第9話:『戦痕の景香』スキルの力
『モンスター生態研究所』の一室──
所長席もある最上位の研究室は、静かな熱気に満ちていた。
壁一面の本棚には古い文献がぎっしりと並び、
魔道具の淡い光が机の上で脈打つように揺れている。
その所長席の前──
リス尻尾の女性研究者『リリン』が、必死に言葉を重ねていた。
尻尾は緊張でふわふわと膨らみ、小さめの三角の耳がぴんと立っている。
所長は白い髭を指でつまみながら、穏やかな視線をリリンへ向けた。
「サブスキル『戦痕の景香』の特性、分かっとるじゃろ?」
リリンの耳がピクッと動く。
「はい!」
「『戦痕の景香』は、ある個体の戦いの記憶が“香り”のように漂って──」
「同種の他の個体に伝わる能力です!」
「うむっ」
「意図していない偶然の成功でも、それが伝わって再現可能になり──」
「積み重なれば“戦術”になる……そう理解しています!」
所長は満足げに頷き、長い白髭がゆらりと揺れた。
「うむうむ、お前さんは優秀じゃの」
「そうじゃ、言葉も文字もいらん」
「ただ、長い戦いの歴史があればよい──長ければ長いほど」
その言葉に、背後の研究員たちがボソボソと呟き始める。
「つまり、あいつら……考えてなくても強くなるってことだよな」
「知能に劣るモンスターを──」
「人類が未だに脅威とする理由のひとつだからね、これ」
「ほんと厄介……『戦痕の景香』か……」
所長は肩をすくめた。
「そういうことじゃ」
「儂ら人類が“言葉や文字”で進歩するように、あやつらも“香り”で進歩するんじゃよ」
リリンは手をぎゅっと握り、
(やっぱり、ハムモンも……)
と、胸の奥で小さく思った。
光が研究室の窓から差し込み、
尻尾の影を床にふわりと落とした。
◇
その頃、ハムマルは──
ふくっとした体を揺らしながら、短い二本足で立ち尽くしていた。
(なんてこった……!)
ホーンラビットを見逃した直後、それは草むらから現れた。
緑色のゼリーのような塊。
陽光を受けて半透明の体がきらりと光り、
ぷるん、ぷるん、と一定のリズムで揺れながら這っている。
(ラノベでもゲームでも、一番ポピュラーなスライム!)
(本物がこんなに近くに!!)
胸の奥がふわっと高鳴る。
だが、ただ喜んでいる場合ではなかった。
(ホーンラビットですら、ああだった……)
(襲ってくる?)
ハムマルは短い四肢で地面を踏みしめ、もふりと体を低く構えた。
その2メートルほど先──
グリーンスライムがぷるんと揺れながら進んでいく。
(たぶん、“グリーンスライム”って名前だよな……)
(お前はどうなんだい……?)
スライムが横切る。
ハムマルはジリっと向き直る。
(来るんかい?)
スライムが横切る。
ハムマルはジリっと向き直る。
(来ないんかい?)
スライムが横切る。
ハムマルはジリっと向き直る。
(来るんかい?)
そのまま、ぷるんと通り過ぎるグリーンスライム。
(来ないんかい──)
ハムマルは目で追いながら──
(ホントは、倒して糧にする方が良いはず……)
(ここは弱肉強食の世界っぽい……俺は甘いんだろうな……)
──風が毛並みを優しく揺らし、毛先がふわふわと陽光と遊ぶ。
ハムマルは目を閉じ、
短い右前足と左前足を腕組みっぽく重ねて考え込んだ。
(でも、自由って……好き勝手するってことじゃない)
(一方的に虐げて踏み台にする自由なら、俺はいらない)
(自由を奪う自由は自由じゃない!)
