三週間のカウントダウン
「……違うわ、みゆ。鶏胸肉の繊維を断ち切る角度が甘い。これでは加熱した時に硬くなって、アスリートの消化に負担をかけるわ」
雫お姉ちゃんの冷徹な声が、湯気の立ち込めるキッチンに響く。
放課後の部活動を終え、凍えるような寒さの中を帰宅した私を待っているのは、甘い休息ではなく、エプロンを締めて臨む「食の修行」だった。
「ごめん、もう一回……!」
私は包丁を握り直し、お姉ちゃんの鮮やかな手本を脳内で再生する。
二階の自室では、湊兄さんが音も立てずに学業に没頭している。その静かな、けれど圧倒的な集中力の気配に負けないよう、私はまな板に向き合った。
冬休みに集う三人の「怪物」――湊兄さん、陽太、そして北条蓮さん。
彼らは一日の練習で膨大なカロリーを消費する。けれど、ただ量を食べさせればいいわけじゃない。翌朝に疲れを残さない消化の良さ、筋肉を修復するタンパク質の吸収効率、そして何より、過酷な練習の合間に「心の安らぎ」を与える味付け。
「……よし、その角度。今日はその胸肉で『疲労回復特化の低温調理』を仕上げなさい。味の決め手のソースは、私が隣で見てあげるわ」
お姉ちゃんの厳しい指導の合間に見える、微かな信頼。
お姉ちゃん自身も、大学での授業終了後に教習所へ講習受講の手続きを行いに駆け回っていたはずなのに、帰宅後はこうして私の指導に時間を割いてくれている。すべては、この家を世界へ挑む者たちの「完璧な拠点」にするためだ。
「お姉ちゃん、明日の家庭科、クッキー作りなんだ。これくらい包丁が使えれば、お菓子作りも余裕かな?」
「甘いわね、みゆ。料理とお菓子作りは別物よ。計量一つで全てが決まる世界、あなたに務まるかしら」
お姉ちゃんの予言めいた言葉に、私は少しだけ首をすくめた。
けれど、今の私は何事にも妥協は許されない。
「……やってみせるよ。お姉ちゃんが安心して免許を取りに行けるくらい、完璧にね」
私は再び、黄金色のスープが煮え立つ鍋へと視線を戻した。
翌日の午後、1年生のフロアはいつもと違う高揚感に包まれていた。A・B・Cの3クラス合同で行われる実技授業。男子は極寒のグラウンドで白い息を吐きながらサッカーに駆り出されたが、女子は対照的に、甘い香りの予感に満ちた調理実習室へと集められた。
今回の課題は「クリスマスクッキー作り」。
調理台の上には、整然と並べられた無塩バター、薄力粉、グラニュー糖、そして数種類のトッピング。
「……よし、昨晩のお姉ちゃんの教えを思い出して」
私はエプロンの紐をキリリと締め直し、レシピ本を開いた。
昨夜、お姉ちゃんから「計量一つで全てが決まる世界」だと釘を刺されたばかりだ。私は慎重にデジタルスケールを見つめ、1グラムの狂いもないようバターをボウルに移した。
(まずは室温に戻して、ポマード状に練る……)
しかし、ここからが苦戦の始まりだった。
冬の調理室は思いのほか冷えており、バターはなかなか柔らかくならない。焦りから力任せに木べらを動かすと、お姉ちゃんに教わった「繊細な力加減」を忘れ、ついテニスのスイングのような力強さでボウルを叩いてしまう。
「みゆ、大丈夫? なんだか……ボウルが悲鳴を上げてる気がするんだけど」
隣の席で、慣れた手つきで粉をふるっている美咲が心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫! ほら、だいぶ混ざってきたし……あ」
無理に混ぜようとしたせいで、生地の脂分が分離しかけている。慌てて卵を投入したが、今度は生地がまとまらず、ずるずると滑るような質感になってしまった。日々の特訓で「火加減」や「包丁」は身についてきたはずなのに、お菓子作りという精密なパズルは、私の言うことをこれっぽっちも聞いてくれない。
「……これ、焼いたらなんとかなるかな」
不安な気持ちのまま、私はなんとか型を抜き、天板に並べてオーブンへ入れた。
数十分後。実習室中に漂ってきたのは、食欲をそそる甘い香り……を通り越した、何かが「乾燥」しきったような、香ばしすぎる匂いだった。
「……うそ。カチカチじゃない」
焼き上がったクッキーは、本来の黄金色を通り越し、深い茶褐色。
お姉ちゃんに教わった「しっとり柔らかな低温調理」とは対極にある、水分を一切失ったパサパサの、石のように硬い塊。私はおそるおそる端をかじってみたが、「ボリッ」という鈍い音が響き、口の中の水分が全て持っていかれるようだった。
呆然とする私の横で、実習室の空気を一変させるような、本物の「お菓子の魔法」が完成していた。
「あ、いい感じに焼けたかも」
鈴を転がすような、落ち着いた声。
導かれるように隣のテーブルを覗き込むと、そこにはC組の佐々木凛ちゃんが立っていた。
