氷と炎の競演
勉強会の張り詰めた空気を纏ったまま、私たちは厚手のジャージを羽織り、河川敷のコートへと移動した。冬の午後の光は低く、コートを斜めに切り裂いている。吐き出す息は白いけれど、隣を歩く陽太と蓮さんから伝わってくる熱気に、私の肌はじりじりと焦げるような錯覚を覚えた。
「……さて。蓮、まずは陽太の『現在地』を分からせてやってくれ」
審判台に腰を下ろした湊兄さんの、低く冷徹な号令が響く。
全国大会準決勝。陽太が蓮さんの「絶対零度」のテニスに翻弄され、6-2で敗北したあの日。ネット越しに差し伸べられた蓮さんの右手と、「お前の熱、確かに俺の氷に届いた」という静かな賛辞。陽太はその言葉を胸に、今日までの一秒一秒を、あの「氷」を溶かすためだけに費やしてきたのだ。
「了解した。……陽太、準備はいいか」
蓮さんがラケットを構える。ジャージ姿であっても、その佇まいは一点の隙もない。
対する陽太は、琥珀色の瞳をかつてないほど激しく燃え上がらせていた。
「……お願いしますッ! あの日から、あんたを溶かすことだけを考えてきた!」
練習が始まった瞬間、コートの空気が一変した。
蓮さんの放つショットは、有明の時よりもさらに研ぎ澄まされ、無駄が削ぎ落とされている。低く、鋭く、まるで物理法則を無視したかのように滑る軌道。
「……っ、相変わらず、精密機械みたいだ……!」
陽太が泥臭く食らいつくが、蓮さんは表情一つ変えず、最小限の動きで陽太を左右に揺さぶる。かつて陽太の心を折りかけた、音もなく砂を跳ね上げるドロップボレー。そして、重力さえ味方につけた深いロブ。蓮さんのテニスは、熱く燃えようとする陽太の火種を、一球ごとに冷静に、そして確実に摘み取っていく。
「陽太、熱くなるのは構わないが、視界まで曇らせるな。思考を止めるなと言ったはずだ」
蓮さんの淡々とした、けれど「兄貴分」としての深い厳しさが籠もった指摘が飛ぶ。
「みゆ、お前も入れ。女子のエースがいつまでも外で見ているな」
湊兄さんの鋭い声に、私はハッとしてジャージを脱ぎ捨てた。
「はい!」
私はラケットを手に、陽太の隣に並ぶ。今の私は、湊兄さんの後ろに隠れていた頃の私ではない。西園寺女子という巨大な壁を見据え、自分のリズムで「女王の計算」を狂わせようとする、星和のエースとしての自覚がある。
「蓮さん、私も行きます!」
「いいだろう。二人まとめて、その熱を冷ましてやる」
蓮さんの視線が私を捉えた瞬間、ほんの微かにだけ温度が宿った気がした。けれど、次の瞬間にはまた「氷の貴公子」の鋭利な瞳に戻る。
私と陽太の連係。私が前衛でリズムを作り、陽太が後方から重い一打を叩き込む。けれど、蓮さんはその二人の攻撃を、まるで最初から軌道を知っていたかのように、流れるような動作で捌ききっていく。
「……っ、届かない……!」
私がネット際で渾身のボレーを放っても、蓮さんはその一打を予測していたかのように、鏡のような冷静さでカウンターを返してくる。陽太と私の二人がかりでも、彼の「完璧な計算」を崩し切ることができない。
「どうした、二人とも。そんなもので鳳仙雅や不知火焔を引きずり出せると思っているのか」
蓮さんの冷徹な挑発。
陽太は荒い息を吐きながら、けれど不敵に笑った。
「……へへ、これだよ。これこそ、俺が求めていた壁だ……!」
「蓮さん、もう一回! もう一回お願いします!」
私の叫びに、湊兄さんがニヤリと口角を上げた。
「いいだろう。蓮、二人を徹底的に追い詰めろ。その氷が溶け出すまでな」
絶対零度の氷と、それに挑む二人の炎。
冬の冷気の中、コートからは激しい打球音と、限界を超えようとする三人の熱い吐息が、白く立ち上っていた。
陽太と私の二人がかりでも、蓮さんの「氷」は微動だにしない。それどころか、私たちが動けば動くほど、蓮さんの返球は鋭さを増していくようだった。
「みゆ、右だ! 陽太、カバーが遅い!」
審判台から湊兄さんの罵声に近い指示が飛ぶ。
私は肺が焼けるような感覚を覚えながら、蓮さんが放つ低軌道のスライスに飛びついた。有明で湊兄さんに見せてもらった「景色」を必死に手繰り寄せる。相手の動きを波紋として捉え、その中心へ自分のリズムを叩き込む――。
