黄金色の継承
12月30日。水瀬家の台所は、夜明け前から立ち昇る真っ白な湯気と、規則正しい包丁の音に包まれていた。大掃除という「外側」の片付けを完璧に完遂した今、私たちの使命は「内側」の準備――水瀬家の味を重箱に詰める御節料理作りへと移行していた。
「いい、みゆ。御節っていうのは、ただの保存食じゃないのよ。一つひとつの形、色、詰め方に、家族の来年一年を管理する『願い』が込められているんだから。これを疎かにするっていうことは、新しい一年を無計画に迎えるのと同じことよ」
台所の主として采配を振るうお姉ちゃんの横顔は、大掃除の時以上に峻厳だった。三角巾をきりりと締め、エプロンの紐を固く結んだその姿は、まるで伝統を守る職人のようだ。コンロの上では、湊兄さんが一晩かけて戻し、丹念に灰汁を取り続けた黒豆が、重曹の力で艶やかな漆黒を湛えながら、コトコトと静かに踊っている。
「私はまだ、栗きんとんの裏ごしとか、海老の背わた取りくらいしか役に立てないけど……」
ボウルを抱えて申し訳なさそうにする私に、雫お姉ちゃんは味見用の小皿を片手に、鋭く、けれど慈しむような視線を向けた。
「今はそれでいいわ。裏ごしだって、根気がなきゃダマが残る。その丁寧さが最後に味の品格に出るの。でもね、来年はあんたがこの場所のメインに立つんだからね。今年は私の手捌き、火加減を切り替えるタイミング、そして何より『段取り』をしっかり目に焼き付けておきなさい。複数の鍋を同時に管理して、すべてを最高の状態で重箱に納める。この計画性が、家を切り盛りする力になるのよ」
「……責任重大だね。しっかり見ておくよ」
私は背筋を伸ばし、お姉ちゃんの手元を凝視した。紅白の蒲鉾を「松」の形に飾り切りにする指先の淀みなさ。筑前煮の蓮根や人参を、角を立てつつも味を芯まで染み込ませる絶妙な火の通し方。それは、一見すると地味な反復作業の連続に見えて、その実、極めて高い集中力と完成図からの逆算が必要な、知的で情熱的な作業だった。
午後を回り、香ばしい出汁の香りが家中に満ちた頃、勝手口の格子戸が遠慮がちに叩かれた。
「おーい、みゆ、湊さん。うちの母さんから『田作りの胡麻が足りなくなったから、少し分けてほしい』って言われてさ……うわっ、なんだよこれ。料亭の厨房か?」
現れたのは、首にタオルを巻いた掃除スタイルの陽太だった。台所に一歩足を踏み入れた途端、彼は鼻をひくつかせ、並べられた料理の数々に目を丸くした。
「陽太くん、ちょうどいいところに。その手、綺麗? だったらこの重箱の隅を、一分の曇りもなく拭き上げて。私のチェックは厳しいわよ」
「えっ、俺も!? ……あはは、了解。協力させてもらうよ」
お姉ちゃんに捕まった陽太は、苦笑しながらも真剣な顔つきでキッチンペーパーを手に取り、漆塗りの重箱を丁寧に磨き始めた。
「御節か……。うちはもう、母さんが戦場みたいな勢いで立ち回ってて、俺はさっきまで網戸の仕上げをさせられてたんだ。でもさ、こうして一年の終わりに、自分たちの手で手間暇かけて新しい年を迎える準備をするのって、なんか腹の底から力が湧いてくるよな」
「そうだね。お姉ちゃんには『来年はあんたが作るのよ』って予言されちゃったけど。私にこんなに綺麗に作れるかな」
「へぇ、みゆが作る御節か。……楽しみにしてるよ。来年の今頃、あんたがどんな顔でこの台所に立ってるか。俺もその味に相応しい自分になってなきゃな」
陽太はそう言って、悪戯っぽく笑った。その瞳には、今日まで積み重ねてきた日々への誇りと、明日を越えてやってくる新しい季節への静かな期待が、冬の午後の光のように宿っていた。
日が傾き、台所にオレンジ色の光が差し込む頃。重箱の第一段が、ついに完成の時を迎えた。
黄金色の栗きんとん、紅白のなます、艶やかな黒豆、そして飾り切りの蒲鉾。それらが一点の乱れもなく、整然と、かつ華やかに詰められている。