彼女がオーブンから取り出した天板の上には、まるでお店に並んでいるような、完璧なキツネ色のクッキーが並んでいた。スノーマンや星の形に抜かれた生地はどれも角が立ち、緻密なアイシングが施されたそれは、冬の柔らかな光を浴びて宝石のように輝いている。
「すごい……。凛ちゃん、これ本当に一人で?」
「うん。私、料理研究会に入ってるから、こういうのは日課みたいなものなんだ。よかったら、みゆちゃんも食べてみる?」
凛ちゃんから差し出された、星の形のアイシングクッキー。
一口かじると、サクッという繊細な食感の後に、上質なバターの香りが鼻を抜け、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「……美味しい。プロ並みだよ。私、お姉ちゃんに料理を特訓されてるから少しは自信あったんだけど、お菓子は全然ダメで……。凛ちゃん、本当に尊敬しちゃうな」
「そんな、大げさだよ、みゆちゃん。でも、そう言ってもらえると嬉しいな」
凛ちゃんは少し照れたように微笑むと、手際よくクッキーを透明な小袋に詰め始めた。その指先の動き一つとっても、無駄がなく優雅だ。
「あ、そうだ。これ、たくさん焼けたから、お昼休みに男子たちにもお裾分けしに行かない? きっと外でサッカーをして、お腹を空かせて戻ってくると思うよ。みんな喜んでもらえるかも」
「いいの? ありがとう、凛ちゃん! ……よし、じゃあ私は袋詰めを手伝うね。凛ちゃんの手際の良さを、少しでも盗ませてもらうから!」
私は自分の「硬いクッキー」も、不格好ながら丁寧にラッピングした。
凛ちゃんの輝くようなクッキーと、私の「修行不足」が詰まったカチカチのクッキー。二種類の袋を並べながら、私は自分の未熟さを改めて痛感していた。
(お姉ちゃんが言ってた通りだ。テニスも料理も、基礎の積み重ねなんだ……)
窓の外では、泥だらけになりながらボールを追いかけ、最後の一点を取りに行く陽太たちの歓声が響いていた。
「……よし、準備完了!」
実習室の片付けを大急ぎで終えた私たちは、ラッピングされたクッキーを腕に抱えて廊下へと飛び出した。
ちょうどその時、グラウンドから引き揚げてきた男子たちが、冬の冷気を切り裂くような熱気を振りまきながら階段を上がってきた。泥に汚れ、額から湯気を立てる彼らの姿は、寒さを忘れるほど活気に満ちている。
廊下は一瞬にして、甘い香りと男子たちのどよめきで溢れかえった。
「お、いい匂い!」
「調理実習、クッキーだったのかよ!」
あちこちで女子たちが、仲の良い男子を捕まえてはお裾分けの輪が広がっている。美咲も自分の「標準的」なクッキーを手に、クラスの男子たちに囲まれていた。
私は凛ちゃんと顔を見合わせ、まずは陽太のいる1年A組の前へと向かった。
「陽太、お疲れさま! はい、これお裾分けだよ」
呼びかけると、首にタオルをかけた陽太が「おっ!」と顔を輝かせて駆け寄ってきた。その後ろからは、同じA組の男子たちも興味津々で覗き込んでいる。
「待ってました! 腹減って死にそうだったんだ。……お、凛も一緒か。サンキュな!」
陽太の手元には、二つの袋。一つは凛ちゃんが作った、宝石のように繊細なアイシングクッキー。もう一つは、私が焼いた……少し色が濃く、見るからに「重厚感」のある、不格好なクッキーだ。
「……そっちの、ちょっと『鍛えられてる』方が私。凛ちゃんのは、本物のプロ級だから覚悟して食べてね」
陽太はニヤリと笑うと、迷わず私の袋を開け、一番硬そうな一枚を口に放り込んだ。
「……んぐっ。……ボリッ! ……おおっ、これ……噛みごたえがすげぇな。顎の筋肉がパンプアップしそうだぜ。でも、噛めば噛むほど味が出るというか……悪くないぞ、みゆ!」
必死に顎を動かす陽太の姿に、隣の男子たちが吹き出す。凛ちゃんが「ふふっ、みゆちゃんも一生懸命焼いてたんだよ。河村くん、次は私のクッキーで、その酷使した顎を休めてあげてね」と優しくフォローを入れ、自身のクッキーを差し出した。陽太はそれを一口食べると、「……うまっ! なんだこれ、口の中で消えた!? 魔法かよ!」と、その次元の違う完成度に目を丸くしていた。
その後、私たちはそれぞれのクラスへと散った。
私は自分のB組に戻り、同じテニス部の早川くんと伊集院くんを呼び止めた。
「二人とも、お疲れさま。これ、凛ちゃんと一緒に作ったから食べて」
「お、水瀬の手作りか。珍しいな、ありがとう!」
「へぇ、これ……結構ハードな焼き加減だね。でも、サッカーの後で糖分が足りてないから、このくらいの食べ応えが丁度いいよ」
