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神様の身代わり ―光の兄と、罪の妹―  作者: FERILU
第9章:氷の審判と、琥珀の解答

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琥珀の晩餐

11月2日。カレンダーをめくった先にあるその日付は、水瀬家にとって最も重要な「聖日」――雫お姉ちゃんの誕生日だ。そして同時に、山頂で行われている選抜合宿も十一日目を迎え、残すところあと三日となっていた。


冷え込みの増した朝、まだ薄暗い空気の中でポストを確認すると、そこには三度目となる湊兄さんからの封筒が届いていた。しかし、今朝はいつもと重みが違う。中には二つの封筒が重なるようにして入っていた。


私は自室に駆け込み、まずは自分宛てと書かれた一通目の封筒を丁寧に切り開いた。そこには合宿の「七日目」――陽太が真の覚醒を遂げた瞬間の様子が、湊兄さんの冷静ながらも熱を帯びた筆致で克明に綴られていた。


『みゆ、変わりはないか。合宿も後半、七日目の夜にこれを書いている。


信じられないことが起きた。河村陽太の覚醒だ。 この日のメインメニューは、あの日陽太を完膚なきまでに叩き潰した「阿修羅剛」との再戦だった。周囲の誰もが、陽太が再び心を折られ、今度こそ脱落するものだと思っていた。


だが、コートに立った陽太は別人だった。 阿修羅の放つ時速200kmを超える超高速サーブ。一撃でラケットを弾き飛ばす死神のような一打を、陽太は逃げることなく、正面から見据えていた。


隣で見ていた蓮が、珍しく息を呑んで呟いた。「あいつの動体視力、極限状態で別の次元に突入したな」と。 陽太の瞳には、恐れなど微塵もなかった。阿修羅の放つ「暴力」が、あいつの眼には、まるで静止した一球のように、あるいはスローモーションの残像のように見えていたらしい。


陽太は、その剛球を完璧なタイミングでリターンしてみせた。 阿修羅の顔から余裕が消え、コートにはかつてない殺気が満ちたが、陽太はただ不敵に笑っていた。 「湊さん、俺、球の縫い目まで見える気がします」 そう言って汗を拭うあいつの背中は、もう俺たちの後ろを追いかける「後輩」のものではなかった。


俺も蓮も、今の陽太からは目を離せないでいる。蓮にいたっては、あいつの進化を「データを超えた不確定要素」だと面白がり、自ら練習の相手を買って出るほどだ。俺も、あいつの熱に当てられたのか、かつてないほどラケットが手に馴染んでいる。 残り三日。陽太がどこまで登り詰めるか、俺も蓮も見極めるつもりだ。』


手紙を読み終えた私の指先は、興奮で小さく震えていた。 陽太……。地獄のような場所で、あなたはついに自分だけの「武器」を掴んだんだね。 そして、蓮さんや、いつも冷静な湊兄さんまでをも熱くさせてしまうなんて。


私はもう一通の、まだ封の閉じられた『水瀬 雫様』宛ての手紙を手に取った。 こちらには何が書かれているのだろう。 お祝いの言葉? それとも、今の陽太や湊兄さんの決意だろうか。


私は二通の手紙を胸に抱き、静かに部屋を出た。 一階から漂ってくるのは、お姉ちゃんが淹れた朝の紅茶の、高貴で、けれどどこか孤独な香り。 陽太が山の上で「奇跡」を起こしたのなら、私は今日、このキッチンで「解答」を示さなければならない。


リビングへ降りると、お姉ちゃんは既にソファで新聞を広げていた。誕生日の朝であっても、そのルーティンは機械的なまでに正確で、一切の揺らぎがない。ただ、テーブルに置かれたティーカップからは、いつもより少しだけ上質なアールグレイの香りが立ち上っていた。


「おはよう、お姉ちゃん。……お誕生日、おめでとう」


「……ありがとう、みゆ」


お姉ちゃんは視線を新聞に向けたまま、静かに応えた。私はダイニングテーブルの、彼女の手が届きやすい場所に、まだ封の閉まった湊兄さんからの手紙を置いた。


「これ、兄さんからお姉ちゃんに届いてたよ。私への手紙と一緒に、ポストに入ってたの」


お姉ちゃんは動きを止め、細い指先でその封筒を手に取った。 裏面の「水瀬 湊」という署名を見つめるその瞳に、一瞬だけ、遠くを見やるような追憶の色が混じる。彼女はペーパーナイフを使うこともなく、丁寧に、指先で封を切り開いた。


