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神様の身代わり ―光の兄と、罪の妹―  作者: FERILU
第11章:凍てつく空気に灯る火種

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煤払いの日

12月27日。昨日の河川敷での激闘が嘘のように、冬の空はどこまでも高く、穏やかに晴れ渡っていた。しかし、水瀬家の玄関を一歩跨げば、そこは戦場さながらの熱気に包まれている。


「いい!? 今年のテーマは『徹底抗戦』よ! 埃の一粒、曇りの一点も逃さないこと! 湊、あんたは身長を生かして窓の上枠と照明の傘。みゆはキッチン周りの油汚れを根こそぎ落として!」


腰に手を当て、掃除機のノズルを指揮棒のように振るうのは、長女の雫だ。水瀬家の管理を任されている彼女にとって、家の中の乱れは容認しがたいものなのだろう。


「……了解した。効率的に進める」


あの湊兄さんですら、エプロンを締め、軍手をはめて神妙な面持ちで脚立に登っている。コートを支配する怪物の威圧感も、実の姉の号令の前では形無しだ。そんな騒がしいリビングの隅で、蓮が少し困ったように参考書の入ったバッグを抱えて立ち尽くしていた。


蓮さんは今回の遠征中、水瀬家に寝泊まりしている。目的は湊兄さんとの練習だけではない。難関校への受験を控え、この合宿期間中に勉強時間を確保することも彼にとっては譲れない課題だった。


「あの、雫さん。僕も居候の身として、何か手伝えることがあれば……」


遠慮がちに申し出た蓮に、雫はキッパリとした、それでいて温かい笑みを向けた。


「ダメよ、蓮くん。あなたは勉強しに来てるんだから。それに、明後日からはまた湊やみゆと地獄のような特訓が始まるんでしょ? 今日はしっかり机に向かってなさい」


雫はそう言い切ると、手に持っていた万能洗剤をバケツに置き、私を振り返った。


「みゆ、悪いけど蓮くんを近くの図書館まで案内してあげて。あそこなら暖房も効いてるし、学習スペースも広いでしょ。蓮くん、お昼はどうする? 近くに美味しいパン屋さんもあるけど、お弁当持っていく?」


「いや、道すがら適当に済ませるよ。気遣ってくれてありがとう」


蓮の返答を確認し、私は雫から「案内係」という重要任務を拝命して、蓮さんと共に家を出ることになった。


河川敷へと続く並木道を、蓮さんと二人で歩く。

昨日のコートで見せた、あの絶対零度の視線や、陽太を駒として操る非情な司令塔の面影はどこにもない。裸眼のまま、遠くの冬空を真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、どこまでも澄んでいた。


「ごめんね、蓮さん。うちのお姉ちゃん、ああなると止まらないから。巻き込んじゃって悪かったなって」


私が苦笑混じりに謝ると、蓮さんは少しだけ頬を緩めて私を見た。湊兄さんや他の選手には決して見せない、穏やかで優しい表情だ。


「いや、賑やかでいいと思うぞ。水瀬家らしい。それにしても、昨日の今日で即座に大掃除に切り替えられる湊の精神力には脱帽するな。僕はまだ、昨日のラリーの感覚が指先に残っているというのに」


「……あ。でも蓮さん、勉強もほどほどにしてね。明日からはまた、兄さんが何を言い出すかわからないし」


「わかっているさ。英気を養いつつ、やるべきことを進める」


図書館に着くと、私は重厚な自動ドアの前で足を止めた。


「じゃあ、私は戻って掃除の続きをしてくるね。夕方、キリの良いところでまた迎えに来るから。もしお腹が空いたら、さっき言ってたパン屋さん、本当に美味しいから寄ってみて」


