第14話 白皙の貴公子はすべての期待値の斜め上(2)ヴラドの前世
人生やり直しには、保険が必要です。
その日は、なにかが狂っていた。
もう夏だというのに、朝の空気は骨の奥まで冷たい。
屋敷の広間の壁一面を占める巨大なタイルストーブに、季節外れの火が入れられる。
太陽は厚い雲の向こうで、灰色の染みのように滲んでいた。
地面には湿った霧が這い、村そのものが沼の底へ沈み込んだようだった。
春先から、村の異変は続いていた。
仔牛が二頭、立て続けに死んだ。
井戸水が濁った。
粉挽き小屋の息子が高熱を出し、夜ごと「窓の外に白い男が立っている」と泣き叫んだ。
鍛冶屋が囁く。
「あれだよ。屋敷の坊ちゃんだ」
誰も彼の名を呼ばなかった。
呼べば、向こうもこちらを知ってしまう気がしたからだ。
昼、彼は姿を見せない。
夕刻になると窓辺に立ち、青白い顔で森を見つめている。
夜更けには供も連れず、一人で歩く。
村人にとって、理解できないものは恐ろしく。
そして悪だった。
神に背くものだった。
だから、その晩。
男たちは鍬を持ち、鎌を持ち、杭を持ち、火をつけた松明を握って集まった。
まだ罪は証明されていない、と止めていた神父が病に倒れた。
それが、最後の一押しだった。
「あれは、俺たちを呪うストリゴイだ」
青年は書庫にいた。
机の上には、さまざまな本や図面が積まれている。
ペシュト大学で学んだ知識で、風土病のマラリアに苦しむ村人を救いたかった。
唯一の特効薬のキニーネを神父に与えたら、急激な溶血が起きて、合併症で倒れてしまった。
古ぼけた農機具を新しくして、飢える子供を減らしたかった。
鍛冶屋が顔を潰されたと憤った。
なんと言っても。
瀉血を見られたのは、とてもまずかった。
持ち帰った医学書の表紙を愛しげにさする。
あの遠く離れたペシュト大学の医学部で、生まれて初めて彼は人として扱われた。
もちろん病気によって奇異ではあったが、異端では無かったのだ。
懐かしい友が、恩師がいる。
新しい論文や薬の処方を送ってくれる者も多かった。
彼は自分の病について書かれた箇所を、何度も読み返していた。
日光に過敏に反応し、皮膚が爛れる。
慢性的貧血。
先天的歯列異常。
怪物ではない。
病気だ。
もっと早く。
そうはっきり言ってやれたら、母は心を壊すほど嘆かなくてすんだだろうか。
彼は母の泣き顔しか見たことがなかった。
それでも彼を愛しながら、母は逝った。
マリア・テレジアの侍医は、1755年に吸血鬼を迷信だと断じた。
科学は、文献は、そう証明している。
だが、ここでは、彼の故郷では、違った。
知識が、技術が、根深い迷信を追い払うには、半世紀では足りなかったのだ。
彼は静かに本を閉じた。
遠くから怒声が聞こえる。
来たのだ、と理解した。
父はウィーンへ出ている。
使用人たちは朝のうちに逃がした。
この屋敷には、もう自分しかいない。
扉が破られる音が響いた。
青年はゆっくり立ち上がり、鏡を見る。
青白い顔。痩せた頬。異様に長い犬歯。
彼は少しだけ笑った。
「なるほど」
たしかに。
たしかに、人ではないものに、見える。
広間へ引きずり出された青年は、縄で縛りあげられた。
村人たちは十字を切り、唾を吐き、石を投げる。
その輪の向こうから、一人の女が現れた。
イレアナだった。
彼女の指には、彼が贈った指輪がある。
「君まで来たのか」
彼女は泣いていた。
「ごめんなさい……みんな、あなたを殺さないと村が滅ぶって……」
青年はしばらく彼女を見つめ、それから静かに言った。
「指輪、似合っている」
彼女がしゃくりあげる。
「怖かったろう」
「……違う、私は……」
「いいんだ」
彼は微笑んだ。
その笑みがあまりにも穏やかで、彼女は余計に泣いた。
「君は悪くない。弱いだけだ」
次の瞬間、誰かが彼を蹴り飛ばした。
身体が床へ叩きつけられる。
鋤が擦れ合って金切り声をあげる。
松明が揺れる。
凶暴さ、無知、恐怖。
そして、歪んだ愉悦。
『……ああ……』
いったい、どちらが化け物なのだろう。
少しだけ悔しかった。
最後に見るものが、こんなにも醜い。
その時だった。
コツン。
硬質で、澄んだ音。
彼の視界に、繊細なサテンのハイヒールの爪先が現れる。
杭が、鎌が、あらゆる武器が振りかぶられた瞬間のまま、世界が止まった。
松明の炎すら揺らがない。
「シメオン・ゲオルギ・アセン様」
鈴を振るような、場違いに明るい声。
「輪廻異界渡航互助組合ブダ支店のヴァルガ・モニカと申します。迷信案件専門調査官を務めております」
女は慣れた手つきで、革の書類はさみを開く。
「確認いたします。貴方は『吸血鬼特約加入者』で間違いありませんね?」
青年は呆然と彼女を見上げた。
「また、『誤認による殺害被害者』として、来世特別補償対象に認定されております。つきましては、死後手続きのご説明を……」