「……綺麗。まるでお手本みたい」
思わず感嘆の声を漏らすと、お姉ちゃんが満足げに頷き、私の肩を優しく、けれど強く叩いた。
「この並び一つにも、家族の幸せを願う意味があるの。管理された美しさは、そこに住む人を安心させ、明日への活力を与える。みゆ。あんたにはあんたの歩幅があるけれど、この家で守られてきた『誠実さ』だけは、料理を通しても忘れないようにね」
お姉ちゃんの言葉が、温かい一番出汁のように五臓六腑に沁み渡っていく。
台所に残る、豊かな香りと心地よい疲労感。
来年の今頃、私は誰のために、どんな思いを込めてこの重箱を埋めているだろうか。
受け継ぐべきバトンの重みを掌に感じながら、私は静かに、深まりゆく年の瀬を慈しんでいた。
12月31日。大晦日の朝、水瀬家は昨日までの重箱作りの熱気が嘘のような、厳かで刺すような静寂に包まれていた。窓の外ではどんよりとした冬雲が低く垂れ込め、予報通り激しい粉雪が視界を白く染め上げている。
「……これじゃあ、河川敷どころか庭に出るのも無理ね」
お姉ちゃんがリビングの窓越しに外を眺め、溜息をついた。積雪はすでに数センチに達し、風が吹くたびに雪煙が舞っている。
「湊、蓮くん。今日は無理に体を動かさないこと。新年を前に風邪でも引かれたら、私の管理不足だわ。練習はガレージでの軽い素振りとストレッチだけ。その代わり……」
お姉ちゃんが視線を向けた先。そこには、ダイニングテーブルを占拠するように参考書を広げた蓮さんの姿があった。
「蓮くんの受験勉強を最優先にするわよ。湊、あんたも自分の勉強をしなさい。みゆは、お姉ちゃんと一緒に年越し蕎麦の仕込みの最終確認。いいわね?」
「……了解した。効率的に進める」
湊兄さんは素直に頷き、蓮さんの隣に座って自身の課題に取り組み始めた。蓮さんは今回の滞在中、星和学院の外部受験という本番に備えている。その背中は、コートで見せる威圧感とは別の、知的な研ぎ澄まされた集中力を放っていた。
「……助かるよ、雫さん。この静寂こそ、今の僕に最も必要な栄養だ」
ペンを走らせる音だけが、ストーブの爆ぜる音に混じって規則正しく響く。私はキッチンで、お姉ちゃんに教わりながら、海老天の衣を溶き、ゆっくりと出汁を引いた。
1月4日からは、私と春花先輩たち女子テニス部の選抜メンバーだけで、あの西園寺女子の合同合宿へと乗り込むことになる。湊兄さんや蓮さん、そして陽太は、この水瀬家でさらに牙を研ぎ澄ませながら、私の帰りを待つことになるのだ。
(……私一人で、あの女王たちの領域に飛び込むんだ)
心細さがないと言えば嘘になる。けれど、隣の部屋で受験という孤独な戦いに挑んでいる蓮さんの横顔を見ていると、自然と背筋が伸びた。
夕刻。除夜の鐘の音が遠くから聞こえ始めた頃、キッチンから芳醇な出汁の香りがリビングへと流れ出した。
「さあ、みんな。勉強はそこまで。蕎麦が伸びないうちに食べましょう」
お姉ちゃんの優しい声に、湊兄さんと蓮さんがようやくペンを置いた。テーブルには、私が揚げた大ぶりの海老天がのった、温かい年越し蕎麦が並べられた。
「……いただきます」
四人で箸を揃え、温かい汁を啜る。外の猛吹雪とは対照的に、水瀬家のダイニングは湯気と温かな灯りに包まれていた。
「……美味しいな。みゆ、海老の揚げ方が上手くなった。衣が立っている」
蓮さんが、ふっと表情を和らげて言った。
「本当? お姉ちゃんに付きっきりで教えてもらったから……。よかった」
「ふん。まあ及第点だな。だが、この温かさに甘えるのは今夜までだぞ、みゆ」
湊兄さんが、私を見て不敵に笑った。
「1月4日からは、お前が星和の看板を背負って戦場へ行くんだ。その海老天みたいに、身を固めてしっかりやってこい」
「……わかってるよ、兄さん」
温かい蕎麦を啜りながら、私は窓の外を見やった。
積もり続ける雪が、すべての騒音を飲み込んでいく。
