氷炎のダブルス
12月25日。昨日の甘いホワイト・クリスマスの余韻を胸の奥に仕舞い込み、私と陽太は冬休みの静けさが漂う学校のテニスコートへと足を運んでいた。
明日、26日に行われる湊兄さんと蓮さんを交えた「シャッフル・マッチ」。それは私たちの冬休み、ひいてはこれからの選手生命を左右するほど重要な一戦になる。そのためには、新体制となったテニス部への義理を通しておかなければならなかった。
コートでは、新部長の佐久間良先輩と、女子部長の佐藤春花先輩が部員たちを熱心に指導していた。
「佐久間部長、佐藤部長。今、少しお時間よろしいでしょうか」
私の呼びかけに、二人が足を止めてこちらへ駆け寄ってくる。
「水瀬に河村。どうしたんだ? 改まって」
佐久間先輩が不思議そうに首を傾げる。春花先輩も「何かあったの?」と優しく微笑んでくれたけれど、私は表情を引き締めて言葉を繋いだ。
「はい。実はご報告がありまして……。明日からの冬休み期間、私と陽太は部活動の練習を一時離れさせていただくことになりました。兄の水瀬湊と、帝都大附属の北条蓮さんと共に、外部のコートで集中トレーニングを行うことになったんです」
その言葉に、先輩方の表情に緊張が走った。
「驚いた、北条さんが来てるのか」
「……あの湊先輩と、北条さんと。本気なんだな、二人とも」
佐久間先輩の問いに、陽太が一歩前に出て、力強く頷いた。
「はい。今のままの俺じゃ、湊さんを越えることも、北条さんと肩を並べることもできません。選抜合戦のような環境に飛び込んで、自分を叩き直してきたいんです」
私は、ポケットに入れていた湊兄さんからのメモを思い出し、それを付け加えた。
「それから、兄さんからの伝言です。『向上心のある奴がいれば、見学でも参加でも許可する。ただし、俺のメニューに口を出すな』……とのことです」
「湊先輩らしいな……」
佐久間先輩は苦笑しながらも、その瞳には熱い光が宿った。
「わかった。部長として、二人の挑戦を応援するよ。向上心のある部員たちにも、その伝言は伝えておく。……星和のエース二人が、化け物になって戻ってくるのを楽しみにしてるぞ」
春花先輩も、私の手をぎゅっと握ってくれた。
「みゆ、西園寺女子に勝つための『何か』、必ず掴んできてね。みんなで待ってるから」
仲間の激励を背に受け、私たちは学校を後にした。
河川敷へ向かう道すがら、陽太がポツリと呟いた。
「……先輩たちに宣言しちまった。もう、死んでも格好悪い姿は見せられねぇな」
「うん。……明日のシャッフル・マッチ、私たちの『全部』をぶつけよう」
河川敷のコートでは、すでに湊兄さんと蓮さんが最終調整の乱打を始めていた。乾いた打球音が、凍てつく空気に鋭く木霊している。明日、この場所で、私たちは恋人の顔を捨て、最強の壁へと挑むことになる。
12月26日、午前8時。
河川敷のテニスコートは、遮るもののない極寒の暴風にさらされていた。霜で白く硬化した土を、数人の部員たちが寒さに震えながら見守っている。佐久間先輩や春花先輩も、湊兄さんの「地獄のメニュー」を一目見ようと、微動だにせずコートサイドに陣取っていた。
「……始めるぞ。ルールは1セットマッチだ。だが、ただの練習試合だと思うな。一球でも気を抜いた奴は、その場でコートから叩き出す」
コート中央、湊兄さんの声が冬の冷気よりも鋭く鼓膜を刺す。その隣には、既に完璧な集中状態に入った蓮さんが、静かにラケットを構えていた。氷のような瞳が、私と陽太を射抜く。
「陽太、みゆ。君たちの『今日までの限界』をここで捨てろ。そうでなければ、僕たちの足元にも及ばない」
蓮さんの冷徹な宣言。それが、爆発の合図だった。
第1ゲーム、蓮さんのサービスゲーム。
一昨日の穏やかな記憶など、この瞬間に霧散した。私の手には、鈍い光を放つラケットの重厚な感触だけがある。陽太もまた、獣のような鋭い目つきで前衛に構え、殺気を放っていた。
「――行くぞ、陽太!」
蓮さんの放ったサーブが、空気を切り裂く轟音と共に私のバックサイドへ突き刺さる。
「……っ!」
速い。一昨日までの乱打とは、球の重みも回転も別次元だ。私は弾き飛ばされそうになる腕を必死に抑え込み、スライスで滞空時間を稼いで深く返した。
「甘いぜ、みゆ!」
陽太が爆発的な脚力で跳躍した。私の返球を、ネット際で叩き潰そうとする。
だがその瞬間、私の前に立つ湊兄さんの背中が、巨大な壁となって陽太の視界を塞いだ。
「陽太、コースが丸見えだぞ」
湊兄さんは陽太のスマッシュを、ボレーで平然と切り返した。それも、陽太が着地する瞬間の、最も身動きが取れない足元へ、寸分の狂いもなく。
「……15-0」
湊兄さんの冷ややかなコールが響く。
