見送りと最後のメッセージ
10月も下旬に入ると、星和学院の敷地内に並ぶ木々は鮮やかな朱色や黄金色に染まり、朝晩の冷え込みが肌を刺すようになる。星和祭の熱狂が終わった翌週の月曜日。本来なら文化祭の余韻に浸りながら友人たちと笑い合い、授業を受けるはずの朝だったが、水瀬家の玄関には、いつになく張り詰めた、しかしどこか名残惜しい空気が漂っていた。
「……忘れ物はないわね、湊? 陽太くんも」
玄関先で、雫お姉ちゃんが二人の巨大なラケットバッグを検分するように見つめる。今日から二週間、湊兄さんと陽太は「ジュニアナショナル選抜合宿」へと向かう。学校は公欠扱い。二人が再びこの玄関を跨ぐとき、季節はさらに深まり、冬の足音が聞こえているはずだ。
「ああ。何度も確認した。問題ない」
湊兄さんは、『星和学院中等部』のロゴが入ったネイビーのジャージに身を包んでいた。中等部最高学年としての風格、そして春から進学する高等部を見据えたその瞳は鋭いが、今朝はどこか穏やかだった。湊兄さんは私の不安そうな視線に気づいたのか、私の頭にポンと手を置いた。
「みゆ。そんなに不安そうな顔をするな。たった二週間だ。俺がしっかり、陽太を見ていてやるから」
「……兄さん。陽太のこと、よろしくね。無茶しそうだから」
私の言葉に、湊兄さんは小さく口角を上げた。それは厳格な「水瀬湊」ではなく、妹を慈しむ一人の兄の顔だった。
「わかっている。……陽太。お前もだ。出発前からそんなに肩に力を入れてどうする。バッグが重いのはわかるが、気圧されるな」
「……はい、湊さん。すみません。なんか、実感が沸いてきて……」
隣で、陽太が緊張で強張った面持ちのまま、深呼吸を繰り返していた。肩に食い込むバッグの重みが、これから始まる過酷な選別の重圧を表しているようで、私は思わず彼のジャージの袖をぎゅっと掴んだ。
「……陽太。頑張ってね。怪我だけは、絶対しないで。毎日、お祈りしてるから」
「みゆ……。ああ、約束だ。……合宿所はスマホ禁止で、連絡も全然できなくなるけど……。俺のこと、忘れないで待っててくれよな」
陽太は照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。今日この瞬間から、私たちは物理的にも精神的にも、完全に隔絶された二週間を過ごすことになる。
「……陽太、私語はそれまでだ。送迎の車が来たぞ。行くぞ」
湊兄さんの声は再び凛としたものに戻った。玄関の前に停まった黒塗りの送迎車に、二人が重い荷物を次々と積み込んでいく。車に乗り込む直前、兄さんはもう一度だけ私の方を振り返った。
「みゆ。俺たちがいない間、学校を疎かにするなよ。……それと、雫姉さんの言うことをよく聞いておけ。一人で寂しがってばかりいても、時間は進まないからな」
「……え? うん、わかった。兄さんも、気をつけてね」
二人の乗った車がゆっくりと動き出し、朝靄の立ち込める坂道の下へと消えていく。残されたのは、私とお姉ちゃんの二人だけ。あまりにも急に静まり返った玄関先で、冷たい秋風がスカートを揺らした。
「……行ってしまったわね。さて、みゆ」
お姉ちゃんが私の肩を抱き寄せ、耳元でふふ、と楽しげに囁いた。
「ちょうどいいわ。二人という『ノイズ』がいない間に、あなたを本物の『水瀬家の令嬢』に仕上げてあげましょう。まずはそうね……あなたの料理のレパートリー、この機会に増やしてあげましょうか」
「料理……? 私、今のままでも兄さんに美味しいって言ってもらえてるよ?」
「甘いわね。湊の『美味しい』は、あなたの努力を認めているだけで、味そのものに満足しているわけじゃないわ。それに、ちょうど10日後は、11月2日。私の誕生日でしょう?」
お姉ちゃんは私の顔を覗き込み、逃げ場を塞ぐように微笑んだ。
「今年はあの二人がいないかもしれない。……いえ、あえて呼び戻さないわ。今年は私とあなたの二人きりで、静かにお祝いしましょう。だから、お姉様を唸らせるようなフルコースを私と一緒に作れるようになってもらうわよ。いいわね?」
「お姉ちゃんの誕生日を、私がお祝いするの……?」
「ええ。二人きりで過ごす、特別な誕生日。楽しみね、みゆ。……さあ、ぼんやりしていないで。予鈴が鳴ってしまうわよ」
背中を優しく、けれど拒めない力で押され、私は一人で通学路へと歩き出した。隣にいるはずの陽太の元気な声も、後ろから見守ってくれる兄さんの気配もない。