「……良い年になりそうだな、湊」
蓮さんが、器を置いて静かに呟いた。
「ああ。お前は合格を、みゆは西園寺からの収穫を。……最高の新年を連れてくるつもりだ」
嵐のような一年が、静かに幕を閉じようとしていた。
明日、太陽が昇れば、そこには新しい戦いが待っている。
1月1日。元日の朝、水瀬家のリビングは、昨日までの吹雪が嘘のように澄み渡った新春の光に満たされていた。窓の外に広がる銀世界が太陽を反射し、障子越しに柔らかな白さを室内に投げ込んでいる。
「……あけましておめでとうございます」
私が二階から下りていくと、そこにはすでに、凛とした空気を纏った湊兄さんと蓮さんの姿があった。二人は使い慣れたジャージではなく、仕立ての良い深い色合いの着物に身を包んでいる。湊兄さんは濃紺、蓮さんは落ち着いたチャコールグレー。座っているだけで、そこが公式な儀式の場であるかのような錯覚を覚えるほどの威圧感と気品だ。
「ああ、おめでとう、みゆ。一年の計は元旦にある。その寝ぼけ眼を早くシャキッとさせろ」
湊兄さんの相変わらずの物言いに苦笑していると、蓮さんが静かに私を見つめ、ふっと表情を和らげた。
「おめでとう、みゆ。……今日は受験生の顔を一度横に置いて、水瀬家の『始まり』に立ち会わせてもらうよ」
キッチンからは、お姉ちゃんが立ち働かせるお玉の音と、香ばしいお餅の焼ける匂いが漂ってくる。食卓には、昨日私たちが丹精込めて詰めた三段の重箱が、神聖な供物のように鎮座していた。
「さあ、みんな座って! 新年最初の食事は、身体の隅々まで『管理』を浸透させるための儀式よ。雑煮の出汁、柚子の香り、一滴の妥協もないからね」
お姉ちゃんの号令で、私たちは食卓を囲んだ。黄金色の栗きんとん、艶やかな黒豆、紅白のなます。自分たちが手を動かして作った料理が、重箱の中で誇らしげに並んでいる。それを口に運ぶたび、昨日の台所での熱気と、受け継いできた家庭の味が、身体の芯を温めていくのがわかった。
「……素晴らしいな。この御節には、迷いがない」
蓮さんが一口ごとに深く頷きながら、御節の味を噛み締めている。
「そうだろう。水瀬家の味は、合理性と誠実さの結晶だ。蓮、これでお前の脳にも、新年を戦い抜くための良質な栄養が行き渡ったはずだぞ」
湊兄さんの言葉に、蓮さんは「ああ、これならどんな難問も解けそうだ」と、珍しく冗談めかして応えた。穏やかで、けれどどこか背筋が伸びるような、水瀬家らしい新年の朝食。
しかし、食後の一息をつく間もなく、お姉ちゃんの瞳に鋭い光が宿った。
「さて! 寛ぐのはここまで。これから初詣に行くわよ。みゆ、二階へ。あなたの着付け、私が一分一秒の狂いもなく仕上げてあげるから!」
「……はいっ!」
お姉ちゃんに促され、私は二階の和室へと向かった。畳の上には、お母さんから譲り受けた藍色の振袖が広げられている。流水の紋様に、可憐な梅の花。静かな強さを感じさせるその色合いに、私は思わず息を呑んだ。
「いい、みゆ。振袖はただの衣装じゃない。自分の身を律し、覚悟を形にするための鎧なの。帯を締める時は、しっかり息を吐いて」
お姉ちゃんの指先が、魔法のように布を操っていく。長襦袢、着物、そして袋帯。何本もの腰紐が、私の身体を容赦なく締め上げていく。窮屈だけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。一巻きごとに、自分が「水瀬みゆ」という一人の選手として、そして一人の女性として、新しく生まれ変わっていくような感覚。
「……できたわ。鏡を見て」
お姉ちゃんに促され、私は全身鏡の前に立った。
そこには、ジャージ姿の私でも、制服姿の私でもない、凛とした佇まいの少女がいた。藍色の着物が、私の瞳の色をより深く、強く引き立てている。
「……これ、私?」
「そうよ。自信を持ちなさい。有明で女王に挑んだ時よりも、ずっといい顔をしてるわ」