「……そこっ!」
私が放ったクロスボレーは、蓮さんの足元、最も返しにくい場所を突いた。
「……ほう」
蓮さんの眉がピクリと動く。彼はそれさえも拾い上げたが、その返球がわずかに浮いた。
「――逃さねぇ!!」
背後から陽太が地鳴りのような咆哮を上げて踏み込む。
その琥珀色の瞳は、極限状態の中で野生動物のような鋭さを放っていた。蓮さんの「完璧な計算」が、私の一打によって生じたコンマ数秒の狂い。陽太はその隙間に、今日一番の熱量を込めたフォアハンドを叩き込んだ。
激しい打球音がコートに響き渡る。
ボールは蓮さんのラケットを弾き飛ばし、ベースライン際で激しく砂を跳ね上げた。
「……15-40」
湊兄さんの静かな声が響く。
蓮さんは弾かれた自分の右手を一瞬見つめ、それからゆっくりと私たちを見た。その額には、今日初めての汗が光っている。
「……湊、こいつら、想像以上に噛み合ってきたな。みゆが計算を乱し、陽太がそれを破壊する。悪くない連係だ」
蓮さんがふっと、憑き物が落ちたような穏やかな笑みを浮かべた。「氷の貴公子」の壁に、確かな亀裂が入った瞬間だった。
「……だが、今のままでは西園寺には勝てても、不知火には届かないな」
不意に、審判台から飛び降りた湊兄さんがラケットを握り直した。その瞳には、先ほどまでとは違う、獲物を狙うような鋭い光が宿っている。
「蓮、交代だ。……みゆ、陽太。次は俺が相手をしてやる。二人まとめてかかってこい」
蓮さんが無言でコートを譲り、今度は湊兄さんが私たちの前に立ちはだかった。
湊兄さんの放つプレッシャーは、蓮さんの「静」とは対照的な、すべてを支配するような圧倒的な「圧」だ。
「行くぞ!」
湊兄さんのサーブが放たれた瞬間、私は自分の反応が遅れたことを悟った。速いだけじゃない。ボールの回転、重さ、そして狙われるコース。すべてが私たちの「嫌なところ」を突き抜けてくる。
「陽太! お前は本能に頼りすぎるあまり、フォームが崩れている。それでは蓮のような精密な相手には通用しても、力でねじ伏せてくる相手には打ち負けるぞ!」
湊兄さんの弾丸のようなストロークが、陽太の足元を抉る。
「……ぐっ、重い……ッ!」
「みゆ! お前は相手の呼吸を読もうとしすぎて、自分の踏み込みが甘くなっている。ノイズになるなら、もっと深く、相手の懐まで入り込め!」
湊兄さんの厳しい指摘が、心臓を直接叩くように響く。
蓮さんが「鏡」のように私たちの姿を映し出す存在なら、湊兄さんは「嵐」のように私たちの未熟さを暴き立てる存在だった。
私たちの欠点を正確に突き、そこを執拗に攻め立てる湊兄さん。一ポイントも取らせてもらえないまま、私は膝をつき、陽太はラケットを杖のようにして辛うじて立っていた。
「……そこまで。今日のメニューは終了だ」
湊兄さんの合図とともに、ようやくコートに静寂が戻った。
「甘えるな。一ポイント取っただけで満足するなら、明日は蓮に完封させるぞ。……だが、みゆ。お前が『女王のノイズ』になれる可能性は、今のプレーで見えた」
私は這うようにしてベンチへ向かい、事前に用意しておいた特製ドリンク――クエン酸と蜂蜜、そして「疲労物質を流す秘密のスパイス」を加えたもの――を二人に手渡した。
「……感謝する。みゆ、君の用意したこれは、今の僕たちにはどんな高級サプリメントよりも価値があるよ」
蓮さんはアイシングをしながら、ドリンクをゆっくりと口に運んだ。その瞳には、私たちを「共に戦う仲間」として認めるような熱が灯っている。
夕闇が迫るコートの上、二人の怪物に徹底的に叩きのめされた私たち。けれど、身体の痛みとは裏腹に、胸の奥ではかつてないほどの高揚感が渦巻いていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
2対1でも勝てない壁、
元星和と帝都大付属のエースたちと一年生コンビの実力差です。
三年生になる頃には超えられるようになるのか。
次は休憩回になります。