心にぽっかりと空いた穴に、冷え冷えとした秋の空気が流れ込んでくる。私は「二人分の空席」が待つ学校へと、重い足取りで進んでいった。
週明けの月曜日、星和学院の校舎はいつも通りの喧騒に包まれていた。けれど、昇降口で靴を履き替え、B組の教室へと向かう私の足取りは、どこか頼りなく重い。
いつもなら、この時間は隣のA組のあたりから陽太の元気な話し声が聞こえてくるはずだった。陽太は朝練を終えてそのままA組の連中と騒ぎながら教室に入るのが常で、私の教室に直接顔を出すことは滅多にない。けれど、廊下の向こうから「お前、そのサーブねーよ!」と笑い飛ばす彼の少し高い声や、それに応じる男子たちの賑やかな気配を感じるだけで、私の朝は「今日も大丈夫だ」という安心感とともに始まっていたのだ。
しかし、今日の廊下は驚くほど静かだった。いや、実際には生徒たちの話し声で満ちているはずなのに、その空気から「陽太の音」だけがすっぽりと抜け落ちている。
「みゆ、おはよ。……あーあ、やっぱり。そんなに露骨に肩を落とさないの。隠せてないわよ、寂しいですってオーラ」
自分の席に座り、ぼんやりと開いたノートを見つめていた私に、親友の美咲が呆れたような、けれど優しい声で話しかけてきた。
「おはよう、美咲。……そんなに顔に出てた?」
「出てる出てる。お通夜みたい。まあ、湊先輩と河村くんがいっぺんにいなくなったんだもんね。水瀬家、今朝は朝ごはんの音しかしなかったんじゃない?」
「……今日出発したから明日からそうなるね。お姉ちゃんはいつも通り優雅だと思うけどね」
私が苦笑いしながら答えると、美咲は自分の椅子を私の机に引き寄せ、少し声を潜めて続けた。
「そっか、今日からなんだね、例の合宿。朝からテニス部の男子たちがその話でもちきりだよ。湊先輩は当然として、1年生で選ばれたのは全国でもほんの一握り。その一人が隣のクラスにいるなんて、星和の誇りだ!……なんて、最初はみんな鼻高々だったんだけど」
美咲は少し視線を窓の外にやり、言葉を選んだ。
「でも、あそこは『選別の場』だって噂、結構広まってる。スマホも没収、外部との連絡は一切禁止。……陽太くん、実力はあるけど、周りは全国クラスの怪物ばっかりでしょ? メンタルが削られて、自信喪失して帰ってくる子も少なくないって聞いて。みんな、期待してる反面、ちょっと心配してる雰囲気もあるんだよね」
美咲の言葉が、私の胸にチクリと刺さった。陽太は、誰よりもテニスが好きで、真っ直ぐな人だ。けれど、その真っ直ぐさが、あまりにも高い壁にぶつかった時、ポッキリと折れてしまわないか。
「……陽太、朝からずっと緊張してた。連絡が取れない二週間なんて、これまでなかったから……」
美咲の言う通り、廊下を歩く生徒たちの会話からも「ジュニアナショナル」「強化選手」という単語が断片的に聞こえてくる。普段は陽太をからかっている男子たちが、どこか遠い世界の人を見るような目でA組の空席を見ているのが分かった。
陽太と兄さんが、私の手の届かない、声も届かない場所へ行ってしまった実感が、朝の冷たい秋の空気と共に、じわじわと肌に染み込んでいくのを感じていた。
四時限目の授業が終わり、お昼休みを告げるチャイムが校内に響き渡った。いつもならこの音と同時に、廊下の向こう側で椅子を引く音や、賑やかな昼食の準備が始まる。けれど、私の意識は机の中に忍ばせたスマートフォンに釘付けになっていた。
マナーモードに設定した端末が、微かに、けれど力強く二度震えた。
私は吸い寄せられるように画面を起動した。
『合宿所に到着した。今から端末を預ける。二週間、自分を磨いてくる。雫姉さんの言うことをよく聞いて、お前もやるべきことをやれ。 湊』
『みゆ! 今からスマホ没収です。寂しいけど、絶対強くなって帰ってくるから待ってて。……大好きだ! 行ってきます! 陽太』
「あ……」
画面を見つめたまま、指先が止まる。これが、これから二週間の「最後の言葉」。
二人の言葉は、どちらも真っ直ぐに「前」を向いていた。特に陽太の、照れ隠しも何もない剥き出しの言葉が、胸の奥を熱く、同時にひどく締め付ける。
「みゆ? どうしたの、そんな顔して。スマホがどうしたって?」
不思議そうに覗き込む美咲と、ちょうどA組から遊びに来た女子テニス部の奈緒ちゃんに、私は画面を隠すことなく見せた。
