。俺を胸に抱えたまま。いつもの体勢で。


しばらくして、寝息が聞こえてきた。


今夜は、時間がかかった。


それでも眠れた。


翌日の昼。


アーサーが食事のために席についた。


エクスカリバーは壁に立てかけられていた。食事の間だけ、俺はアーサーのそばを離れる。


その隙に、俺は初めて本気で動こうとした。


マーリンに言われたあの夜から、ずっと考えていた。守る手段がない、という現実。「あなたが決めることよ」というマーリンの言葉。


できることを探した。


答えは単純だった。


動くことだ。


鞘は動けない。それは事実だ。でも「動けない」と「動かない」は違う。意識を集中させれば——ほんのわずかかもしれないけれど——何かが変わるかもしれない。


俺は意識を、体の端に集めた。


革の端に。縫い目の一点に。


集めて、集めて、集めて——


動いた。


ほんの少し。


1ミリか、それくらいの動きだった。誰も気づかない、誰も見ていない、食事中の静寂の中で——確かに、動いた。


(動いた)


信じられなかった。


もう一度、やった。


また動いた。


俺は何度も繰り返した。アーサーが食事を終えるまでの短い時間、ひたすら繰り返した。


やがてアーサーが立ち上がる気配がした。


食事が終わった。


俺は動くことをやめた。


1ミリ。


たった1ミリだった。


話にならない距離だった。でも——


(ゼロじゃなかった)


ゼロじゃなければ、続ければ変わるかもしれない。


看護師として学んだことの中に「回復というのは、毎日の小さな積み重ねだ」というものがあった。


アーサーが壁から俺を取り、腰に装着した。


いつも通りの午後が始まった。


でも俺の中で、何かが変わっていた。


毎日の食事の時間に、練習することにした。


アーサーに内緒で。


誰にも言わずに。


ただ、続けることにした。


好きな人が「怖い」と言った。


それだけで、十分だった。


【第9話・了】

第9話までお読みいただき、ありがとうございます!


ずっと背負ってきた重圧を初めて言葉にしたアーサーと、彼女のために「自分にできること」を始めようと決意した主人公の回でした。

たった1ミリの小さな一歩ですが、ここから彼がどうなっていくのか、ぜひ見守っていただければ幸いです。


「続きが気になる!」「さーくん頑張れ!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、応援ポチッと押していただけると本当に執筆の大きなエネルギーになります!

次回の第10話もお楽しみに!

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