秋空のピクニックとお弁当
九月三十日、月曜日。
振替休日の朝、窓の外は抜けるような秋晴れが広がっていた。私はまだ薄暗い午前五時半に目を覚まし、そっとベッドを抜け出した。
「……よし、頑張らなきゃ」
この一週間は星和祭の準備と料理の練習でプレゼントを選ぶ時間がなかった。昨日の夜、星和祭の片付けを終えて帰宅してから、慌ててお姉ちゃんに泣きついたのだ。
『お姉ちゃん、明日陽太の誕生日なの! お弁当作りたいからコツを教えて!』
そう言って、夜遅くまでキッチンの隅で、野菜の切り方や味付けの優先順位を叩き込まれた。鶏肉を特製のタレに漬け込み、冷蔵庫で一晩寝かせる「事前準備」を終えたのは、日付が変わる直前だった。
キッチンに立つと、まだ少し冷んやりとした空気が肌を刺すけれど、コンロに火を点けると同時に、私の胸にも心地よい緊張感が灯る。
まずはメインの唐揚げだ。
「二度揚げがカリッとさせるコツ……昨日お姉ちゃんが言ってた通りに」
一晩じっくり寝かせて味が染みた鶏肉を、慎重に油に投入する。パチパチという軽快な音が静かな台所に響き、食欲をそそる香ばしい匂いが広がり始めた。
「……あら、ちゃんと早起きできたわね」
パジャマ姿のお姉ちゃんが、大きなあくびをしながらキッチンに現れた。
「あ、お姉ちゃん、おはよう。昨日は遅くまでありがとう」
「いいのよ。ほら、その卵焼き、もう少し弱火にしないと焦げちゃうわよ。味付けは、陽太くん好みの甘めにしたんでしょ?」
姉に見守られながら、慎重にフライパンを動かす。昨夜教わった通り、三回に分けて卵液を流し込み、丁寧に巻いていく。少し形は不格好かもしれないけれど、黄金色に焼き上がった卵焼きに、「陽太、喜んでくれるかな」と独り言が漏れる。
「できた……!」
時計を見ると、時刻は午前八時前。キッチンを片付け、お弁当を二段の箱に詰めてチェック柄のクロスで結び終えた頃には、部屋に柔らかな朝陽が差し込んでいた。
「昨夜の付け焼き刃とは思えない出来ね。きっと陽太くん、一口食べるたびに感動しちゃうわよ」
お弁当箱に詰めきれなかった唐揚げや卵焼きがお皿に残っているのを見て、私はちょうどリビングに顔を出した湊兄さんに声をかけた。
「兄さん、おはよう。……あの、これ、お弁当のおかずを多めに作ったから、残ったもの置いておくね。後でお姉ちゃんと一緒に食べてみて。……その、味見も兼ねて、感想聞かせてほしいな」
湊兄さんは一瞬、テーブルの上のお皿と私を交互に見て、ふんと鼻を鳴らした。
「……朝から騒がしいと思えば。毒見くらいはしてやる」
そっけない言葉だったけれど、湊兄さんはそのままキッチンへ歩み寄り、箸を取った。その様子をお姉ちゃんが隣でニヤニヤしながら眺めている。
「さて、主役への連絡は?」
私は手を洗って、スマートフォンを手に取った。少し震える指先で、陽太にメッセージを送る。
みゆ:おはよう!陽太、お誕生日おめでとう。今日、10時に海浜公園の時計塔の前で大丈夫かな? 楽しみにしてるね。
送信ボタンを押すと、すぐに「既読」がついた。
陽太:おはよう。ありがとう! 10時、了解。俺も今起きて、ちょうど連絡しようと思ってたんだ。楽しみすぎて、あんまり眠れなかった。
画面越しの陽太の照れた顔が浮かんで、私も思わず口元が緩む。約束の十時までは、まだ二時間弱ある。髪を整えて、お気に入りの服に着替える時間はたっぷりあるけれど、今の私は期待と緊張で、立っているだけで胸がいっぱいだった。
三週間後の選抜合宿のことや、湊兄さんの厳しい言葉。不安は完全には消えないけれど、今日だけは、十三歳になった陽太の笑顔だけを見ていたい。
私はお弁当の温もりを大切にバッグにしまい、鏡に映る自分に向かって小さく頷いてから、ゆっくりと家を出た。
海浜公園の時計塔が見えてくると、私の歩調は自然と早くなった。潮風が心地よく頬を撫で、秋の陽光が水面をキラキラと輝かせている。
待ち合わせの十分前。けれど、時計塔の下にはもう、見慣れた後ろ姿があった。
いつものテニスウェアやジャージ、体操服ではなく、ネイビーのパーカにチノパンというカジュアルな私服姿。少し落ち着かない様子で海を眺めている陽太の背中は、学校で見るよりも少し大人びて見えた。
「陽太!」
私が声をかけると、彼は弾かれたように振り返った。
