沈黙の封書
合宿五日目。
一週間という区切りの金曜日の朝、どんよりとした曇り空からは、今にも冷たい雨が降り出しそうだった。
連日の緊張と、夜遅くまで続く雫お姉ちゃんとのマンツーマンの料理特訓。その疲労で、私の体は鉛のように重い。お姉ちゃんとの「特別な時間」が始まる夜に比べれば、朝はまだ「水瀬みゆ」としての自分を保てる時間だったけれど、キッチンから漂ってくる朝食の香りが、昨夜のフォアグラの重厚な脂の匂いを呼び起こし、胃の奥が微かに疼いた。
お姉ちゃんが食卓の準備を整えている間、私はいつものように新聞を取りに玄関へ向かった。ポストの蓋を開けると、数枚のチラシに混ざって、一通の白い封筒が滑り落ちた。
「……あ」
差出人の名前を見て、心臓が跳ねた。
――水瀬 湊。
それは、湊兄さんが合宿一日目の夜に書き、施設の関係者に託して投函されたものだった。私はお姉ちゃんに見つからないよう、それを咄嗟にスカートのポケットに押し込み、足早に自室へ戻って鍵をかけた。
震える手で封を切ると、丁寧な筆致で湊兄さんの言葉が綴られていた。
『みゆ、変わりはないか。雫姉さんと二人で、寂しい思いをさせていないか俺は心配だ。
今、一日目の全メニューを終えて、消灯前の僅かな時間を使ってこれを書いている。スマホが使えないから、こうしてペンを握るのも久しぶりだな。
毎日は無理だが、三日か四日おきに、こうして近況を知らせるつもりだ。
今回の選抜メンバーは、俺たちの想像以上に過酷な顔ぶれだ。全国の中等部から選りすぐりの連中が集まっている。驚いたことに、あの北条蓮も選ばれていた。
(北条蓮――。帝都大附属中等部の三年生で、「氷の貴公子」として湊兄さんと並び称される最高学年の双璧だ。私の母方の伯父の息子、つまり従兄にあたる人で、水瀬家とも親交が深い。幼い頃から私を本当の妹のように可愛がってくれた、もう一人の「兄貴分」とも言える存在だった。)
蓮とは同じ班になった。相変わらずクールな奴だが、俺と陽太、そして蓮の三人でこの試練を乗り切ろうと誓い合ったところだ。だから、俺たちのことは心配しなくていい。
だが、陽太のことだけが少し気がかりだ。
奴は今、人生で最大の壁に直面している。
一日目のスパーリングで、全国の「怪物」たちの洗礼を受け、陽太は一本のゲームすら取れなかった。
今、隣のベッドで横になっている奴の目は、見たこともないほど暗く、絶望に打ちのめされている。あれほど饒舌だった口を固く閉ざし、ただ天井を見つめて呼吸をしている。
俺は、奴が自力で立ち上がるのを信じて待つつもりだ。
みゆ、お前も学校で部活や家で雫姉さんの手伝いを頑張っているんだろうな。自分の成すべきことを全うしろ。また数日後に手紙を書く。 湊より』
手紙を持つ指先が、ガタガタと震えた。
湊兄さんの文面はどこまでも優しく、私の日常を気遣ってくれている。けれど、そこに記された「絶望」という二文字が、鋭い刃のように私の胸を抉った。
どんなに負けても「次は絶対勝つ!」と笑っていたあの陽太が、天井を見つめたまま言葉を失っているなんて。
「みゆ、学校の準備はできたかしら? 朝食が冷めてしまうわよ」
階下から、お姉ちゃんの凛とした声が響いた。
私は慌てて手紙を封筒に戻し、通学鞄の奥深くへと押し込んだ。 鏡の前で自分の顔を軽く叩き、青白い肌を隠すように頬を摩り、強張った表情を無理やり解く。
「……今行くよ、お姉ちゃん」
ダイニングに降りると、完璧にセッティングされた朝食とお姉ちゃんの優雅な微笑みが私を迎えた。
陽太が心折れそうなその時に、私はお姉ちゃんと一緒にこの美しい食卓を囲み、昨日教わったソースの味について語らなければならない。口に運ぶトーストの味は、砂を噛んでいるようにしか感じられなかった。
家を出て学院へ向かう道すがら、何度も鞄の中の封筒の感触を確かめた。
金曜日の登校風景はいつも通りで、すれ違う他校の生徒たちの笑い声がどこか遠い国の出来事のように聞こえる。
陽太、今この瞬間も、あなたは苦しんでいるの?