「二人から……今、合宿所に着いたって。これからスマホを預けるから、二週間連絡できなくなるって……」
「そっか……。ついに始まったんだね」
奈緒ちゃんは私の隣に腰を下ろすと、少し複雑そうな表情で、お弁当の包みを解きながら言った。
「さっきまでA組でも、男子たちがその話題で盛り上がってたんだけどね。やっぱり心配してる子も多いんだよ。河村くん、1年生でただ一人選出されたことで、逆に周囲から『お前、実力に見合ってないだろ』って洗礼を受けたりしないかなって。女子部のみんなも、彼が心まで折られなきゃいいんだけどって、さっき部室で話してたの」
「……陽太なら大丈夫。あの子、粘り強いから」
私は二人の「最後の一文」を心のお守りにするようにして、精一杯の言葉を返した。奈緒ちゃんは私の手をそっと握り、「みゆが信じてるなら、きっとあいつは大丈夫。……でも、何かあったら私たちに言いなよ?」と優しく微笑んでくれた。
お昼休みの喧騒の中、いつもなら廊下を通りがかる際に窓越しに目が合うはずの陽太も、遠くの校舎から静かに見守ってくれる兄さんもいない。
物理的に切り離された不安を、今届いたばかりの熱いメッセージで必死に抑え込みながら、私は放課後、お姉ちゃんが待つ「静かな家」へと帰る準備を始めた。
陽太と兄さんがいない放課後は、驚くほど長く、そして静かだった。部活動の活気も今の私には遠い世界の出来事のように思えて、私は寄り道もせず、まっすぐ水瀬家へと帰った。
「ただいま……」
玄関のドアを開けると、微かに漂ってきたのは、普段の我が家では嗅ぎ慣れない芳醇な香りの重なり。バターの濃厚な甘さと、じっくりと煮込まれた香味野菜の、どこか官能的ですらある深い香りだった。
「おかえりなさい、みゆ。ちょうどいいタイミングね」
キッチンのカウンターに立っていたのは、上品なリネンのエプロンを完璧に着こなした雫お姉ちゃんだった。彼女は手にした木べらを置き、優雅な動作でタイマーを止めると、私の方を見て薄く微笑んだ。
「制服を脱いでいらっしゃい。さあ、今日から私たちの『特別な二週間』が始まるわよ」
エプロンを締めてキッチンの前に立った私に、お姉ちゃんは一枚の美しいメニューリストを差し出した。そこには、私の想像を絶するような華やかなフランス料理の名前が並んでいる。
「湊や陽太くんがいない間に、あなたを本物の『水瀬家の令嬢』にしてあげる。11月2日の私の誕生日に向けて、あなたがメインとして作りたいものを、この8つの中から3つ選びなさい。この二週間で、その3品を完璧にマスターしてもらうわよ」
お姉ちゃんが提示した候補は、どれも宝石のように輝いて見えた。
【雫の誕生日 料理候補リスト】
1. 牛フィレ肉のロッシーニ風
2. 真鯛のポワレ 〜ヴァン・ブラン・ソース〜
3. 鴨のロティ 〜アピシウス風ソース〜
4. オマール海老のテルミドール
5. 平目のボン・ファム
6. 子羊のナヴァラン
7. 鮑のステーキ 〜肝醤油のブールブラン〜
8. フォアグラのソテー 〜無花果のコンフィチュール〜
「お姉ちゃん、これ、どれも難しそう……。私にできるかな」
「あら、そんな弱気でどうするの? 私が横について、あなたの手首を掴み、一からすべて叩き込んであげるわ。……いい、みゆ?選抜合宿に参加した二人は今、外の世界との連絡をすべて絶って、自分を磨くために死力を尽くしているの。あなただけが、いつまでも中等部の甘い気分で立ち止まっているわけにはいかないでしょう?」
お姉ちゃんは、私が昼休みに受け取った「合宿開始の連絡」のことは知らない。けれど、まるですべてを見透かしているかのような言葉が、胸の奥を鋭く突いた。
「湊が帰ってきたときに、驚かせてあげたいとは思わない? あなたのその頼りない指先が、完璧なソースを作る魔法の杖に変わっているところを。……さあ、みゆ。どれを選ぶのかしら?」
お姉ちゃんの指先が、私の頬を優しく撫でる。その触感は冷たく、けれど逃げられないほど確かな力強さを持っていた。
陽太が遠い山奥で孤独に戦い始めたその頃、私はお姉ちゃんが用意した「琥珀色の檻」の中で、彼女の望む形へと少しずつ塗り替えられようとしていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
9章に入りました。
二人が居ない毎日が始まります。




