雪の日の帰還
12月に入り、星和学院を包む空気は一際冷たさを増していた。
登校する生徒たちの吐く息は白く、校舎の影には、まだ溶け残った霜が鋭く光っている。
「冷たっ……」
昇降口でローファーを履き替えると、コンクリートの底冷えが足裏を刺した。
ふと目を向けると、正面の掲示板には、昨日貼り出されたばかりの巨大な模造紙が掲げられている。
『祝・男子テニス部 全国大会準優勝!』
誇らしげな太文字の横には、激闘の末に準優勝皿を掲げる湊兄さんや陽太たちの写真が踊っていた。けれど、その隣にある女子部の報告は、『全国大会二回戦進出』という控えめな一列のみ。
西園寺女子という巨大な壁に「粉砕」された、あの日。通り過ぎる生徒たちは男子部の快挙に歓声を上げているけれど、私の胸の奥には、あの日魅せられた鳳仙雅さんの無慈避な打球の軌道が、今も消えない痣のように残っていた。
「……おはよう、みゆ。まだ、変な感じだね。先週まであんなに広いコートにいたのに」
隣の席の美咲が、重い溜息をつきながら自分の席にラケットバッグを置いた。
教室はすでに、期末試験に向けた重苦しい空気に支配されている。一週間、全国大会のために公欠していた私たちの机には、山のような配布プリントと提出期限の過ぎた課題が、嫌がらせのように積み上げられていた。
「女子部の新エース……」
机の隅に書かれた落書きのようなその肩書きが、今は誇りよりも、ずっしりと重い鎖のように感じられた。
男子が準優勝という輝かしい結果を持ち帰った分、二回戦で敗退した女子部への期待と視線は、これまで以上に厳しくなっている。
「美咲、勉強……進んでる?」
「昨日、泣きながら数学のノート写したよ。顧問の坂上先生が『エースが赤点なら、冬の特別練習も遠征も白紙だ』って職員室で言ってたの聞いちゃったし。もう、逃げ場がないよね」
美咲が苦笑しながら、付箋がびっしり貼られた参考書を広げる。
星和学院テニス部の伝統である「文武両道」。学業での躓きは、自己管理不足と見なされる。
私は震える手で、真っ白な数学のノートを開いた。
数式の一行一行が、私を追い詰めてくる。
窓の外では、冬の薄い雲が太陽を隠し、テニスコートを寒々しく照らしていた。
「……負けてられない」
私は陽太がよく口にする言葉を小さく呟き、難解な数式にペンを突き立てた。
けれど、その集中力を遮るように、廊下からは生徒会長の佐々木梓さんと何やら打ち合わせをしながら歩く湊兄さんの声が聞こえてきた。その声はどこまでも冷静で、すでに試験も、その先の「世界」をも手の内に収めているかのような響きを湛えていた。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、私は午前の授業のノートを閉じて、凝り固まった肩を回した。一週間分の空白を埋める作業は想像以上に過酷で、脳が痺れるような感覚がある。
(……陽太、来ないな)
いつもならチャイムの余韻が消える前に「みゆ、メシ行こうぜ!」とB組の教室に顔を出す陽太が、今日は現れない。男子部の準優勝報告や新体制の手続きで忙しいのかもしれないけれど、少し気になって、私は彼のいる1年A組へと足を向けた。
A組の教室は、私のいるB組よりも一段と静かで、緊張感が漂っていた。廊下から扉の隙間を覗き込むと、窓際の席に、机にかじりついている陽太の姿を見つけた。
その隣には、クラスメイトの奈緒が座っている。二人の間には分厚い古典の辞書と英語の問題集が広げられていた。
「……あ、陽太くん、そこ。助動詞の接続が間違ってるよ。これだと意味が逆になっちゃう」
「うわ、マジだ……。完了じゃなくて打ち消しか」
奈緒がペン先でノートを指すと、陽太は額に手を当てて唸った。二人の間には、共に高い目標を持つクラスメイトとしての、気兼ねのない信頼関係が見える。陽太は必死に奈緒の言葉を噛み締めながら、真っ黒に塗りつぶされた計算用紙の余白に新しい書き込みを加えていた。
「陽太、調子はどう?」
私が声をかけると、二人が同時に顔を上げた。
「あ、みゆ。……見ての通りだよ。坂上先生に『エースが赤点なら冬の遠征は白紙、ジュニア代表の推薦も取り消す』って本気で脅されちまってさ。奈緒に泣きついて、特訓してもらってるところなんだ」
陽太は苦笑いしながら、ペンだこができそうなほど強く握ったシャーペンを置いた。坂上先生の通達は、彼にとってコート上の強敵よりも恐ろしい死告状のようなものだったらしい。
「坂上先生、そんなことまで……。でも、奈緒がいてくれて良かったね」
「本当だよ。奈緒が教えてくれなきゃ、俺、今頃パニックでラケット振り回してたかもしれない」
「大げさだよ、陽太くん」
奈緒が、ふふっと笑って私を見た。
「陽太くん、すごく集中してるよ。有明での疲れもあるはずなのに、一言も弱音を吐かないの。……みゆも大変でしょ? 新しい体制になって、期待される立場だし」
「うん、そうだね……。私も二人の集中力を見たら、甘えてられないって思えてきたよ」
私は、三週間後に迫る水瀬家での「冬合宿」を思った。
北条蓮が泊まり込み、陽太が隣から通い詰め、三人の怪物が牙を研ぐ日々。そこで彼らを「食」で支えるためには、私自身が今のうちに自分の足元を固めておかなければならない。
「陽太、冬休みになったら……お姉ちゃんの指示通り、私が三人の栄養管理をすることになってるからね。しっかり食べて、しっかり勉強して。最高の状態で北条さんを迎えなきゃ」