蓮さんや湊兄さんがそばにいても、届かないほどの深い闇の中にいるの?
公園を吹き抜ける秋の風は、昨日よりも一段と冷たく感じられた。
鞄の中に隠した湊兄さんの手紙が、まるで冷たい氷の塊のように、私の脇腹をずっと冷やし続けていた。
午前中の授業は、まるですべてが遠い異国の言語で語られているようだった。ノートの端には無意識に「陽太」と書きかけ、慌てて塗りつぶす。手紙の内容が、まるで時限爆弾のように私の脇腹をチリチリと突き刺していた。
ようやく訪れたお昼休み。私は美咲を連れて、A組から出てきた奈緒を捕まえ、校舎の隅にある人気の少ない中庭へと向かった。
「みゆ、どうしたの? そんなに血相を変えて」
奈緒が不思議そうに首を傾げる。私は周囲に誰もいないことを確認してから、鞄の奥底に忍ばせていたあの白い封筒を取り出した。
「……これ。今朝、ポストに届いてたの。兄さんからの手紙」
「えっ、湊先輩から!?」
「河村くんのことも書いてあるの!?」
二人が弾かれたように顔を寄せ、声を潜める。私は震える指先で封筒から便箋を取り出し、二人に内容を打ち明けた。
「一日目の夜に書いたものみたい。今回の選抜、想像以上に過酷だって。……帝都大附属の北条蓮さんも来てるって書いてあった」
「北条蓮……!? 帝都大附属中学のエースだよね……。まさか、そんなトップ層まで集まってるなんて」
奈緒の顔が、テニスプレイヤーとしての戦慄に引きつった。中等部テニス界の頂点たちが一堂に会する場所。そこに、たった一人の一年生として放り込まれた陽太の状況を瞬時に悟ったようだった。
「……陽太、一日目のスパーリングで一本も取れなかったんだって。兄さんが言うには、見たこともないくらい落ち込んで、喋ることもできなくなってるって……」
「あの河村くんが、喋れないほど……?」
美咲が口元を押さえ、絶句する。いつもどんなに打ちのめされても「次がある」と笑い飛ばし、私たちを元気づけてくれた陽太。その彼が、天井を見つめて呼吸をすることしかできないほど、心を砕かれている。
「でも、みゆ。これ、書かれたのは四日前でしょ? 一日目の夜の話なんだよね?」
奈緒の鋭い問いに、私は小さく頷いた。
「うん。今はもう五日目の朝……。この四日間で陽太が立ち上がれたのか、それとももっと酷いことになってるのか……何もわからないの」
湊兄さんの文面は優しく、「信じて待つ」「蓮と一緒に乗り切る」と力強い言葉が並んでいた。けれど、その背後にある「絶望」という二文字の重みが、今の私にはあまりに耐え難かった。
「連絡があれば少しは安心できると思ったけど……余計に怖くなっちゃった」
美咲が私の肩にそっと手を置く。
そう、これは四日前の情報。
合宿所という名の「聖域」では、一分一秒が選別の刃となって彼らを切り刻んでいるはずだ。陽太が心折れそうなその時に、私はこうして友達と話し、夜にはお姉ちゃんの指示通りに華やかな料理を作らなければならない。
中庭に降り始めた霧雨が、私の制服を静かに濡らしていく。
陽太。今、あなたがいる場所でも雨が降っているの?
