兄の流儀、届かぬ背中
11月5日、火曜日。 雫お姉ちゃんの誕生日という嵐が過ぎ去り、水瀬家を支配していた絶対的な凍土は、目に見えないほど僅かではあるが、足元から緩み始めていた。私が自らの意志で焼き上げたあの一皿が、お姉ちゃんの心の深層に何を刻んだのかはまだ分からない。けれど、キッチンに立つ私の背中に注がれる視線は、以前のような冷徹な監視から、何かを推し量るような複雑な沈黙へと変わっていた。
夕暮れ時、街路樹の影が長く伸び、空が深い群青に染まり始める頃。私は玄関先で、冷え込む外気も構わずにその時を待っていた。
やがて、住宅街の静寂を切り裂いて、一台の黒いセダンがゆっくりと近づいてきた。出発の朝、陽太を連れていったのと同じ、冷たく光る送迎車だ。タイヤがアスファルトを噛む音が門前で止まり、エンジンが静かにその息を止めた。
後部座席のドアが開き、最初に降りてきたのは湊兄さんだった。 一週間の極限状態を生き抜いた証だろうか、その表情は普段の冷静さに加え、研ぎ澄まされた刃物のような鋭利な気配を纏っている。だが、私の視線はその後ろ、ゆっくりと車外へ足を踏み出したもう一人の影に釘付けになった。
「陽太……!」
私の口から漏れたのは、祈りのような叫びだった。 そこに立っていたのは、出発前とはまるで別人のような気迫を宿した陽太だった。 秋の厳しい日差しに灼かれた肌は黒く、過酷な練習で頬は以前よりも削げている。しかし、その身体の輪郭は驚くほど無駄がなく、一回りも二回りも大きく見えた。何より、かつての彼につきまとっていた「自分はここにいていいのか」という迷いの影が、綺麗に拭い去られている。
「みゆ……ただいま。約束通り、戻ってきたよ」
陽太の声は少し低く、落ち着いていた。深い森の奥で独り牙を研ぎ続けてきた獣のような、静謐でいて圧倒的な重み。私が思わず駆け寄ると、湊兄さんが私を見て、安堵とも誇りとも取れる僅かな笑みを口元に浮かべた。
「兄さん、陽太! 本当におかえりなさい……! 兄さん、本当にありがとう。何度も何度も手紙を送ってくれて……私、あの言葉にどれだけ救われたか。不安で押し潰されそうだった時、あの手紙があったから、私は独りじゃないって信じられたんだから」
私が溢れ出す想いを伝えると、陽太が弾かれたように驚いて目を丸くし、隣に立つ湊兄さんの顔を仰ぎ見た。
「え……湊さん、みゆに手紙を書いてたんですか? それも……何度も?」
「……お前の進化があまりに劇的だったからな。記録としてこいつに伝えておいただけだ。大したことではない」
湊兄さんは事も無げに言い放ち、重いラケットバッグを肩に担ぎ直して、淡々と玄関へと歩き出した。陽太は呆然とした様子で、夕闇に溶けていくその広い背中を凝視している。
「全然……これっぽっちも、気がつきませんでした。湊さん、あの地獄みたいな練習の合間に、いつの間にそんなことを……」
陽太は力なく苦笑いしながら、深く、重いため息をついた。 自分は、ただひたすらに目の前のボールを追いかけ、今日を生き延びることで精一杯だった。そんな自分を横で見守り、指導し、圧倒的な実力差を見せつけながら、同時に離れた場所にいる妹の心のケアまで完璧にこなしていた。
「やっぱり……湊さんには、まだ全然敵わないな。実力も、視野の広さも、何もかも」
陽太はそう呟き、唇を噛み締めた。その表情には、自分の未熟さへの悔しさが滲んでいた。けれど、その瞳に宿る光は決して折れてはいない。今の自分には、まだ届かない高みがある。その事実が、彼の中に新たな、そして強烈な向上心の種を蒔いたのだ。
「……さあ、入ろう。姉さんが待っている。今の陽太なら、あの人の前に立っても揺らぐことはないはずだ」