「……ああ。わかってる。湊さんからも釘を刺されたんだ。『学業で躓く奴に世界は獲れない』ってな。あいつ――北条蓮と練習しながら勉強まで両立させるには、今のうちにこの遅れを叩き潰しておかないと、俺、あいつにテニス以外でも認めさせてやるんだ」
陽太の瞳には、かつての弱気な面影はもうなかった。
坂上先生の厳しい条件も、迫りくるライバルの存在も、彼は自分を研磨するための「砥石」として受け入れている。
「じゃあ、俺も図書室で奈緒にもう一踏ん張り付き合ってもらうわ」
「えっ!私も付き合うの前提なの?まぁ、私も課題のプリント片付けないといけないからいいけどさ...」
陽太が力強くペンを握り直す。教室を後にする私の背中に、再び二人の真剣な議論の声が聞こえてきた。
帰宅すると、家の中には特有の静寂が流れていた。
リビングを通って階段を上がり、私は二階の突き当たりにある湊兄さんの部屋の前で立ち止まった。ノックをすると、短く「入っていいぞ」という声が返ってくる。
部屋の中は、整理整頓された参考書と、静かな空気に満たされていた。3年生の兄さんは、高等部への進学決めた今もなお、自身の限界を押し広げるために勉強を続けている。
「……兄さん、ちょっといいかな」
私はエースという重責に押し潰されそうな胸の内を、そのまま湊兄さんに打ち明けた。全国大会の二回戦敗退、次期エースとしての周囲の期待、そして自分自身の未熟さ。
湊兄さんはペンを置くと、椅子をゆっくりと回して私を見た。その瞳は、有明のコートで不知火蓮と対峙していた時のような、静かな闘志を宿している。
「……そうか。お前も、エースとして歩み始めたんだな」
「兄さんだって、一年生の冬にエースになったんだよね。不安じゃなかったの?」
「何度も考えたさ。先輩たちを差し置いて、本当に俺でいいのか。あいつらの方がチームをまとめられるんじゃないか、と毎日自問自答していた」
湊兄さんの言葉に、少しだけ救われた気がした。完璧に見える湊兄さんだって、迷っていた時期があるのだ。
「だがな、みゆ。俺はそこで一つ、自分に課したことがある。自分の欠点を徹底的に書き出し、自分を攻略するにはどうすればいいか、とことん考え抜いたんだ。対戦相手の限界を自分の狭い物差しで勝手に決めないために、まずは自分自身を、誰よりも恐ろしい『対戦相手』に仕立て上げた」
湊兄さんは立ち上がり、窓の外の寒空を見上げた。
「お前には今、全国大会で戦った白川こころ、そして鳳仙雅という、残酷なまでに高い目標ができているだろう。彼女たちなら、今の自分をどう攻略するか? 自分の未熟さを嘆くのではなく、彼女たちを基準にして、そこまで自分のテニスをどう引き上げるかを考えるんだ。それが、女王を引きずり下ろすための最短ルートだ」
湊兄さんの言葉は、心の霧を一気に晴らしてくれた。目標が「プレッシャーをかける周囲」から「倒すべき強敵」へと変わった瞬間、背負っていた鎖が、不思議と熱い闘志へと姿を変えていく。
「……ありがとう、兄さん。やってみる」
礼を言って部屋を出ると、階段を降りてキッチンへと向かった。
テーブルには既に雫お姉ちゃんが待っていた。彼女の前には、栄養学に基づいた緻密な献立リストが広げられている。
「お帰りなさい、みゆ。……湊と話したようね。迷いは晴れた?」
「うん。……お姉ちゃん、私、やるよ。兄さんたちが世界へ行くための準備をしてる横で、私もエースとして、そして三人を支えるサポーターとして、完璧を目指す」
お姉ちゃんは眼鏡のブリッジを押し上げると、ふっと柔らかく微笑んだ。彼女がこんな表情を見せるのは珍しい。
「……頼もしいわね。今日からこのリストを完璧に作ってもらうわ。あなたが一人でキッチンを切り盛りできるようになってもらわないと、私も困るの」
「どうして?」
「冬休み、私は車の免許取得のために集中講習に通うつもりだからよ。あなたが彼らの身体を支えられるようになれば、私も心置きなく免許を取りに行けるわ。去年までは家事と両立ができなくて諦めてたの。それで、今年はあなたがこの水瀬家の食卓を守ってくれるから、心置きなく挑めるというわけよ」
「免許! お姉ちゃん、すごいね」
「彼らが世界で戦うなら、私も動ける足が必要でしょう? さあ、前置きは終わり。今日から期末試験までの間、私が横で指導しながら基礎を叩き込むわ。味が落ちていたり、栄養バランスが崩れていたら……その時点で、あなたの『エース』としての資格も疑わせてもらうわよ」
「……わかった。私に任せて。お姉ちゃんが免許を取ってくる間に、絶対に完璧なサポーターになってみせるから!」
私はエプロンを締め直し、お姉ちゃんから渡された包丁を握った。
二階の自室からは、湊兄さんが再び机に向かって勉強する微かな気配が伝わってくる。
机の上には試験問題集の山、コートの上には女王たちの幻影、そして目の前には、世界へ挑む者たちを支えるための戦場。
有明の全国大会が過去になり、私の「十三歳の冬」が、今、猛烈な勢いで動き出した。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
田中奈緒から陽太の呼び方を河村くんから陽太くんに変わっています。
半年以上テニス部で顔合わせしているクラスメイトなので、こちらの方が自然かという判断です。