お姉ちゃんが私の肩を優しく、けれど強く叩いた。
階下からは、すでに出発の準備を整えた湊兄さんと蓮さんの、雪を踏みしめる雪駄の音が聞こえてくる。
藍色の振袖を纏い、私は一歩一歩、慎重に階段を下りた。玄関では、濃紺の羽織袴で泰然と構える湊兄さんと、着物姿でも知的な静謐さを失わない蓮さんが待っていた。
「……お待たせしました」
私が声をかけると、二人が同時にこちらを振り返る。湊兄さんは一瞬だけ目を細め、フンと鼻で笑った。
「ようやく準備が整ったか。悪くない。その藍色は、水瀬家の『静かなる闘志』の色だ」
「湊の言う通りだね。みゆ、君の瞳の色がより深く見える。……とても、綺麗だ」
蓮さんの真っ直ぐな称賛に、私は気恥ずかしさを隠すように小さく会釈した。
私たちは連れ立って家を出た。雪に覆われた住宅街は、元日の朝特有の、すべての音が吸い込まれたような清浄な空気に満ちている。雪駄が新雪を踏みしめる「サクッ、サクッ」という規則正しい音が、耳に心地よく響いた。
神社の鳥居が見えてくると、そこには見覚えのある、少し着慣れない様子で袴の裾を気にしている人影があった。
「……あ、陽太!」
駆け寄る私に気づき、陽太が顔を上げた。ネイビーの羽織袴を纏った彼は、いつもの活発な印象とは打って変わって、どこか凛々しい若武者のような雰囲気を漂わせている。
「……っ! み、みゆ……」
陽太は私を見た瞬間、金縛りにあったように固まった。琥珀色の瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに耳の先まで赤くなっていく。
「……そんなに、変かな?」
不安になって尋ねると、陽太は慌てて首を激しく横に振った。
「ち、違う! 全然違う! ……めちゃくちゃ、その、綺麗すぎて……。クリスマスの時もすごかったけど、今日の着物のみゆは……なんていうか、目が離せねぇよ」
陽太は照れ隠しに鼻の頭をかき、それから背後に立つ湊兄さんと蓮さんを見て、居住まいを正した。
「湊さん、蓮さん。明けましておめでとうございます。今年も、ご指導よろしくお願いします!」
「ああ。陽太、お前もだ。……さて、願掛けに行くぞ。神様を待たせるな」
湊兄さんの先導で、私たちは賽銭箱の前へと進んだ。
冷たく澄んだ空気の中、二礼二拍手一拝。
私は目を閉じ、掌を合わせた。
(……1月4日からの合宿。西園寺女子という高い壁に、私の全部でぶつかってこれますように。そして、ここにいるみんなが、それぞれの目標に届きますように)
隣では陽太が、私よりも長く、そして強く拳を握って祈っていた。その横顔には、もう迷いはない。蓮さんもまた、眼前の受験合格と、その先の「世界」を見据えるような静かな祈りを捧げていた。
参拝を終え、境内の隅で甘酒を飲みながら、私たちは白銀の景色を眺めた。
「……蓮さん。受験まで、あと少しですね」
「ああ。やるべきことはすべてやった。あとは、この冬休みで湊や陽太から得た刺激を、解答用紙にぶつけるだけだ」
蓮さんは温かいカップを両手で包み、遠くを見つめた。
「1月4日。僕と湊、陽太はこの街で牙を研ぐ。みゆ、君は西園寺の城へ乗り込む。場所は違えど、僕たちの戦いは繋がっている。……忘れないでくれ。君の背後には、常に僕たちがついていることを」
「……はい!」
私は力強く頷いた。
振袖の袖を揺らす風はまだ冷たい。けれど、胸の奥に灯った「火種」は、かつてないほど明るく、私たちを照らしていた。
嵐のような一年が終わり、運命の新年が幕を開けた。
1月4日、出発の朝まで、あと三日。
私たちは、それぞれの頂を目指して、雪解けの道を歩み始めた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
年末と年始のお話でした。
1話に詰め込みすぎている気もしますが、駆け足で11章の締めくくりです。




