再起の伝言と四人の結束
合宿八日目、十月の最終週。 雫お姉ちゃんの誕生日は四日後に迫っていた。 街はハロウィンの浮き足立った空気に包まれ始めているけれど、水瀬家の中だけは、凍てつくような静寂と、最高級食材の芳醇な香りが混ざり合う異質な空間となっていた。
私はこの三日間、二品目の「牛フィレ肉のロッシーニ風」の特訓に明け暮れていた。肉の厚み、フォアグラの焼き加減、そして芳醇なペリグーソースのコク。お姉ちゃんの要求は日に日に厳しさを増し、私の指先には消えないバターの香りが染み付いていた。
そんな八日目の朝。ポストに再び、あの白い封筒が届いていた。 兄さんからの二通目の手紙。 私は逸る心を抑え、部屋で息を潜めてその便箋を広げた。
『みゆ、元気か。雫姉さんのいう事は守ってるか。 合宿もいよいよ後半戦だ。脱落者が数名出た。それほどまでに現場は荒れている。 だが安心してくれ。陽太は、あいつは……地獄の底から這い上がってきた。
あれからさらに三日が過ぎた。四日目の夜にこれを書いている。 二日目、三日目と、陽太を標的にした他校の連中の攻勢は凄まじかった。 特に「西日本スポーツアカデミー」の阿修羅。あいつの暴力的なパワーテニスに、陽太は一度、完全に心を折られた。ラケットを握る手さえ震え、食事も喉を通らない状態が続いていたんだ。
俺も蓮も、あえて手は貸さなかった。ここで誰かに救われたら、陽太は一生「怪物」たちの餌食になるだけだと分かっていたからだ。蓮にいたっては「今の河村はただのガラクタだ」とまで言い放っていた。
だが、昨日の夜だった。 消灯後、ふと隣のベッドを見ると陽太がいない。 慌てて外のコートへ向かうと、月明かりの下、独りで素振りを繰り返す陽太の姿があった。 あいつ、泣きながら笑っていたんだ。「湊さん、俺、やっぱり負けたくないです」って。
今日の練習から、陽太は見違えた。 まだ実力差はある。だが、阿修羅や不知火、あの「技巧の神童」と呼ばれる天音司を相手にしても、陽太の目はもう死んでいない。むしろ、ボロボロになりながらも奴らの技術を盗もうと食らいついている。
蓮も、そんな陽太の姿を見て、少しだけ口角を上げた。 「ようやく、まともな面構えになったな」とな。
俺たち三人は、最後まで戦い抜く。 みゆ、お前も寂しさに負けるな。俺たちは、必ず前よりも強くなってお前の元へ帰る。 湊より』
手紙を読み終えた瞬間、視界が涙で滲んだ。 陽太。あなたは、そんなに苦しいところで、一人で戦っていたんだね。 湊兄さんや蓮さんに見守られながら、自分の弱さと向き合って、泥を噛んで……。
「……よかった」
陽太が笑っている。泣きながらでも、前を向いている。 四日目の夜に彼が掴んだその光が、今、八日目の私の元へ届いた。 その事実に救われる一方で、私の胸には別の焦燥が込み上げた。
陽太がそれほどの覚悟で自分を塗り替えているなら、私はどうだろう。 お姉ちゃんの美しく残酷な指導に、ただ流されているだけではないだろうか。 二品目のロッシーニ。フォアグラの濃厚な脂が、まるでお姉ちゃんの執着のように肉に絡みつくあの料理。
「……負けない」
私は手紙を大切に鞄へしまい、鏡の中の自分を睨みつけた。 陽太が這い上がったのなら、私もこの琥珀色の迷宮の中で、お姉ちゃんの予想を超える「自分」を掴み取らなければならない。
八日目の朝。 遠い山頂で戦う陽太と、誕生日を目前に控えたキッチンという名の戦場に立つ私の想いが、初めて同じ熱量で重なったような気がした。
10月も最終週に入り、窓の外を濡らす雨はいっそう冷たさを増していた。金曜日の喧騒が嘘のように、月曜日の教室は静まり返っている。
私は一限目が始まる前、美咲、奈緒、莉奈の三人を連れて、誰もいない図書室の奥の席へと向かった。鞄の中にある、あの白い封筒の重みが昨日までとは違って感じられる。それはもはや不安の塊ではなく、遠い山頂から届いた「体温」のようだった。
「……これ、今朝届いた二通目の手紙」
私が封筒を取り出すと、三人は弾かれたように顔を寄せた。
「湊先輩……。また届いたんだね」
「河村くん、どうなってる……?」
美咲の声が、わずかに震えている。私は頷き、手紙の内容をみんなへ打ち明けた。
「……陽太、一度は阿修羅っていう三年生に完全に心を折られちゃったみたい。食事も喉を通らないくらい。でも……」
私は、手紙に書かれた一節を思い出し、胸が熱くなるのを感じた。
「四日目の夜、雨の中で独りで素振りをしてたって。兄さんに『負けたくない』って笑って言ったんだって。今はもう、どんな相手にも食らいついてるって書いてあった」
「……河村くんらしい。本当、河村くんらしいよ……!」
美咲が自分の膝を叩き、鼻の頭を赤くして笑った。莉奈はいつものように冷静な表情を崩さず、手紙に記された「阿修羅、不知火、天音、北条」という四人の名をじっと見つめている。
「阿修羅剛に不知火焔、天音司……。それに湊先輩のライバルの北条蓮さん。そんな全国屈指の猛者たちに囲まれて、一歩も引かないなんて。陽太くん、この数日でどれだけ強くなってるんだろう」
