夕暮れの後夜祭、進む覚悟と決心
旧校舎裏へと続く渡り廊下は、先ほどまでの熱狂が嘘のように静まり返っていた。校舎の長い影が足元まで伸び、少しずつ夜の気配が濃くなっていく。遠く中庭から聞こえてくるキャンプファイヤーの爆ぜる音と、フォークダンスの柔らかなメロディが、祭りの終わりを告げる切なくも美しい旋律となって響いていた。
約束のベンチに近づくと、そこには少し落ち着かない様子で、運動靴の先で地面を弄っている陽太の姿があった。
「陽太!」
私が声をかけると、彼は弾かれたように顔を上げた。夕焼けの残光を背負った彼のシルエットは、いつもの少年らしさに加えて、地区大会を戦い抜くアスリートとしての凛々しさを帯びて見えた。
「……みゆ。遅かったな。湊さんに止められてたのか?」
「ううん。兄さんがお姉ちゃんを正門まで送りに行って、その帰りに私をここまで送ってくれたの。『時間は守れよ』って少し呆れ顔だったけど、ちゃんと背中を押してくれたよ」
お姉ちゃんは星和祭が終わると同時に、「楽しかったわ、ありがとう」と満足そうな微笑みを浮かべて帰路についた。湊兄さんはそんな姉を見送ったあと、私の前で一度足を止め、「……今日のコーヒーは悪くなかった。行ってこい」と静かに言ってくれたのだ。
私は陽太の隣に、少し遠慮がちに腰を下ろした。陽太の肩の温もりに触れると、張り詰めていた気持ちが少しだけ解けていく。
「……みゆ。さっき瑛太から聞いたよ。お前の店に他校の変な奴らが来たんだってな」
陽太の声が急に低くなり、彼は私の右手をそっと、壊れ物を扱うような優しさで包み込んだ。
「……ごめん。俺が近くにいれば良かった。彼氏なのに、お前が一番困ってる時にそばにいてやれなくて……」
陽太の手が、悔しさで微かに震えている。その真っ直ぐな想いが痛いほど伝わってきた。
「ううん、大丈夫だよ。みんなが助けてくれたし、お姉ちゃんもいたから。陽太がお化け屋敷で頑張ってたのは知ってるよ」
私が微笑んで答えると、陽太は私の目を見つめ、これまでにないほど真剣な瞳を向けた。
「……なぁ、みゆ。俺、もっと強くなりたいんだ。お前が誰に対しても胸を張って『私の自慢の彼氏だ』って言えるくらいの男になって……もっと、次のステップに進みたいんだ」
「次のステップ……?」
聞き返すと、陽太は顔を真っ赤に染めながらも、視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「……今の『部活の合間に少し話すだけ』じゃなくて、もっと、ちゃんと二人で……これから先もずっと一緒にいられるように、もっと深い付き合いをしたい。湊さんに反対されても、俺はもう絶対に逃げないから」
陽太の覚悟に胸が熱くなる。でも、湊兄さんのことも大切にしたい私は、複雑な想いを抱えながらも、彼の手を優しく握り返した。
「ありがとう、陽太。……でもね、私、今日はもう一つ大切な話があるの」
「大切な話……?」
不思議そうに首をかしげる陽太の顔を覗き込み、私はわざと少しだけ頬を膨らませた。
「陽太、もしかして忘れてる? 明日のこと」
「明日? ……明日は文化祭の振替休日だろ? ゆっくり寝て、昼から湊さんと自主練の約束をしてたような……」
「もう、やっぱり忘れてる! 明日は九月三十日。陽太の誕生日でしょ?」
私の指摘に、陽太は「えっ」と声を漏らして絶句した。
「……あ! 本当だ、九月三十日……。星和祭の準備が忙しすぎて、自分の誕生日のことなんて頭から完全に抜けてた……」
呆然とする陽太がおかしくて、私は小さく笑ってしまった。
「ふふ、自分でも忘れちゃうなんて陽太らしいね。だからね……明日、二人でお出かけしない? 振替休日だし、誕生日のお祝いをさせてほしいの。兄さんには、私からちゃんと話しておくから」
「デート……のお誘い? みゆから?」
「うん。……ダメかな?」
上目遣いで尋ねると、陽太の顔はみるみるうちに耳まで真っ赤になった。
「ダメなわけないだろ! ……嬉しい。めちゃくちゃ嬉しいよ」
「よかった。じゃあ約束ね。明日は特別な日だから、私、お弁当作っていくね。陽太の好きなもの、いっぱい詰め込むから楽しみにしてて」
「みゆの手作り弁当……。なんだか、試合より緊張してきた」
陽太がゆっくりと顔を近づけてくる。
遠くでキャンプファイヤーの大きな炎が爆ぜ、夜空を焦がした。重なった唇から伝わるのは、甘酸っぱくて、けれど少しだけ背伸びをした、今の私たちにできる精一杯の誓いと、明日への期待。
「……約束だよ、陽太。明日は、世界で一番幸せな誕生日にしようね」