早川くんたちは、私の「パサパサ」な出来栄えにも笑って付き合ってくれた。もちろん、その後に凛ちゃんの分を渡すと、「……こっちはもはや芸術品だな」と、私の横でこっそり感動していたけれど。でも、二人とも「水瀬さんが作ったってだけで価値があるよ」とフォローしてくれ、私は少しだけ救われた気持ちになった。
一方、凛ちゃんは手際よくC組の教室へ。
「田中くん、これどうぞ。みんなで食べて」
「あ、凛! ありがとう、楽しみにしてたんだ。やっぱり料理研究会のクッキーはレベルが違うな」
テニス部の田中くんも、凛ちゃんのクッキーを壊れ物でも扱うように大切に受け取っている。凛ちゃんの周りには、その穏やかな性格と「プロ級の腕前」を慕う人が自然と集まってくる。私はその光景を眺めながら、自分も早く「誰かを笑顔にできる料理」を完璧にこなせるようになりたいと、改めて強く思った。お姉ちゃんに「任せたわよ」と言わせるためには、この未熟さを一つずつ潰していくしかない。
けれど、和やかなお裾分けの時間は、予鈴の冷たいチャイムによって遮られた。
廊下にいた生徒たちが一斉に教室へ戻り始めると、浮ついていた空気が一変し、重苦しい「試験前」の現実が戻ってくる。
「……さて。甘いもん食ってエネルギー充填したし、次は『地獄の数学』だな」
陽太が遠くから、戦場に向かうような顔でこちらに手を振る。
クッキーの甘い香りが微かに残る廊下で、私は自分のポケットに残った「硬いクッキー」をぎゅっと握りしめた。
調理実習の賑やかさが嘘のように、星和学院は「静かな戦場」へと変貌を遂げた。
廊下を歩く生徒たちの手には常に単語帳が握られ、休み時間の喧騒は、教科書をめくる乾いた音と、教え合うひそひそ声に取って代わられた。
ついに始まった期末試験。初日のチャイムが鳴り響くと同時に、私は一気にペンを走らせた。
(……ここで躓くわけにはいかない)
目の前の数式を解きながら、私は二階の自室で黙々と机に向かう湊兄さんの背中を思い出していた。湊兄さんは、私が夜食を差し入れに行っても、視線すら動かさずに難解な問題を解き進めていた。「学業で躓く奴に世界は獲れない」。その言葉の重みが、解答用紙を埋める私の右手に乗り移る。
試験二日目、三日目と進むにつれ、周囲の疲れはピークに達していた。
昼休みの廊下で、私はボロボロになった古典のノートを抱えた陽太とすれ違った。
「陽太、生きてる?」
「……ギリギリだな。昨夜も、坂上先生の顔が夢に出てきて『赤点ならラケット没収』って追いかけてきたんだ。もうトラウマになりそうだ」
陽太の目の下には微かな隈があったが、その瞳の奥にある光は消えていなかった。彼もまた、北条蓮という巨大な壁を迎え撃つために、まずはこの「机上の戦い」を制しようともがいている。
そして、ついに迎えた最終日の午後。
最後の科目の終了を告げるチャイムが長く校内に響き渡ると、あちこちの教室から地鳴りのような歓声と安堵の溜息が漏れ出した。
「終わった……! 解放だー!」
美咲が机に突っ伏して叫ぶ。私も大きく息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。
校門を出ると、冬の短い日はすでに傾き始めていた。
冷たい風が頬を刺すが、試験を終えた達成感で足取りは軽い。けれど、帰宅して玄関の扉を開けた瞬間、私の「浮かれた気持ち」は一気に引き締められることになった。
「お帰りなさい、みゆ。試験、手応えはどうだった?」
リビングで待っていたのは、数枚の書類を真剣な表情で見つめる雫お姉ちゃんだった。
「……うん、全力を尽くしたよ。赤点は、たぶん大丈夫だと思う」
「そう。なら、ここからは頭ではなく『体』を動かしてもらうわよ。冬休みの予定が決まったわ。私は明日から、計画通り車の免許取得のために集中講習に通い詰めることになる。もちろん、冬休みが終わるまでには取れる算段よ」
お姉ちゃんは、テーブルの上に置かれた一冊のノートを私の方へ押し出した。
「明後日、ついに北条蓮くんがこの家に来る。湊、陽太くん、そして蓮くん。三人の怪物が揃う。今日までの修行の成果を見せなさい。あなたの料理が、彼らの冬を左右するのよ」
お姉ちゃんの言葉に、背筋がピンと伸びた。
机の上の戦いは終わった。けれど、明後日からは「世界」を目指す者たちを支える、終わりのない合宿生活が始まる。
「わかった。……私に任せて、お姉ちゃん」
私はラケットバッグを置くと、まだ試験の余韻が残る指先で、お姉ちゃんの特製レシピノートのページをめくった。
明後日の朝、冷たい空気と共に、蓮さんがやってくる。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
料理の練習、そして学校でのお菓子作り。
凛ちゃんの部活動が判明。
料理も上手なので、今後も出てくると思います。