「ありがとう、みゆ。助かる。夕方にまた」


蓮さんが静かに館内の静寂へと消えていくのを見送ってから、私は踵を返し、一人で我が家への道を歩き出した。


その帰り道、ふと思い立って学校のテニスコートの脇を通ってみることにした。

フェンス越しに覗き込むと、案の定、コートからは冬の空気を切り裂くような打球音と、火の出るような叱咤が響いていた。


「美咲! 足が止まってるわよ! 昨日の河村くんの足さばきを見たでしょ!? あと一歩、泥臭く踏み込みなさい!」

「奈緒、ラケットを振り回さない! 面で捉えるの! 来年こそレギュラーの座勝ち取るんでしょ!?」


鋭い声を飛ばしているのは、新部長の佐藤春花先輩だった。

コート内では、同学年の美咲と奈緒が、髪を振り乱して必死にボールを追いかけている。左右に振られ、膝が笑い、息が上がっているのが遠目からでもわかる。


「はぁ、はぁ……っ、春花部長……、昨日の今日でメニュー厳しすぎ……!」

「何甘いこと言ってるの! みゆと陽太くんは、今もあの怪物二人と一緒に戦ってるのよ! 私たちがここでぬるま湯に浸かってて、どうやって星和を支えるの!」


春花先輩の厳しい言葉。その裏側にある、私たちへの揺るぎない信頼と、部を背負って立つ覚悟。彼女たちも、それぞれの場所で、自分たちの「怪物」と戦っているのだ。


(……そうだ。私も、掃除をサボってる場合じゃない)


雑巾を握る手、床を磨く膝。そのすべてが、コートでの粘りに繋がるはずだ。私は、必死に食らいつく二人の姿を心に焼き付け、自分自身の戦場である「大掃除」を完遂すべく、足早に家へと駆け出した。


家に戻ると、そこはさらに「管理」の行き届いた厳格な空間へと変貌を遂げていた。

玄関のドアを開けた瞬間、冷たい外気とは対照的な、規律の取れた熱を帯びた雫お姉ちゃんの指示が飛ぶ。


「おかえり、みゆ。案内ご苦労様。さあ、一秒も無駄にしないで。まずは二階の廊下から一階の玄関まで、一気に拭き掃除! 水気は最小限に、木目に沿って丁寧にね」


雫お姉ちゃんの掃除は、単なる「片付け」ではない。水瀬家の長女として、この家を預かり、最良の状態に保つ者としての「責任感」がすべてだ。少しでも拭き跡が残っていれば「材質が傷むわ」とやり直しを命じられ、廊下の隅に埃を見つければ「管理不足は家を腐らせるのよ」と、一切の妥協を許さない。


「兄さん、そっちはどう?」

脚立の上で、天井照明の笠をミリ単位の狂いもなく拭き上げている湊兄さんに声をかける。


「……姉さんの判断は正しい。家という基盤を整えることは、生活の質を担保する。姉さんの管理能力は、ある種の美学すら感じさせるな。みゆ、お前も私語を慎み、自分の担当区域を完璧に仕上げろ」


湊兄さんは至極真面目な顔で、照明を鏡のように磨き上げていた。湊兄さんにとって、この大掃除は「合理的な環境整備」として完全に納得のいく作業らしい。


二時間ほど廊下と格闘し、ようやく庭に面した縁側の雑巾を絞りに外へ出た。

冷たい空気で火照った頬を冷ましていると、生垣の向こう側から「ああっ、またズレた! クソっ……」という、どこか抜けた声が聞こえてきた。


「……陽太?」


生垣越しに覗き込むと、河村家の庭では、陽太が大きな網戸のフレームと格闘していた。

水瀬家の張り詰めた空気とは対照的に、あちらは「年末の一般家庭」らしい等身大な光景だ。物置から出されたバケツや古い新聞紙が散らかり、陽太はゴムパッキンを溝に押し込もうとしては網を歪ませ、四苦八苦している。


「陽太、網戸の張り替え?」


「あ、みゆ……。見ての通りだよ。お袋に『あんたの部屋の網戸、穴だらけじゃない! 年内に直しなさい!』って言われてさ。簡単そうに見えたのに、これめちゃくちゃ難しいな。……すぐ弛んじゃうんだよ」


陽太は鼻の頭に煤をつけたまま、カッターを片手に苦笑いした。その足元には、切り損ねた網の切れ端が散らばっている。


「わかる。張り替えってコツがいるもんね。うちはお姉ちゃんが『家の保存状態を考えなさい!』って厳しくて、私は廊下の拭き掃除を三回もやり直しさせられたところだよ」


「はは、雫さん厳しいなぁ。でもさ……」

陽太は歪んだ網を一度剥がし、真剣な目でフレームを見つめた。

「これくらいピシッと直せないようじゃ、湊さんや蓮さんの精密なプレーには到底届かない気がしてさ。1月4日、みゆたちが西園寺の合宿に行ってる間、俺はあの二人にしごかれるんだ。こんな網戸一枚で根をあげてられないよな」