中から現れたのは、私への詳細なレポートとは対照的に、驚くほど潔い、短く端正なメッセージだった。


『雫姉さん、誕生日おめでとう。 選抜合宿に帯同しているため、今年は祝宴に参加できず申し訳ない。 姉さんはみゆにどんな試練を与えたんだ?きっと陽太の現状より厳しい課題を押し付けているんだろうな。姉さんに任せれば間違いはないと思うので、残りの期間もみゆを頼む。


追伸:こちらの一年生が、面白い「化け方」をした。 次に会う時は、水瀬の家にも新しい風が吹くかもしれない。』


お姉ちゃんはそれを一読すると、手紙をテーブルに置いた。

「……湊らしいわね。形式的で、けれどどこまでも真面目。でも、あの子が私に謝るなんて、珍しいこともあるものだわ」


そう言うお姉ちゃんの唇が、微かに、本当に微かに綻んだのを、私は見逃さなかった。湊兄さんの「謝罪」と「挑戦状」のような言葉は、彼女の心に住まう孤独な誇りを、優しく撫でたのかもしれない。


「さあ、みゆ。今夜、楽しみにしているわよ。……あなたの出す『答え』を」


「……はい」


私は短く答え、ラケットバッグを肩に担ぎ直した。 今夜の誕生会という名の「最終試験」を前に、私にはまだ、やるべきことがある。 コートで待っている美咲、奈緒、莉奈。彼女たちに、手紙にあった陽太の「覚悟」を伝え、私自身の闘志を限界まで引き上げなければならない。


「行ってきます!」


私は湊兄さんの手紙を抱えて学校へと向かった。休日ではあるが、十一月の爽やかな秋晴れの下、女子テニス部は午前中の特別練習を実施していた。


「みんな、これ……湊兄さんからの手紙!」


練習開始前、ベンチに集まった美咲、奈緒、莉奈の三人に、私は今朝届いたばかりの報告を伝えた。


「陽太、あの『阿修羅』っていう、あいつの心を折った人に真っ向から打ち合ってるって。誰もが無理だと思ってたのに、時速200キロを超えるサーブを完全に捉えたんだって」


「200キロ……想像もつかないけど、ボロボロにされた相手の球を返したんだね」

美咲が感嘆の声を漏らす。莉奈はいつものように明るく、けれどどこか誇らしげに付け加えた。

「阿修羅剛……河村くんを絶望させたというその人物を相手に、動体視力だけで食らいつくなんて。河村くん、本当に『怪物』たちの領域に足を踏み入れたのね。みゆ、これはもう実力よ!」

「凄い……陽太くん、本当に頑張ったんだ」


奈緒が自分のことのように目を輝かせていると、背後から凛とした声が響いた。


「あら、一年生が随分と熱心ね。その熱量、練習にもぶつけてくれるかしら?」


振り返ると、そこには女子テニス部を束ねる高城部長が立っていた。部長は私たちの会話を耳にしていたようで、口角を僅かに上げ、挑発するようにラケットを構える。


「河村くんが選抜合宿で化けたっていうなら、うちのレギュラー陣がここで弛んでいるわけにはいかないわね。水瀬さん、松本さん。今日は田中さんと星野さんを相手に、私が見本を見せてあげる。徹底的に追い込むわよ」