玄関の扉を開けると、そこには外の冷気とは切り離された、静謐で重厚な水瀬家の空気が満ちていた。
リビングのソファには、雫お姉ちゃんが背筋を伸ばして座っていた。卓上には一冊の洋書が開かれているが、その意識がそこにはないことは明白だった。入ってきた三人の足音に、お姉ちゃんはゆっくりと顔を上げる。その視線はまず、疲労を滲ませながらも隙のない湊兄さんを捉え、次に、その背後に立つ陽太へと移った。
「……湊、陽太くん。おかえりなさい」
「ただいま、姉さん」
「……雫さん、ただいま戻りました」
湊兄さんの落ち着いた声に続き、陽太が静かに、けれどしっかりと雫さんの瞳を見据えて挨拶を返した。以前なら、彼女の視線が触れるだけで縮こまっていたはずの肩は、今は驚くほど堂々と張られている。
「随分と、いい目をするようになったのね」
雫さんは小さく呟いた。陽太は一礼すると、足元に置いていた紙袋を丁寧に手に取り、テーブルの上へ置いた。
「雫さん。数日遅れてしまいましたが、お誕生日おめでとうございます。合宿の帰りに、パーキングエリアで見つけました。湊さんに好みを伺って選んだものです。……お疲れが、少しでも癒えればと思って」
中から現れたのは、琥珀色の輝きを放つ最高級の蜜蝋キャンドル。お姉ちゃんはその装飾を指先でなぞり、ふっと溜息のような息を漏らした。それは拒絶ではなく、自分の中に生じた正体不明の「揺らぎ」を抑え込もうとする仕草に見えた。
「……。受け取っておくわ。数日遅れの祝辞も、悪くないものね。陽太くん、今夜はあなたも一緒に食事をしていきなさい。あなたの『変化』を、もう少し近くで見極めたいから」
四人で囲む食卓は、これまでの水瀬家にはなかった不思議な熱を帯びていた。私が数日間の特訓で身につけた技術を注ぎ込んだ料理が並び、湊兄さんが戻ったことで、家の中の歯車が再び力強く回り始めたような感覚。
食事が一段落した頃、湊兄さんがグラスを置いて口を開いた。
「姉さん、合宿で蓮に会った。あいつから、伝言を預かっている」
「蓮くんから? 何かしら」
雫さんがナプキンで口元を拭う。陽太も箸を止め、湊兄さんの言葉を待った。
「あいつ、冬休みから一月の入試が終わるまで、星和学院の受験のためにこの家に滞在したいそうだ。合格した後は学院の近くで一人暮らしを始める予定らしいが、それまでの間、世話になりたいと。両親の了解は得ているから、従姉さんにも伝えてくれと頼まれた」
「あら、そう。蓮くんがこの家に来るのね」
雫さんは意外そうに目を細めたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「賑やかになりそうね。あの子も昔から、この家を気に入っていたもの」
「あいつは口数が少ないからな。実際に来ても、そこまで家の空気が変わるとは思えないが」
湊兄さんは淡々と流したが、私は思わず身を乗り出した。
「蓮さんにまた会えるんだ! 楽しみだなあ。……よーし、蓮さんが来るまでに、もっと料理を練習しておかなくちゃ。私の特訓の成果、蓮さんにも驚いてもらいたいな!」
私が意気込むと、陽太が少しだけ照れたように、けれど確かなライバル心を燃やして笑った。
「俺も……負けていられないな。北条さんが来る頃には、テニスでも、対等に話せるようになっていたい」
お姉ちゃんの誕生日、陽太の覚醒、そして蓮さんの来訪予報。 凍てついていた水瀬家の時間は、琥珀色の光に照らされながら、今、大きな奔流となって動き出そうとしていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
選抜合宿終了。そして冬休み(1ヶ月先)の予定も決まりました。
次は帰ってきた二人の部活動での様子になります。