「みゆ、今の返球が浮いたせいで陽太に隙を与えた。だが陽太、お前はその隙を仕留めきれなかった。……両者ともに、西園寺女子や帝都のレギュラーには通用しないゴミのような一打だ」
「……っ、もう一回だ!」
陽太が吠える。
試合は序盤から、湊兄さんの圧倒的な「支配」と、蓮さんの精密な「誘導」に翻弄される形となった。湊兄さんは私の泥臭い守備を盾にしながら、蓮さんの隙を虎視眈々と狙う。一方で蓮さんは、荒削りな陽太を駒として使い、私の守備を一点突破しようと氷の牙を剥く。
「陽太、右だ。僕がコースを作る。君はただ、己の『本能』に従って振り抜け」
蓮さんの指示が飛んだ瞬間、陽太の動きが劇的に変わった。
迷いが消え、蓮さんの作ったわずかな「道」を、陽太の爆発的なスピードが駆け抜ける。
「……これが、蓮さんのダブルス……!」
戦慄した。蓮さんは陽太を「操っている」のではない。陽太という炎を最も効率よく燃え上がらせるための「酸素」を、絶妙なタイミングで送り込んでいるのだ。
対する湊兄さんは、不敵に口角を上げた。
「面白い。……みゆ、作戦変更だ。ここからはお前を『囮』にする。死ぬ気でボールに食らいついてこい」
湊兄さんの目が、獲物を仕留める直前の猛禽類のように鋭く光る。
非情で苛烈な「怪物の時間」が、極寒の河川敷で加速していった。
「……っ、あああああ!」
陽太の咆哮が、冬の乾いた空気を震わせる。
ゲームカウントは5-5。もはや誰も、これが中学生の練習試合だとは思っていない。コートサイドで見守る佐久間先輩たちの顔からも、余裕は消え失せていた。
湊兄さんは、さらにギアを上げた。私を「囮」にすると言った言葉通り、湊兄さんは私に極限の守備を強いる一方で、自らは蓮さんの予測を上回る超攻撃的なポジショニングでコートを支配し始める。
「みゆ、動くな! その場で拾え!」
湊兄さんの冷徹な指示が飛ぶ。私は必死に、蓮さんが放つ正確無比なショットに食らいつく。足の感覚はとっくに消え、ただ「ボールを兄さんの領域へ運ぶ」という本能だけで動いていた。
だが、その均衡を破ったのは、蓮さんに導かれた陽太だった。
「湊……『支配』は、ここまでにしようか。陽太、今だ!」
蓮さんが放った極低弾道のカットショット。私が必死にスライスで持ち上げたその球は、甘い弧を描いてネット際に浮いた。
絶好のチャンス。だが、そこには当然のように兄さんが「壁」として立ちはだかっている。
「陽太、打てぇっ!」
蓮さんの声に呼応し、陽太が跳躍した。湊兄さんは、陽太の十八番である「ストレートの強打」を潰すべく、一歩そちらへ踏み出す。
しかし、空中で陽太が見せたのは、暴力的な破壊衝動ではなく、蓮さんの冷徹さを宿した「静寂」だった。
陽太は土壇場で手首を返し、湊兄さんの逆を突くショートクロスへと、魂を削り出したようなドロップショットを放った。
「……なにっ!?」
あの湊兄さんの目が、驚愕に大きく見開かれる。
湊兄さんの指先をかすめ、ボールが二度、コートで跳ねた。
「……ゲームセット。6-5。勝者、蓮・陽太ペア」
沈黙が支配した河川敷に、蓮さんの静かな声が響き渡った。
私はラケットを杖のようにしてその場に膝をつく。隣では陽太が、自分の手を見つめながら激しく肩を揺らしていた。
「湊……。どうやら、僕たちの賭けは成立したようだね」
蓮さんが歩み寄る。兄さんは一瞬だけ悔しそうに顔を歪めたが、すぐに不敵な笑みを取り戻した。
「及第点だ。陽太、お前は蓮の隣で、ようやく自分の『野生』を制御する方法を学んだようだな。そしてみゆ、お前は絶望的な状況下で、一度も視線を切らなかった。……それが、西園寺女子のプレッシャーに抗うための最低条件だ」
湊兄さんはバッグの奥から、二通の重厚な黒い封筒を取り出した。
「これを受け取れ。……1月4日から始まる、西園寺女子との合同合宿の招待状だ。この試合で無様な姿を見せれば、目の前で燃やして捨てるつもりだった」
湊兄さんは、一通を女子部長の春花先輩へ、そしてもう一通を私へと手渡した。
「……私に?」
春花先輩が、震える手でそれを受け取る。
「そうだ、学校宛に届いていたものを佐々木会長から預かっていたものだ。それは西園寺女子から星和学院女子テニス部への正式な招待状だ。参加者は部長であるお前を含め、最大八名まで。誰を連れていくか、この数日間で見極めろ。……生半可な覚悟の奴を連れていけば、星和の看板に泥を塗ることになるぞ」
春花先輩の顔に、部長としての強い覚悟が走った。
「八名……。わかりました。責任を持って、本気で強くなりたいメンバーを選抜します」
一方、私に手渡された封筒の中には、雪のように白い便箋が入っていた。そこには、有明で私が第三試合で対峙した白河こころさんからの、穏やかで芯のあるメッセージが綴られていた。
『水瀬さん、お久しぶり。冬休み、いかがお過ごしですか?
