嵐の凱旋
合宿明けの登校日。 秋の爽やかな朝の空気とは裏腹に、テニスコート周辺は部活動開始前から異様な熱気に包まれていた。合宿組の帰還、そして何よりも「あの河村が別人のようになった」という噂が、男子テニス部内を瞬く間に駆け巡っていたからだ。
「おっ、来たぞ! 河村だ!」
「マジかよ……あいつ、顔つきというか、雰囲気が全然違うじゃねーか」
部室の前で、上級生たちが息を呑む。以前はどこか自信なげに、湊の影に隠れるように歩いていた陽太が、今は湊兄さんの隣で、静かに、けれど揺るぎない足取りで進んでいく。その瞳には、かつての迷いなど微塵も感じられない、深く鋭い光が宿っていた。
二人はまず、テニス部顧問の坂上先生と、部長の大野先輩のもとへ合宿終了の報告に向かった。
「坂上先生、大野部長。選抜合宿、全日程を終了し、ただいま戻りました」
湊兄さんの凛とした報告に続き、陽太も迷いのない動作で深く一礼する。
「ほう……。いい面構えだ、河村。阿修羅に心を折られながらも、這い上がってきたという報告は受けているぞ」 坂上先生は不敵な笑みを浮かべ、コートに集まっていた部員たちに向けて言葉を投げた。
「おい、お前ら! 聞け!」
ざわついていた部員たちが一斉に直立不動になる。
「ここにいる河村は、今や『山』を生き残った選抜組だ。だが、その座を快く思わん者もいるだろう。そこでだ……今から河村を打ち負かした者がいれば、その者にレギュラーの座を譲るよう検討してやる!」
その挑発的な言葉に、コートの空気が一変した。
「……本当ですか、先生!」
最初に声を上げたのは、選抜枠から漏れた二年生の上級生だった。彼らにとって、一年生の陽太がレギュラーの座を固めることは、自分たちの居場所がなくなることを意味する。
「河村! 悪いが、その座、返してもらうぞ!」
「……はい。お願いします」
陽太は動じることなく、ラケットバッグから愛機を取り出した。 試合が始まると、周囲の野次はすぐに驚愕の沈黙へと変わった。阿修羅の200キロを超えるサーブを浴び続けた陽太の動体視力にとって、常人のサーブはまるでスローモーションのように見えていた。鋭いリターンが次々とライン際を射抜き、挑んだ上級生たちは一歩も動けずに立ち尽くす。
「次は、僕にやらせてよ」
人混みを割って現れたのは、一年生の佐藤健二くんだった。 彼は女子テニス部の二年生、佐藤春花先輩の弟であり、陽太とは入学以来の友人だ。合宿前までは、センスに勝る佐藤くんの方が実力は上だと目されており、陽太自身、彼を目標にしていた部分があった。
「健二……」
陽太の表情が、一瞬だけ友人としての柔らかさを取り戻す。
「陽太、山ですごい特訓をしてきたんだろ? 隠したって無駄だよ。顔を見ればわかる」
佐藤くんは悪戯っぽく笑いながらも、その瞳には真剣な闘志が宿っていた。
「君に追い抜かれたままなのは、親友として……いや、ライバルとして癪なんだ。今の君の全力、僕にぶつけてみてよ」
「……わかった。手加減なしで行くぞ、健二」
陽太が構える。その瞬間、空気が凍りついた。 佐藤くんの鋭いストロークを、陽太は最小限の動作で完璧に捉える。陽太が放つ返球は、重戦車のような重い回転と、矢のような速度を帯びていた。佐藤くんは得意のフットワークで必死に食らいつくが、陽太の打球はコートの隅を正確に抉り、佐藤くんのラケットを何度も弾き飛ばした。
「ゲーム、河村。6-0」
圧倒的なスコアだった。佐藤くんは肩で息をしながら、呆然と自分の掌を見つめた。つい二週間前まで、自分がリードしていたはずの友人が、もはや手の届かない高みへ登りつめている。
沈黙が流れるコートの中、佐藤くんはゆっくりと立ち上がり、陽太のもとへ歩み寄った。そして、陽太の肩をポンと叩く。
「……はは、完敗だよ。まいったな、君、本当に化け物になっちゃったんだね」
佐藤くんは悔しそうに顔を歪めたが、その瞳は晴れやかだった。
「でもさ、今の君の球を一番近くで受け続けていたら、僕ももっと強くなれる気がするんだ。……、坂上先生!」
佐藤くんはそのまま坂上先生と大野部長の方を向き、いたずらっぽく、けれど力強い声で宣言した。
「先生、部長! 僕は河村のダブルスペアに立候補します! この化け物じみた進化を、一番近くで支えさせてください。……いや、いつか僕が追い抜くために、一番近くで盗ませてください!」