ハムマルの望む自由は、
とても不自由な自由だった。
◇
一方、『モンスター生態研究所』では──
リリンが、瞳を輝かせていた。
「なら、これからはハムモンも──」
「それはない」
ピシャッと空気を切るように同僚の男性研究者が遮った。
腕を組む白衣の胸元に鈍く光るプレート──そこには『アヴェル』と刻まれている。
尖った長い耳がぴくりと揺れ、どこか呆れた色を滲ませてリリンを見る。
「もう無理なんだよ」
「他のモンスターは、長い月日の蓄積がある」
リリンは肩をすくめつつ、
まだ諦めきれない様子で口を開く。
「でも、偶然が積み重なれば──」
アヴェルは芝居じみたポーズで、両手を上に広げた。
その仕草は、まるで“答えは決まってるだろ”と言わんばかり。
「今さら追いつけないよ──おバカなハムモンだしな」
「……うぅ……」
リリンはおずおずと小さく手を挙げた。
尻尾がしゅんと丸まり、声も小さくなる。
「ゴブリンとは言わないけど、せめてホーンラビットに──」
「ハムモンが追いつくには、何が必要でしょうか……?」
所長は白い髭を指でなでながら、穏やかに目を細めた。
「そうじゃのう……」
「他のモンスターは、もうハムモンのことを知り尽くしておる」
「僅かな偶然の成功があったとしても……よほど効率を上げねばならぬ」
「考えて戦う個体が現れるか──」
その言葉に、研究員たちがざわつく。
「えっ!? いえ、それは……」
「所長!?」
「所~長~?」
「所長がヤバい(笑)」
「所長、ハムモンの話しっすよ~」
「い、いや、例えばじゃ、例えば……」
所長は慌てて咳ばらいを一つし、続ける。
「参考になるのは……」
「遠い南の大草原、それを侵食し続ける“荒野”のモンスターたちかのぉ」
研究室の空気が一気に重くなる。
魔道具の淡い光、古い本の匂いもすっと意識から遠ざかる。
「南の荒野……あの天災指定で、なんの対処もできていない……」
「人類未踏の地獄エリアじゃん……」
「あの荒野に沸くモンスターは、すべて強力なコアスキル持ちで──」
「大地を枯らす“アースドレイン”も使うって」
「それで草原が荒野になっていくのか……」
長耳のアヴェルが低く呟く。
「一匹ずつは大したことはないけど、仲間を呼ぶランスホーネット……」
所長は頷く。
「そうじゃ、あれは最悪での」
「一匹でも害されれば、その敵を倒すために“集団で行動する”性質がある」
「知能は低レベルでも、コロニーを持つゆえに“戦闘蓄積”の効率が高い典型例じゃ」
「荒野周辺の国の軍が、それの討伐で……何度も壊滅しているって記録があるやつですね……」
「うむ」
所長は頷き、穏やかに続ける。
「ウルフ系のグレーファング、ダークファングも良い例じゃ」
「ステルス系のスキルで生存率が高いゆえ、これも戦闘蓄積の効率が高い」
研究員たちが顔をしかめる。
「それのせいで、あの荒野では冒険者が活動できないって聞いてる」
「ダークファングなんて、まったく見えないらしいからな」
「臭いもなく、音すらしないとか……」
「そんなのどうすればいいんだよ……」
「冒険者ギルドでは──その上位種も存在すると睨んでるらしい」
「ヤバすぎる……」
重苦しい空気が研究室を満たした、その時──
「あっ! スターダストが伸びしてる!」
「えっ!」
「伸びた!? めずらしい!」
「可愛い……!」
所長もアヴェルも“ガタッ!”と席を立つ。
「ラッキー!」
「ラッキーじゃな!」
視線が一斉に窓に集まり、研究室に喜びの声が広がる。
重苦しい空気が嘘みたいに、ふわっと軽くなっていった。
◇
その頃──
ハムマルも思いっきり伸びをしていた。
前足を揃えて地面に着け、背中をぐいっと反らし、
丸っこい尻がぽこんと盛り上がる。
眼は細く線のようになり、顔までにゅーっと伸びて、まるで餅のようだった。
二本足で立ち上がり、
鼻先を突き出して“くんくん”と匂いを嗅げば──
土の素朴な香り
草の青い香り
風の温かさ
すべてが新鮮で、胸がふわっと浮く。
さっきまでの戦いの記憶は、まだ頭の奥に残っている。
(……防衛用の穴を掘らなきゃ……)
そう思うのに──
怖さや警戒心が自由の前でふっと霞んでしまう。
その気持ちのままに走り出したら、もう止まらなかった。
(嬉しい~! 楽しい~!)
気づけば跳ねて
転がって
笑っていた。
でも、草が揺れるたびに、
「キュッ!」
驚いて声が漏れ、そのたびに我に返る。
(……いやいや、何やってるんだ、俺……)
(そうだ、穴を掘らないと!)
それでも──
風が気持ちよかった。
(…………)
(でも、ちょっとだけ……)
“慎重さ”より“気の緩み”が勝ってしまっていた。
後ろ足で軽快にステップを踏み、
前足をふわふわと振りながら、
わさわさと謎の踊りを舞い始める。
「キュキュキュッキュ♪ キュッキュッキュ~♪」
──陽だまりの草の上、映る影もくるくると躍る。
声が弾み、耳がぴょこぴょこ揺れる。
嬉しさがあふれ出して、そのまま風に乗って広がっていくようだった。
(ありがとう、この世界……!)
心の中で何度も叫び、
この瞬間すべてに感謝した。
世界が自分を歓迎してくれている──本気でそう感じた。
望みが叶った今、
これから先は、“全部がボーナスタイムだ”と、
ハムマルは心の底から思った。
草原の空気が、ふわりと揺れた。
その奥から──低く震える羽音が滲むように響いてくる。
──“ブゥゥゥン……”
(蜂の羽音かな……?)
ハムマルは耳をぴくりと動かし、
その音にほっこりとした気持ちを抱いた。
つぶらな瞳をまん丸に
口を少し開け
二本足で立って空を眺める。
その遥か上空──
ハムマルの無邪気な軌跡をなぞるように、ひとつの影が静かに旋回していた。
その動きには迷いがなく、
ただ淡々と獲物を測る冷たい視線だけがある。
──陽光を遮るたびに、無機質な複眼が、万華鏡のように冷たい光を散らす。
やがて影は──
風を切る角度へと身体を傾け──狩りの体勢へと入った。




