三日間の浸食
二人が旅立った翌日。
昨夜、お姉ちゃんに深夜まで叩き込まれた「真鯛のポワレ」の工程が頭から離れず、浅い眠りのまま登校した私は、教室のドアを開けた瞬間に再び「現実」を突きつけられた。
いつもなら、登校してすぐにA組の廊下側から聞こえてくるはずの、陽太の少し騒がしい笑い声。
「おはよ!」という短い挨拶すら交わさない朝。それがこれほどまでに心細いものだとは、思ってもみなかった。
「……みゆ、おはよ。顔色、あんまり良くないね。ちゃんと眠れてる?」
席に着くなり、美咲が心配そうに覗き込んできた。彼女の手には、いつも陽太が「一口ちょうだい」とせがんでいた購買のパンが握られている。
「おはよう、美咲。……大丈夫。ちょっと、お姉ちゃんの料理レッスンが本格的すぎて」
「雫お姉様だもんね……。でも、今日からなんだよね、あっちの練習も本格化するのは。朝からテニス部の男子たちがソワソワしてるよ。『今日あたり、最初の脱落者が出るんじゃないか』なんて、不吉なこと言ってる人もいて……」
美咲が窓の外、どんよりと雲が垂れ込める山の方角を見やった。
私もつられて視線を送る。あそこには、今の私たちの声は届かない。昨日届いた「大好きだ」というメッセージを最後に、陽太の時間は私の世界から切り離されてしまった。
授業中も、ふとした瞬間に視線が窓の外へ向く。
(陽太、今ごろ走ってるのかな。それとも、もう試合をしてるんだろうか……)
彼を信じていないわけじゃない。けれど、あそこは実力だけで測れない「選別の場」だと聞く。兄さんという絶対的な存在がそばにいるとはいえ、それが逆に陽太のプレッシャーになってはいないだろうか。
放課後。一人で帰宅した私を待っていたのは、琥珀色のスープが静かに煮える音と、お姉ちゃんの優雅な微笑みだった。
「おかえりなさい、みゆ。昨日の復習は完璧かしら?」
お姉ちゃんは、昨日よりも少しだけ鋭い視線で私をキッチンへと誘った。シンクには、昨日よりもさらに大ぶりで立派な真鯛が横たわっている。
「……お姉ちゃん。陽太たちは、今ごろ何をしてるのかな」
包丁を握りながら、思わず口をついて出た言葉に、お姉ちゃんは手を止めることなく答えた。
「さあ。泥を噛むような思いをしているのか、あるいは自分の無力さに打ちひしがれているのか……。どちらにせよ、今のあなたにできることは、彼らの心配をすることではないわ」
お姉ちゃんが私の背後に回り、包丁を持つ私の右手に、自分の冷たい手を重ねた。
「いい、みゆ? あなたが今すべきことは、彼らが帰ってきたときに『見惚れてしまうような女性』になっていること。……そのためには、まずこの魚の命を、あなたの手で完璧な一皿へと昇華させるのよ」
重ねられたお姉ちゃんの手から、拒絶できないほどの意志が伝わってくる。
陽太。今、どこにいるの。
私の不安を切り裂くように、銀色の刃が真鯛の身に深く、静かに入り込んでいった。
三日目の朝。
目覚めたとき、指先に微かな筋肉痛を感じた。昨日、お姉ちゃんの指示通りに何時間も同じ動作を繰り返したせいだ。包丁を握る手が、いつもより少しだけ重い。
学校へ向かう足取りは、日を追うごとに重くなっていく。陽太のいない風景に慣れるどころか、彼がいないという「欠損」が、教室の空気そのものを変えてしまっているようだった。
「みゆ、ここ座っていいかな?」
お昼休み。いつものように美咲とお弁当を広げていると、A組から奈緒がやってきた。彼女も女子テニス部のメンバーとして、普段から陽太の練習を近くで見てきた一人だ。
「奈緒。……やっぱり、A組も静か?」
「……静かっていうか、落ち着かないよ」
奈緒はため息をつきながら、私と美咲の前の席に座った。
「男子部のメンバーも、みんな合宿の話ばかり。でも、誰のところにも連絡なんて来てないみたい。あそこ、本当に外部との接触を遮断しちゃうんだね……」
「そうだよね。……陽太、今ごろどうしてるかな」
私の呟きに、奈緒ちゃんは少し眉をひそめて、窓の外の遠い空を見つめた。
「それが一番心配なの。陽太くん、実力はあるけど、あそこには全国から『怪物』みたいな三年生が集まってるんでしょ? 彼、真っ直ぐすぎるから、もし上手くいかなかった時に一人で抱え込んでないかって……。女子部のみんなも、『あの明るい笑顔が消えてなきゃいいけど』って、そればかり話してるんだよ」
「……」
奈緒の言葉に、喉の奥がキュッと締め付けられる。
スマホの画面を点けても、二日前で止まった陽太の『絶対強くなって帰ってくるから待ってて』というメッセージが虚しく光るだけ。今の彼が笑っているのか、それとも壁にぶつかって苦しんでいるのか、私には「頑張れ」の一言すら届ける術がない。