私、この度西園寺女子の部長に就任することになりました。
有明であなたが見せた、あの「不純物」混じりの真っ直ぐなテニス……。
私の最適解を鮮やかに踏み荒らしたあなたの瞳が、今も忘れられません。
新しいチームの門出に、私はどうしても、私に「完敗」を教えてくれたあなたを招きたい。
鳳仙さんも、あなたの再来を心待ちにしていますよ。
星和のエースとして、必ず来てくださいね。コートでまた、あの続きをしましょう。』
「……白河さん」
部長就任の報告と、私への指名。それは有明での礼儀正しい微笑みを湛えながらも、決して逃げ場を与えない「女王」としての優雅な招待状だった。
湊兄さんは視線をコートサイドで固まっていた部員たちへと向けた。
「おい。ただ呆然と見ていたわけじゃないだろうな」
湊兄さんの低い声が響くと、部員たちはビクリと肩を揺らした。湊兄さんはラケットを肩に担ぎ、鋭い眼光を見学者たちに飛ばす。
「今の試合を見て、何を感じた。参考になった点、あるいは自分ならこう動いたという改善点……何でもいい。向上心があるなら、自分の言葉で吐き出してみろ」
沈黙が流れる中、最初に口を開いたのは佐久間先輩だった。
「……圧倒されました。特に陽太の、蓮さんのリードを信じ切った動き。自分なら、湊先輩の威圧感にあそこでストレートを打ち込む勇気は持てなかったはずです。でも、改善点というか……みゆと湊先輩の連携。みゆが拾った後、湊先輩が動くまでのコンマ数秒、あそこにわずかな隙が見えました。僕たちならそこを突く前に潰されますが、西園寺女子ならそこを逃さないはずです」
「……ほう」
湊兄さんがわずかに目を細める。
「みゆ。今のを聞いたか。お前の返球が安定しなければ、俺のカバーは常に後手に回る。部長の言う通り、西園寺の連中ならそこを確実に抉ってくるだろう」
続けて、女子部長の春花先輩が、震える声を絞り出した。
「私は、みゆの粘りに勇気をもらいました。どんなに追い詰められても、絶対に『決まった』と諦めない姿勢……。でも、湊さん。みゆに守備を任せすぎではありませんか? もしみゆの心が折れたら、その瞬間にこのペアは崩壊します。それが改善点というか……不安要素に見えました」
「心か。……面白い視点だ」
湊兄さんは不敵に口角を上げた。
「聞いたか、お前ら。これが外から見た現実だ。陽太、蓮を信じるのはいいが、信じすぎて自分の牙を忘れるな。みゆ。お前が折れれば俺の戦略はすべて灰になる。……わかったなら、その招待状の重さを胸に刻んでおけ」
部員たちは、湊兄さんの言葉を一つも漏らさぬよう、真剣な表情で頷いた。
河川敷の冷たい風は止まない。けれど、招待状を手にした春花先輩や部員たちの胸にも、今の激闘から得た確かな「火種」が灯っていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
内容結構詰め込みました。
湊&みゆ vs 連&陽太
湊と蓮は指導を中心に動いているため、実力を全て出しているわけではないです。
女子テニス部の2泊3日の合宿予定となります。
12章はこちらの合宿がメインになります。