「あ、みゆ! ……早いな、まだ十分前だぞ」
「陽太こそ。……あ、お誕生日おめでとう!」
「……サンキュ。その、わざわざ時間作ってくれて、嬉しいよ。私服のみゆも……その、すごく似合ってる」
陽太は照れくさそうに視線を逸らし、自分でも無意識なのか、短く切りそろえられた襟足を何度も触っている。私もなんだか気恥ずかしくなって、バッグの中の重たいお弁当を抱え直した。
「お弁当、お昼に食べようね。それまで、少し歩かない?」
「ああ、そうだな。せっかくの休みだし、ゆっくりしようぜ、荷物おおいだろ?俺が持つよ」
私たちは潮騒が聞こえる遊歩道を歩き出した。
午前中の柔らかな光の中、家族連れや犬の散歩をしている人たちが通り過ぎていく。学校の廊下で会うのとは違う、少しだけ遠い距離感。でも、歩くたびに時折手が触れそうになる近さに、心臓がずっと騒がしい。
「……なぁ、みゆ。昨日言ってた合宿のことだけどさ」
陽太がふいに海を見つめながら切り出した。
「十月二十三日から二週間だろ。湊さんと一緒に、スマホも預けて……。正直、テニスができるのは楽しみだけど、そんなに長くみゆと連絡取れないのは、ちょっと想像つかないな」
「私もだよ。……でも、昨日兄さんと一緒に帰った時、兄さんね、スポーツ推薦が決まってるんだって教えてくれたの。合宿も、高等部のエースになるための準備なんだって。陽太も、それくらい期待されてるってことだよね」
陽太は少し驚いたように眉を上げた。
「湊さん、もうそんな先まで……。やっぱり、あの人はすごいな。でも、俺も負けてられない。合宿までの三週間、もっと追い込まなきゃダメだ」
「もう、今日は誕生日なんだから、テニスの話は少しお休み!」
私が少し膨れてみせると、陽太は「あはは、ごめん」と、いつもの少年らしい笑顔を見せた。
公園内の売店で、陽太が「喉乾いたろ?」と飲み物を買ってくれた。二人で桟橋に座って、海を眺めながら他愛もない話をする。クラスが違うから、最近流行っている歌のことや、お互いのクラスの面白い友達のこと。
話は尽きなくて、気づけば太陽は真上に昇り始めていた。
「……お腹、空いてきたな」
陽太が期待に満ちた目で、私の足元にある保冷バッグを見つめる。
「ふふ、じゃあ、あそこの芝生広場に移動しよっか。とっておきの場所、見つけてあるんだ」
遊歩道を抜け、私たちは大きなクヌギの木が涼しげな木陰を作っている芝生広場の隅へと移動した。家族連れの賑やかな声も程よく遠ざかり、耳に届くのは木々のざわめきと、時折聞こえる海鳥の声だけ。
「ここなら、ゆっくり食べられそうだね」
「ああ、最高の場所だな」
レジャーシートを広げると、陽太が「バッグ、置くのここでいい」と私のバッグを丁寧に置いてくれた。私は膝の上で、今朝一生懸命結んだチェック柄の包みをそっと解く。
「……はい、どうぞ。お誕生日おめでとう、陽太」
二段重ねのお弁当箱の蓋を開けると、そこには彩り豊かなおかずたちが、秋の陽光に照らされてキラキラと並んでいた。
「うわっ、すげぇ……! 昨日の今日で、これ全部……?」
「うん。唐揚げは二度揚げして、卵焼きは陽太が好きな甘めの味付けにしたよ。……タコさんウインナーの黒ゴマ、ちょっとズレちゃったけど」
陽太は食い入るようにお弁当箱を見つめ、それから小さく「いただきます」と手を合わせた。
少し震える手で割り箸を割ると、まずは一番大きな唐揚げを口に運ぶ。私は自分の鼓動が耳元まで響くのを感じながら、彼の反応をじっと待った。
陽太が一口、しっかりと噛みしめる。
「…………っ!」
「……どう、かな?」
陽太は無言で飲み込むと、間髪入れずに卵焼き、そしておにぎりへと次々に箸を動かした。頬をリスのように膨らませて懸命に食べている。
「陽太? 美味しくない……?」
不安になって顔を覗き込むと、陽太は慌ててお茶を飲み込み、少し潤んだような瞳で私を見た。
「……逆だよ。美味しすぎて、止まらなかった。卵焼き、本当にちょうどいい甘さだし……唐揚げも、家のより好きかもしれない」
「本当……? よかった……!」
「ああ。……なんかさ、これをみゆが今朝早く起きて作ってくれたんだって思うと、胸がいっぱいになってさ。今日は、世界で一番幸せな誕生日だよ」