「部長……! はい!」


部長の喝に、私たちの背筋が伸びる。陽太が山の上で限界を超えているなら、私たちがこの秋空の下で足踏みしている理由はない。


練習は熾烈を極めた。部長は代わる代わる私たちのペアに入り、実力不足な面を鋭く指摘しながらも、時折見せる私たちの「覚醒」には厳しい笑みを返してくれた。


「いい目になったわね、水瀬さん」

休憩中、部長がポツリと言った。

「何か吹っ切れたような顔をしてるわ。……その調子で、午後の自主練も、あるいは家での用事も、自分のペースでやり抜きなさい」


「……ありがとうございます、部長!」


正午を過ぎ、特別練習の終了が告げられた。土曜日の静まり返った校庭に、私たちの荒い息遣いだけが残る。


「さて、今日はここまで。みんな、しっかり休み詰めなさいよ」

高城部長の言葉を合図に、私たちは片付けを終えてコートの出口へと向かった。


「みゆ、頑張ってね。私たちはもう少し練習を続けるわ、全国大会で足手まといにになんかなりたくないからね」

美咲が力強く笑い、莉奈も「河村くんの進化に負けないように、私ももっと練習しておくね!次こそレギュラー入りしてやるんだから!」と茶目っ気たっぷりに頷く。

「みゆ、応援しているよ。陽太くんも、きっと頑張っているから」

奈緒の優しい言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。


「みんな、ありがとう。……行ってくるね!」


三人と手を振って別れる。私はお姉ちゃんの待つ自宅へ足を進める。


体は心地よい疲労感に包まれているけれど、心はかつてないほど澄み渡っている。 さあ、今度は私の番だ。 私を待つ、あの静謐なキッチンへ。 水瀬雫に今の私のすべてをぶつけるために。


夕闇が水瀬家を包み込み、ダイニングには二つのキャンドルが静かに灯された。 主役である雫お姉ちゃんは、深い夜を纏ったような黒のドレスに身を包み、完璧な姿勢でテーブルについている。その姿は、祝われる側というよりも、これから差し出される供物を評価する審判者のようだった。


「……始めなさい、みゆ」


その静かな声を合図に、私はキッチンの奥へと向かった。 練習で痛めた肩の熱は、不思議と今は心地よい緊張感に変わっている。


一品目、『真鯛のポワレ』。 皮目は極限までパリッと香ばしく、身にはナイフを当てた瞬間に溢れるほどの肉汁を閉じ込めた。お姉ちゃんは無言で一口運び、微かに目を細めた。基礎の徹底。それは、私がお姉ちゃんの教えを完全に吸収したという証明だった。


二品目、『牛フィレ肉のロッシーニ風』。 湊兄さんが不在の今、水瀬家の重厚な伝統を象徴するこの皿を、私は一切の妥協なく作り上げた。トリュフの香りが漂う中、お姉ちゃんのフォークが止まることはなかった。


そして、ついに運命の三品目。 私がレシピを自ら考え、昨夜独りで完成させた『フォアグラのソテー 〜無花果いちじくのコンフィチュール〜』。


皿をお姉ちゃんの前に静かに置く。 濃厚なフォアグラの脂の香りと、バルサミコで煮詰めた無花果の甘酸っぱい香りが、キャンドルの炎に揺れて立ち上がった。お姉ちゃんは、この日初めて、手元ではなく私の目を真っ直ぐに見据えた。


「……これが、あなたの出した答えなのね」


彼女は一口、それを口に運んだ。 フォアグラという名の「伝統」と、無花果という私の「意志」。 熱したフライパンの上で、私は陽太が阿修羅の剛球を見切った瞬間の集中力を思い出しながら、この火入れにすべてを懸けた。


その瞬間、お姉ちゃんの動きが止まった。 長く伏せられた睫毛が僅かに震え、氷のようだった瞳の奥に、波紋のような動揺が広がる。


「……みゆ。これは、私の教えた『調和』ではないわね」


「はい。お姉ちゃんの教えを土台にして、今の私が一番美味しいと思うバランスを……私の『熱』を加えました。私はお姉ちゃんの操り人形じゃありません。……一人の人間として、ここにいます」


お姉ちゃんは、皿の上に残ったルビー色のソースを愛おしむように見つめた。 そこにあるのは、支配されるだけの妹ではない。自分と同じように、何かに抗い、何かを勝ち取ろうとする一人の「個」の意志。


「……ええ。いい一皿だわ。……少し、酸味が強すぎるけれど。でも、その尖ったところが……今のあなたなのね」


お姉ちゃんは小さく、本当に微かに微笑んだ。それは冷酷な女王の仮面が剥がれ、ただの「姉」に戻った一瞬だった。


「お誕生日、おめでとうと言ってくれるかしら」


「十九歳のお誕生日、おめでとう。……お姉ちゃん」


その夜、水瀬家を支配していた冷たい静寂の中に、初めて微かな「風」が吹いた。 山頂で覚醒した陽太。そして、この家で自らの意志を示した私。 一週間にわたる長く苦しい「隔絶」は、この琥珀色の晩餐をもって、静かに幕を閉じた。



おはようございます。

作者のFERILUです。


『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』

を読んでくださりありがとうございます。



雫誕生日当日でした。

みゆの6つ年上なので、まだ未成年なんですよね......


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