奈緒が、自分のことのように拳を握りしめる。莉奈も手元のメモにその名を書き留めた。
「……湊先輩がわざわざ名前を出すほどの相手だもの、相当な実力者よね。でも、彼が前を向いたのなら、私たちのやるべきことも決まったわね」
四人の笑顔と莉奈の真っ直ぐな言葉に、私の心にもようやく一筋の光が差し込んだ。
放課後。雨が小降りになったのを見計らって、女子テニス部のコートには活気が戻っていた。 レギュラー入りしている私と美咲、そして実力向上を目指す奈緒と莉奈。私たちは四人でコートに入り、バランスを考えてペアを組んだ。
「美咲、いくよ! 基礎からしっかり固めていこう!」
「オッケー奈緒! 手加減なしでお願い!」
奈緒が美咲のフォームを厳しくチェックしながら、精度の高いストロークを打ち込む。一方で、私は莉奈と向かい合った。
「莉奈、今のショットはどうだった?」
「みゆ、今の打球は回転が甘いわ。湊先輩の手紙にあったような、全国の『怪物』たちを想定して打って。もっと深く、鋭く!」
莉奈は手紙の情報を元に、「全国レベル」のプレッシャーを必死にイメージしながら私にアドバイスをくれる。技術的にはまだ発展途上の二人だけれど、その熱意はレギュラーの私たちを圧倒するほどだった。
「さあ、一本集中! 陽太くんに負けてらんないよ!」
奈緒の鋭い声が響く。陽太が死闘を繰り広げているという事実は、私たち全員の心に共通の火を灯していた。
一球一球に込められた四人の気迫。それは、遠く離れた場所で戦う陽太と、目に見えない糸で繋がっているようだった。
「みゆ、もっと深く! 相手の呼吸を読んで!」
「分かった!」
私は全神経をボールに集中させた。 陽太は変わろうとしている。美咲も、奈緒も、莉奈も。 みんな、この冷たい秋の雨の中でも、それぞれの場所で熱く生きている。
私は鞄の中の手紙をもう一度そっと撫でた。 みんながそれぞれの「戦場」へ向かっている。私も、自分の場所へ戻らなければならない。 部活を終えれば、次はお姉ちゃんの待つ、あの静謐で過酷なキッチンが待っている。
部活を終え、急いで帰宅した私の体には、心地よい疲労と冷たい雨の名残が染み付いていた。けれど、玄関の扉を開けた瞬間、その空気は一変する。
「おかえりなさい、みゆ。準備はできているわね?」
リビングで待っていた雫お姉ちゃんの声は、冷徹なまでに凪いでいた。 私は制服を脱ぎ捨て、エプロンを締め、髪を束ねる。鏡に映った自分の顔は、図書室で手紙を読んだ時の柔らかな表情ではなく、莉奈と対峙していた時の「戦う目」になっていた。
今夜の課題は、二品目――『牛フィレ肉のロッシーニ風』。 深紅のフィレ肉、白く重厚なフォアグラ、そして黒いダイヤと呼ばれるトリュフ。食材たちが放つ威圧感は、湊兄さんの手紙に書かれていた「全国の怪物たち」の存在感とどこか重なって見えた。
「始めなさい。肉の芯温、54℃の静謐。フォアグラの表面、一瞬の爆ぜるような香ばしさ。その両方を、ペリグーソースの芳醇な闇で包み込むのよ」
お姉ちゃんの言葉を背に、私はフライパンに火を入れた。
ジュッ、という激しい音とともに肉を置く。指先で弾力を確かめる。
(陽太。あなたが雨の中でラケットを振り抜いた時、その腕にはどれほどの重圧がかかっていたの?)
私は自分の手の甲に飛んだ熱い油の痛みさえ、陽太が受けた「洗礼」の痛みの欠片のように感じて、あえて唇を噛んで耐えた。
フィレ肉を休ませる間に、フォアグラに取り掛かる。 強火で一気に表面を焼き固め、中をクリーミーに保つ。一秒の遅れが、フォアグラをただの「脂の塊」に変えてしまう。 ソースを煮詰め、トリュフの香りを移す。キッチンに満ちる、眩暈がするほどの重厚な香り。
「……できました」
震える手で盛り付け、一皿を完成させる。 深紅の肉の上に、黄金色のフォアグラが鎮座し、漆黒のソースがそれを祝福するように流れている。
お姉ちゃんは無言でナイフを入れた。 断面から覗く、完璧なロゼ色。 ゆっくりと口に運び、咀嚼し、嚥下する。その数秒間が、永遠のように長く感じられた。
「……ええ。及第点よ」
お姉ちゃんの唇から、初めて二品目の「許し」が出た。
「肉の火入れ、フォアグラとの一体感。あなたが今、何か強い意志を持って包丁を握っているのが伝わってきたわ。……でも忘れないで。私の誕生日はあと四日。本番は、すべての皿が完璧に調和していなければならないのよ」
「……はい」
私は深く息を吐き、自分の手元を見つめた。 陽太が這い上がった「四日目」の輝きに、私は今日、ようやく追いつけたのかもしれない。 けれど、この先に待つのは、お姉ちゃんの誕生日という名の「審判の日」。
外は依然として雨が降り続いていたけれど、私の胸の中にある炎は、このロッシーニのソースのように濃密に、そして静かに燃え続けていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
進み早すぎかな?
一気に半分進みました。
次は雫誕生日の前日のエピソードになります。