その前向きな言葉に、部員たちの間に温かいどよめきが走った。 陽太は驚いたように目を見開いたが、すぐに佐藤くんらしい言葉に吹き出し、力強くその手を握り返した。
「ありがとう、健二。……お前が隣にいてくれたら、これ以上心強いことはないな」
坂上先生は満足げに鼻を鳴らした。
「決まりだな。河村、お前の力は本物だ。佐藤も、その意気だ。来年はレギュラーを目指せ!そして二人でさらなる高みを目指んだ」
佐藤くんがペアを志願し、コートに清々しい空気が流れたのも束の間。坂上先生は依然として鋭い視線を部員たちへ向け、バインダーをパチンと閉じる。
「おい、他にはいないのか! 河村の座を奪う気概のある奴は! このままでは、一年の新兵にレギュラー枠を一つ完全に明け渡すことになるぞ!」
上級生たちが沈黙し、顔を見合わせる。佐藤くんという実力者が完敗した直後だ。陽太の放つ、あの静かだが圧倒的な威圧感の前に、二の足を踏むのも無理はなかった。
その沈黙を破ったのは、女子コートの方から響いた凛とした声だった。
「……先生。私にやらせてください」
人混みを割り、ラケットを握りしめて前に出たのは、私だった。
「みゆ……!?」
陽太の瞳が、驚きに大きく揺れる。坂上先生は、ニヤリと口角を上げた。
「水瀬の妹か。……なるほど、面白そうだ。本来なら男女で分けるところだが、今の河村に必要なのは、打算のない純粋な『技術』への挑戦だろう。よし、許可する。水瀬みゆ、コートへ入れ!」
私は陽太の対角線上に立ち、ラケットを構えた。
「陽太。山での成果、私にも体験させてもらうよ。本気で来て」
「……わかった。手加減はしない。それが、君への礼儀だと思うから」
陽太が構える。その瞬間、彼の気配が消えた。 第一打。陽太の放ったサーブは、ベースライン際を抉るような重いフラット。だが、私は止まって見えたその弾道を、特訓で磨いた動体視力で捉えていた。
(ここ……!)
私は陽太が打つ瞬間の肩の開きからコースを読み、最短距離で踏み込む。
「えっ……!?」
周囲から驚きの手が上がる。私は陽太の剛速球に力負けすることなく、角度をつけた鋭いクロスでリターンを決めた。先制点は、私だった。
「凄い……! 水瀬さん、今の反応、並の男子より速いぞ!」
佐藤くんが声を上げる。だが、陽太の瞳の奥に宿る「火」が、一段と激しさを増したのを私は見逃さなかった。
(今のは、予測していたコースだったな、みゆ)
陽太は無言でそう告げるかのように、再び構えた。 次の瞬間、世界が変わった。 陽太の動きは、私の「予測」という概念を嘲笑うかのように加速した。私が「次はバックハンド側に来る」と読み、重心を移動させた刹那――ボールはあざ笑うように逆のサイド、フォアのコーナーを射抜いていた。
(嘘……反応できない……!?)
それは、陽太が合宿で天音司との死闘を経て手に入れたもの。相手の予測を逆手に取り、思考の裏をかく「超感覚」。私の読みが深ければ深いほど、陽太はそのさらに深い場所から、私の届かない場所へ弾丸を叩き込んでくる。
気づけば、スコアはあっという間に陽太の勝利で終わっていた。
「……すごいね、陽太。完敗だよ」
私はラケットを下げ、荒い息を整えながら微笑んだ。負けた悔しさよりも、彼が辿り着いた高みの高さに、眩しさを感じていた。
「みゆ。……今のリターン、本当に凄かった。俺、一瞬だけ肝を冷やしたよ」
陽太が歩み寄り、気遣うように声をかけてくれる。すると、後ろで見守っていた坂上先生が、珍しく穏やかな声で私に告げた。
「水瀬。気にするな。今の河村は、山の上の『怪物』共と戦ってきた男だ。その男から一矢報いたお前の反応速度と洞察力、誇っていいぞ」
「ああ。みゆ、お前の読みは正確だった。ただ、今の河村は相手の思考をトレースして、その先を打っているに過ぎない。ポイントを取っただけでも、女子部では並ぶ者がいない証明だ」
湊兄さんの言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。 陽太は変わった。けれど、私もただ待っていたわけじゃない。 互いの進化を肌で感じたこの試合は、私たちにとって何よりの「再会」の儀式だったのかもしれない。
「陽太。……これからも、もっと練習に付き合ってね」
「うん。こちらこそ、お願いするよ、みゆ」
私たちは、秋の陽光が降り注ぐコートで、誰に言うでもなく確かな約束を交わした。