「ああ、約束だ。……みゆ、大好きだよ」
夜風が火の粉を運び、私たちの周りを舞う。
「……よし、そろそろ行こうぜ。フォークダンス、もう始まってるしな」
陽太が照れくさそうに鼻をすすり、私の手を引いて立ち上がった。旧校舎裏の静寂から一転、中庭に近づくにつれて、パチパチと薪が爆ぜる音と、賑やかなオクラホマ・ミキサーの調べが大きく響いてくる。
中庭の中央には、天を衝くような巨大なキャンプファイヤーが赤々と燃え盛っていた。火の粉が星空に溶け込んでいく幻想的な光景の中、大勢の生徒たちが大きな輪を作って踊っている。
「みゆ! 河村くん! こっちこっち!」
輪の中で弾けるように踊っていた美咲が、こちらに気づいて大きく手を振った。
「ほら、次でパートナー交代だよ! 早く入って!」
陽太と顔を見合わせ、私たちは少し気恥ずかしさを感じながらも、その大きな輪の端へと滑り込んだ。陽太のゴツゴツとした、けれど温かい掌。音楽に合わせてステップを踏むたび、心が弾む。
けれど、フォークダンスのルールは非情だ。メロディの区切りとともに、パートナーは次々と入れ替わっていく。
「あ、また後でな!」
陽太が次の女子へと送られ、私の目の前に現れたのは――。
「……遅いぞ、みゆ」
腕章を外し、制服のボタンを少しだけ緩めた湊兄さんだった。
「あ、兄さん!? なんでフォークダンスに……」
「実行委員の巡回だ。だが、輪を乱すわけにもいかんからな」
湊兄さんは事務的な口調で言いながらも、淀みのない動作で私の右手をとり、左手を私の背に添えた。そのエスコートは驚くほど正確で、優雅だった。
キャンプファイヤーの炎が、兄さんの鋭い横顔を赤く照らし出す。
「……陽太と、何を話していた」
「えっ、それは……内緒だよ。あ、でもね、兄さん。……明日のことなんだけど」
私はステップを踏みながら、意を決して湊兄さんの目を見た。
「明日、文化祭の振替休日でしょう? 私……陽太とお出かけしてきてもいいかな」
湊兄さんの眉が、ピクリと動く。「二人でか?」
「……うん。あのね、明日は陽太の誕生日なの。九月三十日。だから、ちゃんとお祝いしてあげたくて。……ダメ、かな?」
湊兄さんはしばらく無言で私を見つめていた。パチパチとはぜる火の粉の音が、異様に大きく聞こえる。
「……勝手にしろ。ただし、羽目を外すな。門限の一分でも遅れたら、次はないと思え」
「!……ありがとう、兄さん!」
私が思わず手に力を込めると、湊兄さんはふいと視線を逸らした。
「勘違いするな。今日まで実行委員の仕事で忙しかった分、明日は俺もゆっくり休みたいだけだ。お前が家にいて騒がしいよりはマシだからな」
湊兄さんらしい不器用な許可。その背中越しに見守ってくれている気配を感じて、胸の奥が温かくなる。
曲が終わり、最後のポーズが決まった瞬間。陽太が人混みをかき分けて、私たちの元へ駆け寄ってきた。
「湊さん! みゆを返してもらいますよ!」
「……やれやれ。騒がしい奴だ。明日は許可してやったが、門限は守れと言ったはずだぞ」
「えっ、許可……!? 湊さん、本当にいいんですか!?」
陽太が驚きと喜びで顔を輝かせた、その時。
二人のスマートフォンが、同時に、そして執拗なまでに激しく震えた。
「なんだ? こんな時間に……」
陽太が怪訝な顔で画面を覗き込む。
私もカバンからスマホを取り出し、通知を確認した。
そこには、テニス部顧問の先生からの緊急連絡と、一つのPDFファイルが添付されていた。
【重要】ジュニアナショナル選抜合宿・招集メンバー選出のお知らせ
「……ジュニアナショナル、選抜……?」
陽太の呟きは、周囲の歓声にかき消されてしまいそうなほど小さかった。けれど、その瞳にはキャンプファイヤーの炎よりも熱く、鋭い光が宿り始めていた。
スマートフォンの画面を食い入るように見つめる陽太。そこには、全国から選りすぐられた数名のみが招待される、強化合宿の詳細が記されていた。
私はふと、隣に立つ兄さんの存在を思い出した。これほどの名誉ある通知なら、当然、星和高校のエースである兄さんのもとにも届いているはずだ。
「……兄さん。兄さんのところにも、同じ通知が来てるの?」
私の問いに、湊兄さんは無言でポケットからスマートフォンを取り出し、画面をこちらに向けた。そこには、陽太のものと同じ『招集メンバー選出のお知らせ』が表示されていた。
「……当然だ。俺がこのチャンスを逃すとでも思ったか」
湊兄さんの声は揺るぎない自信に満ちていた。
「だが陽太、お前は理解しているのか? 画面をスクロールしてみろ」