情報がないということが、これほどまでに残酷な不安を呼ぶとは知らなかった。
その日の放課後。
沈んだ気持ちで帰宅した私を待っていたのは、昨日お姉ちゃんから提示された「八つの料理候補」を具体化するための、本格的な食材の検分だった。
キッチンカウンターには、昨日リストで見た名前が現実の形となって並んでいる。
岩のように重厚な牛フィレ肉、艶やかなフォアグラの塊、そして水槽で静かに動く鮑。
「おかえりなさい、みゆ。さあ、昨日渡したリストをもう一度確認して。今日はそれぞれの料理がどのような『覚悟』を必要とするのか、その一端を教えてあげるわ」
お姉ちゃんは優雅な手つきで、銀色のクロッシュ(皿の蓋)を持ち上げた。
「たとえばこれ、『牛フィレ肉のロッシーニ風』。最高級の肉にフォアグラとトリュフを重ねる、贅沢の極み。でも、火加減を秒単位で間違えれば、すべてが台無しになる残酷な料理よ。……あるいは、この『鮑のステーキ』。素材の弾力を活かすか、それとも硬くしてしまうかは、あなたの指先の感覚一つにかかっているの」
私は、並べられた食材を圧倒されるような思いで見つめた。どれもが、今まで陽太と笑いながら食べていた「ハンバーグ」や「オムライス」とは、住む世界が違いすぎる。
「お姉ちゃん……やっぱり、私には荷が重い気がする。こんなに難しそうなもの、たった十日で……」
「あら、そんな弱気でどうするの? あなたがこれらを完璧にこなせるようになったとき、あなたは今の『迷えるみゆ』を卒業できるのよ。……湊や陽太くんが、選抜という過酷な環境で、誰の助けも借りずに自分を塗り替えているようにね」
お姉ちゃんは私の背後に立ち、耳元で低く囁いた。
陽太のことが心配でたまらない私の心を見透かすように。彼を想う時間を、この複雑で華やかな料理の知識と技術で強制的に上書きしてしまえと言わんばかりに。
「明日の夜までに、この中から運命の三品を決めなさい。……いいわね?」
目の前の高級食材を見つめながら、私は自分の心が、お姉ちゃんの用意した「琥珀色の迷宮」へと一歩ずつ、深く引きずり込まれていくのを感じていた。
合宿四日目。
学校での時間は、もはや私にとって「空白」を数える作業でしかなかった。美咲や奈緒ちゃんと交わす会話も、どこか遠い場所で鳴っている音のように聞こえる。陽太の机は今日も綺麗すぎるほどに片付いていて、その無機質さが私の不安をさらに煽った。
放課後の予鈴が鳴ると同時に、私は逃げるように学校を後にした。今の私にとって、唯一自分の居場所があると思えるのは、お姉ちゃんの待つキッチンだけだった。
「……ただいま、お姉ちゃん」
「おかえりなさい、みゆ。覚悟は決まったかしら?」
リビングのソファに腰掛け、一冊の古びた洋書――おそらくフランス料理の専門書――を閉じて、雫お姉ちゃんが立ち上がった。その双眸は、迷いを許さない静かな光を湛えている。
私は深呼吸をして、昨日からずっと握りしめていたメモをカウンターに置いた。
「決めたよ。……この三つにする」
私が指し示したのは、お姉ちゃんが提示した8つの候補の中でも、特に「洗練」と「技術」を必要とするものだった。
1. 真鯛のポワレ 〜ヴァン・ブラン・ソース〜
2. 牛フィレ肉のロッシーニ風
3. フォアグラのソテー 〜無花果のコンフィチュール〜
「……へぇ。王道でありながら、一切の誤魔化しが効かない三品ね。これを七日でマスターするのは、並大抵のことではないわよ」
お姉ちゃんは満足げに、けれど厳格な響きを含んだ声で言った。
「いい、みゆ。この三品を選んだということは、あなた自身が『甘え』を捨てるということ。陽太くんのことを思い出して涙をこぼせば、ソースは塩辛くなる。湊のことを考えて手が止まれば、肉は焼きすぎる。……このキッチンでは、私と、料理と、あなた。それ以外のすべてを切り捨てなさい」
お姉ちゃんの手が、私の肩を強く抱き寄せた。
その瞬間、私の頭の中から、陽太のあの屈託のない笑顔や、合宿所の冷たい空気の想像が、霧散していくのを感じた。
「さあ、始めましょう。まずはフォアグラの脂の温度……その微かな香りの変化を、魂に刻み込むのよ」
「……はい、お姉ちゃん」
私はエプロンをきつく締め直し、銀色の包丁を握った。
陽太が今、遠い山の上でラケットを握り、誰の声も届かない場所で叫んでいるとしても。今の私にできるのは、この閉ざされた美しい空間で、お姉ちゃんの望む「完璧な人形」へと自分を仕立て上げることだけだった。
外では冷たい秋の雨が降り始めていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
三日間を詰め込みました。
雫の誕生日まで残り七日です