寄木細工の床に、血が広がった。
視界を満たしたのは、白一色だった。
柔らかな寝台。見知らぬ天井。
そして、窓から差し込む、強烈な日差し。
肌が焼ける、裂ける。
苦痛の記憶が蘇り、とっさに身をかばう。
何も起こらなかった。
光が頬に触れる。掌に溜まる。
温かい。
彼は恐る恐る窓へ近づいた。
透明な窓の外には、青空が永遠に広がっていた。
雲が流れ、鳥が飛び。
世界は太陽の元にあった。
背後から、小柄な男が書類をめくりながら声をかける。
「シメオン・ゲオルギ・アセン様」
振り返る。
男は、青年が初めて見る、穏やかな他人の目をしていた。
「異界渡航補助宿泊所へようこそ。ご気分はいかがですか?」
一言も耳に入らない。
開けた窓に寄りかかる。
そうして。
彼は初めて泣いた。
子供のように、声を上げて泣いた。
泣きやむまで待っていた男が、穏やかに口を開く。
「輪廻異界渡航互助組合のニコライです。しばらく、貴方のサポートを担当いたします」
青年は涙を拭った。
大の男が嗚咽していたというのに、ニコライの態度は微塵も変わらない。
「今生での貴方は吸血鬼です。もっとも、特別補償対象に認定された改良版なので、昼行可能、通常食可。再生能力は極大です」
「魚は食べられるだろうか」
「はい?」
「魚だ。川魚でも海魚でも構わない」
「食べられますが」
「ならば、なんの問題もない」
「魚、お好きなのですか?」
青年は、少し考えた。
「まあ、そうであろうかな」
故郷では、秋になると豚を屠った。
村を所有する彼の父親の、どれほど小作人たちを気にかけているかを見せるパフォーマンスだ。
父親の名が叫ばれ、血の匂いが村中へ広がる。
獲物にむしゃぶりつく貪欲な連中を、儀式が終わるまで、彼は屋敷の窓から見ていた。
鎧戸と分厚いカーテンの陰から。
夜しか外へ出られなかった彼は、暗い湖で魚を釣っている時だけ、ひとりになれた。
誰にも見られずに。
誰からも恐れられずに。
「新しいお名前を選ばれますか? もちろん、前のままでも大丈夫ですよ」
青年は静かに微笑んだ。
「ヴラド」
前世で吸血鬼の代名詞となった名を、ありがたく頂くことにした。
ニコライは黙って書類に記入した。
「私は、ヴラドだ」
人たることに憧れていた青年は、もう何処にも存在しない。
獣道を歩く彼には影がない。
鏡は彼の姿を映さない。
以前の彼は、共同体の輪から無理やり追い出された。
今は違う。
自分から、輪の外に立っているだけだ。
そしてその傍らに仲間がいる。
転生者ケア事務所の保安担当、アカリ。
記録官、木村信也。
王立契約審議院の熊獣人ミシェコ。
魔物研究者レル。
ベテラン冒険者ウルスラ。
彼らは魔物幼体失踪事件と、その裏にある密猟組織の調査のため、山奥の旧坑道へ向かっていた。
「生じゃなくていいんだ」
ぽそりと。
焚き火の前で木村信也が思わず漏れた風に、そう言った。
ヴラドはバターの香り高い魚の切り身を口へ運ぶ。
「料理した方が美味い。なぜわざわざ劣る方を選ぶ」
魔物の乱獲を調査対処する旅で、よもやこんなオシャレなメニューが出てくるとは、誰も期待していなかった。
野営地が決まり、川に魚獲りに行ってくると姿を消したヴラドは、さらに桶の中からフライパンや調味料を取り出し、見事な手腕で白身魚のイン・パデッラを振る舞ったのだ。
「その歯で血を吸うんだと思ってました」
木村が指で牙の形を作る。
「ほら、管みたいにこう……ストロー?……」
「そんな構造なら、折れたら終わりだろう」
「折れたらどうするんです?」
「1日あれば治る」
木村の目が輝いた。
「ワニですね!」
「……ワニ……」
「凄いんですよ! 一生で何十回も歯が生え変わるんです!」
横からレルまで食いつく。
「実際、爬虫類系魔物には、そうした類似構造がありますんや」
興奮して語り始めるふたりを見て、ヴラドは笑った。
変わった連中だ。
だが。
嫌いではない。
行程3日目で、ヴラドが見当をつけた廃坑に近づいた。
「狙われているようだ」
ヴラドが呟いた直後。
背後の茂みから男たちが飛び出す。
3人。
一瞬で見てとった彼らの武器は、棍棒、粗末な刃物。
自分の恐怖を誤魔化すために叫び、無知のまま、己の不幸の形すら知らず、死ぬまでそこへ閉じ込められている「獣」たち。
男たちが襲いかかってきた。
ヴラドは声を上げなかった。
ただ、手にした天秤棒を、静かに横へ薙ぎ払った。
(続)
パート3は6/17の19時投稿です。
今回、ちょっと重かったですかね。復活目指します。
AIは、誤字脱字・用語チェックに使用しています。
記号‘’やら―やら勝手に入れられてイラッとしてますが(笑)
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@OhashiS202604 (大枦詩乃@異世界転生保険株式会社)