陽太は照れくさそうに鼻をすすり、それから大切そうに最後の一つになったタコさんウインナーを口に運んだ。
「さっき兄さんにも味見してもらったって言ったけど、兄さんね、全部食べた後で『……次は、もっと米の炊き加減にこだわれ』って言ってたんだよ」
「あはは! 湊さん、めちゃくちゃ厳しいな。でも完食したってことは、認めてる証拠だろ」
笑い合う二人の間に、柔らかな風が吹き抜ける。
陽太はお弁当箱を空にすると、ふと真面目な顔をして、私の手をシート越しにそっと握った。
「みゆ。俺、三週間後の合宿……絶対に負けないで帰ってくるよ。今日のみゆのお弁当の味を、お守りにして頑張るから」
握りしめられた陽太の手は、昨日の夜よりもずっと温かく、力強かった。
三週間後の離ればなれ。不安は消えないけれど、お弁当を完食してくれた彼の笑顔があれば、私も同じ時間、自分の場所で戦える。そんな確かな実感が、私の胸の奥に静かに広がっていった。
お弁当をきれいに完食して、お茶を飲み終えた頃。心地よい海風と、お腹がいっぱいになった安心感、そして今朝五時半から張り詰めていた緊張が解けたせいか、急に強い眠気が私を襲ってきた。
「ふぁ……あ、ごめん……」
思わず小さなあくびを零して涙目になった私を見て、陽太が優しく目を細めた。
「みゆ、あんまり寝てないんだろ? お弁当の準備、昨日も遅くまでやってたって言ってたし」
「ううん、大丈夫だよ。せっかくのデートなのに……」
「無理すんなって。ほら……」
陽太はそう言うと、芝生の上に座り直して、自分の太ももをポンポンと叩いた。
「しばらく膝枕してやるから、少し寝ていいぞ」
「えっ……!? そ、そんなの恥ずかしいよ……!」
顔が火が出るほど熱くなる。いくら周りに人が少ないとはいえ、外で陽太に膝枕をしてもらうなんて、中学一年生の私には刺激が強すぎる。
「誰も見てないよ。それに、みゆが頑張ってくれたお返し。……な?」
陽太の少し照れくさそうな、でも真っ直ぐな瞳に見つめられて、私の抵抗はあっさりと崩れ去った。
「……じゃあ、お言葉に甘えるね。……少しだけだよ?」
おずおずと陽太の膝に頭を預けると、想像していたよりもずっと逞しい筋肉の感触と、陽太のパーカから漂う清潔な石鹸のような香りが鼻先をくすぐった。
「……おやすみ、みゆ」
陽太の大きな手が、私の耳元にかかった髪をそっと撫でる。その指先が少しだけ震えているのが分かって、彼も本当はすごく緊張しているんだな、と思うと愛おしさがこみ上げてきた。
まぶたを閉じると、遠くの潮騒が子守唄のように聞こえる。
陽太の体温を感じながら、私は深い、幸せな微睡みの中へと落ちていった。
一時間ほど経っただろうか。
頬を撫でる風が少し冷たくなったのを感じて目を覚ますと、陽太は動かずにずっと海を眺めていた。
「……あ、起きたか?」
「陽太……ごめん、私、本当に寝ちゃって……。足、痺れてない?」
「全然。……寝顔、可愛かったぞ」
さらっと言われた言葉に再び顔を赤くしながら、私はゆっくりと起き上がった。夕暮れが近づき、空は少しずつ茜色に染まり始めている。
「……みゆ。俺、今日のこと、ずっと忘れない。合宿中も、この温かさを思い出して頑張るから」
陽太は私の手をぎゅっと握りしめ、街灯の灯り始めた並木道で私を見つめた。
重なった唇から伝わってきたのは、中学一年生の私たちにできる、精一杯の約束と誓い。
「……大好きだよ、みゆ。合宿から帰ってきたら、また……お弁当、作ってくれるか?」
「……うん。もっと美味しく作れるように、特訓しておくね」
十三歳になった陽太の笑顔を目に焼き付けて、私たちは家路に就いた。
家に着くと、リビングからカレーの香りが漂ってきた。
「……ただいま、兄さん」
キッチンで皿を片付けていた湊兄さんが、一度だけこちらを振り返った。
「……門限三分前だ。少しはマシな顔になったようだな」
湊兄さんの背中はどこか穏やかだった。
明日からはまた、厳しい練習の日々が始まる。
でも、私はもう迷わない。陽太の隣にふさわしい私になれるよう、私も私の場所で、全力で走り出そう。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
陽太とのデート風景でした。
これで8章のメインエピソード完結です。