陽太の変貌は、男子テニス部だけでなく、隣のコートで練習していた女子部員たちの心にも鮮烈な印象を残した。片付けを終えて部室から出てきた私たちを、美咲、奈緒、莉奈の三人が待ち構えていた。
「河村くん、お疲れ様! 本当に凄かったね。……さっきの試合、瞬きするのも忘れるくらい見入っちゃった」
莉奈がいつも以上に明るい声で陽太を称える。
「正直、別人かと思った。みゆも言ってたけど、あんな球、女子部じゃ誰も触れないよ」
美咲も感嘆の息をつき、奈緒は「怪我なくてよかった」と優しく微笑んだ。
そんな一年生たちの輪の向こうから、女子テニス部を束ねる高城部長がゆっくりと歩み寄ってきた。その後ろには、健二の姉である佐藤春花先輩の姿もある。
「河村。……良いものを見せてもらったわ」
高城部長は、厳しい中にも敬意を込めた眼差しで陽太を見た。
「あなたが持ち帰ったその『気迫』は、この部全体の空気を変える。みゆも、よく食らいついたわね。女子部の刺激としても十分すぎる内容だったわ」
「ありがとうございます、高城部長」
陽太が居住まいを正して礼を言う。春花先輩も、弟の健二くんを呼び寄せてその頭を軽く小突いた。
「健二、あんたもようやく目標が見つかったみたいね。河村くんに置いていかれないよう、必死で食らいつきなさいよ」
「わかってるよ、姉さん。……いや、春花先輩」
佐藤くんが照れくさそうに応じ、コートには穏やかな笑い声が広がった。
部活を終え、湊兄さんは坂上先生との打ち合わせのために居残り、私と陽太は二人で家路に就くことになった。
11月の夕暮れは足が早い。茜色から濃い群青へと変わりゆく空の下、住宅街へ続く坂道を、二人の影が長く伸びて重なり合う。一週間前には感じられなかった、穏やかで、けれど少しだけ甘い沈黙が流れていた。
「……ねえ、陽太。さっきの、予測のさらに先をいくショット。あれ、どうやってるの?」
私はずっと気になっていたことを問いかけた。陽太は少し考え込み、並んで歩く私の歩幅に合わせるようにゆっくりと口を開いた。
「合宿の最終日、天音司さんと試合をしたんだ。……あの人は、俺の動きも、呼吸さえもすべて読んでいた。その絶望の中で、必死に足掻いて気づいたんだ。読まれるなら、読まれることを逆手に取るしかないって」
陽太は不意に立ち止まると、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「山の上では、自分のことで精一杯で……みゆがどうしてるか、想像する余裕もなかった。でも、ふとした時に、地区大会の決勝で見せてくれたみゆの鋭い読みや、湊さんに言われた『見る力を磨け』っていう言葉を思い出したんだ。あの絶望的な状況を乗り切れたのは、二人の存在があったからだよ」
「陽太……」
「俺、みゆに手紙一つ書けなかったけど。……次に会う時は、みゆに誇れる自分になっていたかった。それだけを支えに、あの山で牙を研いできたんだ」
その瞳には、テニスコートでの鋭い気迫とは違う、私だけに向けられた柔らかい熱が宿っていた。 私は胸が熱くなって、思わず彼のユニフォームの袖をぎゅっと掴んだ。
「……陽太。私は兄さんの手紙から、陽太がどれだけ頑張ってるか聞いてたよ。それを聞くたびに、私も負けてられないって……お姉ちゃんの特訓、必死に食らいついてきたんだから」
素直な気持ちが溢れ出し、私は少しだけうつむく。すると、陽太の温かい手が、私の手をそっと包み込んだ。以前よりも少し節くれ立ち、マメで硬くなったその掌が、彼が戦い抜いてきた証として私の肌に伝わってくる。
「……寂しい思いをさせて、ごめん。もう、どこにも行かない。これからは一番近くで、みゆが磨いた力を、俺の隣で見せてほしい」
陽太は少し顔を赤くしながらも、逃げずに私の目を見つめ続け、指を絡めてきた。繋いだ手から、彼の心音が伝わってくるようで、私の鼓動も一気に早くなる。
「……陽太、本当にかっこよくなったね」
「……みゆこそ。もっと、綺麗になった」
どちらからともなく小さく笑い合い、私たちは再び歩き出した。 繋いだ手は、どちらも離そうとはしなかった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
陽太が化けて帰ってきました。
上級生を返り討ちに出来るまで成長してます。
全国大会で活躍してもらいますのでお楽しみに。