湊兄さんに促され、陽太が画面を操作する。そこには、非情なまでの制限事項が並んでいた。
『合宿期間中、私生活における外部との接触、私用スマートフォンの携帯を一切禁ずる。また、期間中の面会は原則として認めない』
「……連絡が、取れなくなるってこと?」
私の声が震えた。今まで、どんなに練習が忙しくても、LINEや電話で繋がっていることが私の心の支えだった。けれど、この合宿は物理的にも精神的にも、二人を「テニスだけの世界」へと隔離することを意味していた。
「……ああ。情を捨て、己を研ぎ澄ませる者だけを選別する『聖域』だ。陽太、お前のような甘い奴に、この静寂に耐えられるか? 合宿は三週間後の十一月二十三日からだ。期間は二週間」
「十一月二十三日……。あと三週間しかないってことか」
陽太が私を振り返る。その瞳には、選ばれた名誉と、二週間も私と離れることになる寂しさ、そしてこれから始まる過酷な日々への覚悟が混ざり合っていた。
「……だったら、なおさら明日は最高の誕生日にしなきゃね」
私は震えそうになる手をギュッと握りしめて、笑ってみせた。
「合宿まであと三週間。その三週間を全力で戦い抜けるように、明日はお弁当、気合入れて作るからね!」
湊兄さんはそんな私たちを複雑な眼差しで見つめ、最後に一言だけ告げた。
「……陽太。浮かれるのは明日までにしておけ。三週間後、そこは情を捨てた者だけが生き残れる『聖域』だ。俺に置いていかれたくなければな」
キャンプファイヤーの火が少しずつ小さくなり、夜の冷気が忍び寄ってくる。明日の誕生日。それは、二人がさらなる高みへと旅立つ前の、かけがえのない、そして決意に満ちた一日になろうとしていた。
陽太は仲間たちとの片付けがあるからと、一度部活動のエリアへと戻っていった。
星和祭最終日の夜。校庭の喧騒を背に、夜の帳が降りた静かな帰り道を、私と湊兄さんは並んで歩いていた。街灯の下、二人の長い影が交互に伸びては消えていく。
私は、明日の陽太の誕生日に二人で出かける許可をもらえた嬉しさと、さっき届いた「選抜合宿」への不安を抱えながら、ずっと胸に引っかかっていたことを、意を決して口にした。
「ねぇ、兄さん。選抜合宿のことなんだけど……本当に行くんだよね? ……でも、兄さんは今、三年生でしょ? 高校入試、大丈夫なの……?」
周りの同級生たちは、今まさに受験勉強で追い込みの時期。二週間もテニス漬けになり、外部との連絡も断たれることが、兄さんの進路に響かないか不安だった。けれど、兄さんは前を見据えたまま、落ち着いた声で答えた。
「受験なら心配ない。内部進学という形にはなるが、既に星和学院高等部へのスポーツ特別推薦が内定している。この合宿への参加も、高等部側から『次世代のエースとして経験を積むように』と快諾されているんだ。評定も既に基準を十分に満たしている。俺の計画に狂いはない」
星和学院高等部。今私たちが通う中等部と同じ敷地内にありながら、あの高い塀の向こう側にある高等部校舎は、中学生の私たちにとってはどこか遠い別世界のように感じられる場所だ。そこへの切符を既に掴み、さらにその先を見据えて合宿に臨む兄さんの姿に、私は圧倒された。
「……すごいね、兄さん。私、自分のことばっかりで、兄さんがそんなに先まで見据えて戦ってるなんて知らなかった。春からは、あっちの校舎に行っちゃうんだね」
少し寂しさを感じて俯いた私に、湊兄さんの大きな手が、ポンと頭に乗せられた。それはいつもの厳格な「水瀬湊」ではなく、どこか不器用な優しさを孕んだ、兄としての温もりだった。
「校舎が離れても、やるべきことは変わらん。みゆ。合宿まであと三週間強、そして合宿中の二週間……お前も自分の役割を見失うな。部活動も、学業もだ。寂しさに負けて足を止めるような妹に、俺は背中を預けるつもりはない」
兄さんの真っ直ぐな言葉が、迷っていた私の背中を優しく叩く。
「明日の許可は出した。だが、それ以降はお前も部活を頑張れ。いいな?」
「……うん。わかってる。私も、テニス部頑張るよ。兄さんたちが帰ってきたとき、『頑張ったね』って言ってもらえるように」
兄さんの励ましに、私の胸の奥に小さな勇気が灯った。
明日は九月三十日、陽太十三歳の誕生日。
二人の留守を預かる「強さ」を身につける前に、まずは明日という大切で特別な日を、精一杯お祝いしよう。
星空の下、私たちはそれぞれの決意を胸に、静かな家路を辿っていった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
メインの8章は次で完結です