その雨は、あなたの涙を隠してくれているの? それとも、冷たくあなたを追い詰めているの?
五日目の昼休み。届いたはずの「声」は、皮肉にも私たちの不安をより深く、暗いものへと変えてしまった。
放課後、学校を出る頃には雨は本降りになっていた。
美咲や奈緒と共有した「四日前の絶望」が、冷たい湿気となって肌に張り付く。鞄の奥にある湊兄さんの手紙が、まるで陽太の悲鳴を閉じ込めた箱のように感じられて、私は逃げるように水瀬家へと急いだ。
「おかえりなさい、みゆ。今日は一段と顔色が険しいわね」
キッチンのカウンターに立つ雫お姉ちゃんは、私の心の乱れなど微塵も気にとめない様子で、冷たく光る真鯛の切り身を指し示した。
「……お姉ちゃん。兄さんから手紙が届いたの」
思わず口に出した私に、お姉ちゃんは作業を止めず、優雅にエプロンの紐を締め直した。
「そう。湊らしいわね。見せてもたってもいい?」
「......うん」
「蓮くんも選ばれてるのね、陽太くんの状況は...なるほどね」
「みゆ。この手紙に何が書いてあろうと、今のあなたには関係のないことよ。……さあ、包丁を握りなさい。今日は『真鯛のポワレ 〜ヴァン・ブラン・ソース〜』を、完璧に仕上げてもらうわ」
お姉ちゃんの声には、外界の雑音を一切許さない拒絶の響きがあった。
私は促されるままに、一品目のメニューに取り掛かった。
これまでの三日間、私は何度も失敗してきた。
皮が剥がれたり、身が縮んだり、あるいはソースに雑味が出たり。その度に、お姉ちゃんの冷徹な「やり直し」という宣告がキッチンに響いた。
「いい、みゆ。陽太くんが今、絶望しているのだとしたら……それは彼に、その絶望を撥ね退けるだけの『力』がないからよ。あなたが今すべきことは、彼を可哀想に思うことではない。あなたが、誰にも文句を言わせない『完璧』をその手で生み出すこと。……それが、水瀬家の流儀よ」
お姉ちゃんの言葉に、指先が強張る。
(陽太。あなたが一本も取れなかったっていうスパーリング。私は、この一皿を完璧に作ることで、あなたと一緒に戦う……!)
集中力が、研ぎ澄まされていく。
熱したフライパンにオリーブオイルを敷き、真鯛の皮目を下にして置く。
ジッ、という小気味よい音が響く。反り返ろうとする身を指先で優しく、けれど確実に押さえる。皮一枚の厚みを意識し、熱が身の三分の二まで白く上がってくるのを、瞬きもせずに見つめた。
「……今よ」
身を返し、余熱でしっとりと火を通す。
並行して作るヴァン・ブラン・ソース。エシャロットの甘みを引き出し、白ワインを煮詰め、冷たいバターを少しずつ溶かし込む。
不純物を丁寧に取り除き、最後に一滴、レモンを。
「お姉ちゃん……できました」
お皿に盛り付けられた一皿は、夕闇のキッチンで宝石のように輝いていた。
皮は黄金色にパリッと焼き上がり、ソースは琥珀を溶かしたような艶を放っている。
お姉ちゃんは一口、それを口に運んだ。
長い沈黙。雨音だけが激しく窓を叩く。
「……ええ。皮の焼き切り、ソースの乳化状態……申し分ないわ。これなら、私のゲストに出しても恥ずかしくない。一品目は、合格よ」
その瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私はその場にへたり込みそうになった。
初めて得られた「合格」。
けれど、その達成感と同じくらい、私の心には暗い影が落ちていた。
陽太が泥にまみれ、声を失っているその日に、私はこの冷たく美しい料理の世界で、一歩先へ進んでしまった。
お姉ちゃんが微笑みながら、私の髪を優しく撫でる。その手は温かいのに、私の心は冬の夜の底に沈んでいくようだった。