陽太の瞳には、既に「特訓」を見据えた静かな闘志が宿っていた。


「……うん。私も。春花先輩たちも学校で頑張ってたし、私たちも自分のやるべきことを終わらせて、胸を張って新年を迎えよう」


「おう! 終わったら、少しだけ素振り付き合えよな」


「お姉ちゃんの許可が出ればね!」


私たちが笑い合っていると、それぞれの家の中から「みゆ!」「陽太、網戸まだ終わらないの!?」と、厳しい声が重なった。


「……じゃあ、また後で!」


私たちは短く合図を交わし、再び自分の「戦場」へと戻った。

冷たい水で雑巾を絞る。指先がかじかむけれど、心は不思議と澄み渡っていた。

家を整える手触りが、そのまま自分を磨く手応えに変わっていく。

私たちは、それぞれの戦いへと備えていた。



夕闇が街を包み始める頃、私はお姉ちゃんからようやく「解放」の許可を得て、蓮さんを迎えに図書館へと向かった。


静まり返った閲覧室の奥、窓際の席に蓮の姿を見つけた。彼はコートで見せるあの鋭い眼光を、今は一冊の厚い参考書へと向けている。一点を見つめてペンを走らせるその横顔は、近寄りがたいほどの集中力に満ちていた。


私が隣の席にそっと腰を下ろすと、蓮さんは視線だけをこちらに向け、短く「終わったのか」とだけ囁いた。私が頷くと、彼は区切りの良いところでノートを閉じ、バッグにまとめた。


「お疲れ様。……少し、歩かないか?」


蓮さんに促され、私たちは図書館を出て夕暮れの河川敷へと向かった。そこには、網戸の張り替えを終えたらしい陽太と、既に自主練の準備を整えた湊兄さんが待っていた。


オレンジ色に染まった土手の上で、四人が顔を合わせる。


「湊さん、蓮さん。明日からもよろしく頼みます。俺、この二日間で掴みかけたものを、絶対に自分のものにしてみせます」


陽太が力強く宣言した。1月4日から、私と女子テニス部の選抜メンバー数人は西園寺女子の合同合宿へと向かう。一方で、陽太は湊兄さんと蓮さんの二人による、さらに過酷な「怪物特訓」に身を投じることになっている。


「……陽太、死ぬ気でついてこい。お前の『野生』を、俺と蓮が徹底的に調律してやる」


湊兄さんの言葉に、陽太は不敵な笑みで応えた。二人の間には、昨日までの「敵」としての殺気ではなく、同じ高みを目指す師弟にも似た熱い絆が芽生え始めていた。


「みゆ」


蓮さんが私の隣に立ち、穏やかな、けれど芯の通った声で言った。


「西園寺の合宿は、想像以上に厳しいものになるだろう。あそこには『自分こそが女王だ』と信じて疑わない者たちが集まる。君がこの数日間で培った『粘り』が、彼女たちのプライドをどこまで揺さぶれるか……楽しみにしているよ」


「うん。……私、頑張る。兄さんや陽太がもっと強くなる間に、私も西園寺の空気に負けないくらい、自分を磨いてくる」


冷たい冬の風が吹き抜ける中、私たちはそれぞれの決意を胸に、沈みゆく太陽を見つめた。

大掃除で家を整え、心に溜まった煤を払い落とした今、私たちの視界はかつてないほどクリアだ。


「よし、帰るぞ。明日は朝から調整だ」


湊兄さんの合図で、私たちは歩き出した。

嵐のような一年が終わりを告げようとしている。

けれど、それは私たちにとっての「本当の始まり」に過ぎなかった。


おはようございます。

作者のFERILUです。


『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』

を読んでくださりありがとうございます。



年末の大掃除、去年やりましたか?

私は父親がとことんやるタイプなので、結構本格的にやってます。

敗れた網戸の交換、エアコンを外して高圧洗浄で汚れを落として再度取り付け。

2年に1回やってるんだけど、エアコン内部の汚れってひどいんです。

それにしても水浸しにしても壊れないのってすごいなと別のことに感心している自分がいました。


次は年末年始の話題ですが、サクッと進めます。

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